高校生の頃だったろうか、
妹が中原中也の詩集を買ってきた。
どうした?という気持ちで借りて読んでみた。
その中にあった
「汚れつちまつた悲しみに」
誰もがどこかで聞いたことがあるくらい有名な詩に、初めてきちんと向き合った。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪のふりかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革ごろも
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
懈怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる
何回読んでも、全く意味が分からなかった。
「悲しみ」が「汚れる」ってどういうこと?
この言葉達に何の理解も共感も持つことが出来ず、詩を読み解く感性が自分には無いのだということだけを理解して、本を閉じた。
それから、どのくらい経った頃だったか、
小林秀雄の「中原中也の思い出」を読んだ。
8ページ程の短い作品。
小林秀雄がみた中也の悲しみが綴られていた。
「中原の心の中には、実に深い悲しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであったと私は思っている。彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なずけるに足りなかった。(中略)
言い様のない悲しみが果てしなくあった。私はそんな風に思う。
彼は、自己を防禦する術をまるで知らなかった。
世間を渡るとは、一種の自己隠蔽術に他ならないのだが、彼には自分の一番秘密なものを人々と分かちたい欲求だけが強かった。その不可能と愚かさを聡明な彼はよく知っていたが、どうにもならぬ力が彼を押していたのだと思う。
(中略)
それは確かに在ったのだ。彼を閉じ込めた得態の知れぬ悲しみが。彼は、それをひたすら告白によって汲み尽くそうと悩んだが、告白するとは、新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである。」
ここに書かれている純粋な「悲しみ」は若き日の中也に、生涯を「言葉」と真摯に向き合って生きた小林秀雄自身の想いが重なったものなのかなと、今振り返って思う。
言葉は悲しい。
一番大切なものが伝わりそうで伝わらない。
言葉にしようとすると変質してしまうもの、言葉をつくすほどに遠ざかってしまうもの。
純粋な悲しみが誰かの冷ややかな視線に、縮こまって震えている。
中原中也と小林秀雄
不思議な因縁の二人
若き日の苦しい経験を経ても、最後まで親交を続けた。
間違うことを許さない風潮の今の世でも可能なのかな。
悲しみとゆっくり向き合う時間が、
今も、誰にも、許されていたら良いのにと思う。