部活にしても学校にしても、仕事にしても、今まで自分が
「できる人の方に合わせろ、できないやつは必死でついて来い」
っていう環境だったことが大きいんだろうけど、
プライベートはまだしも仕事の上で
「できない方に合わせろ」っていうのはどうも納得がいかんな・・・。
できない方が本当の新人さんだったり、明確な努力をしているのならまだしも、
そうじゃなかったら気付いてやったもの損になって、気付く人の負担が
どんどん増えるだけな気がするんだけどなー。
部活にしても学校にしても、仕事にしても、今まで自分が
「できる人の方に合わせろ、できないやつは必死でついて来い」
っていう環境だったことが大きいんだろうけど、
プライベートはまだしも仕事の上で
「できない方に合わせろ」っていうのはどうも納得がいかんな・・・。
できない方が本当の新人さんだったり、明確な努力をしているのならまだしも、
そうじゃなかったら気付いてやったもの損になって、気付く人の負担が
どんどん増えるだけな気がするんだけどなー。
営業をやってた時に読んだ本を何となく読み直した。
「~たらし」というと、小学校の時に「男ったらし」だとか「女ったらし」だとか
わーわー言った言われてたトラウマ?なのか、全くいいイメージがなく、むしろ嫌悪感を
覚える言葉だけど、「人たらし=頭が切れる」というのはそうなのかもな、と
少し肯定的に思えてきた。
人たらしにしても、男ったらし・女ったらしにしても、相手がどんなことをしてもらったら
喜んでくれるのかわかんなかったら、そんな風になれんしなー。
ほぼ日の「今日のダーリン」。
確かに!!ものすごく納得。
・同じ仕事を何年もやっていくうちに、
それまでにできなかったことが、
できるようになったりしていきます。
新人のころには、ものすごい難題に見えたことでも、
その難しさの正体がわかったら、やり方が見えます。
経験の浅いころには、
「できないかもしれない」と思いながらやってたことも、
やがては、「できる」と思ってやれるようになります。
・じぶんのことを考えても、そういうものでした。
世界中の悩みを一手に引き受けたような顔をして、
ひとつのコピーを書くのに、天井を見つめたり、
公園に出かけて空気を変えようとしたり、
ヒントになりそうな本を虚ろな目で読み出したり、
腕組みして周囲をにらみつけてみたり、
やっていたことがあるんです、ぼくも。
「できる」という感触を知らないものですから、
わけのわからない恐怖が背中に張り付いてるんです。
「できない」ような気がしているから、苦悩するんです。
「できたことがある」ということが増えていくと、
「このあたりは、あれに似てるな」とか、
「ここはスキがあったほうがいいんだ」とか、
解決への道筋が明るく見えてきます。
そうなってはじめて、ほんとうに考えることが、
できるようになっていくのだと思います。
・あの日からの、ぼくらの目の前や、ぼくらの背後には、
経験したことのなかった状況が現われました。
はじめてだし、暗いし、見えないのだから、
「考える」ことにたどりつくより前に、
「悩む」ことでこころがいっぱいになります。
ぜんぶを解決する魔法の方程式みたいなものは、
おそらく、ないのだと思います。
「これはできた」「ここはわかった」「これだけ進んだ」
というような、みんなの手探りの経験の総和が、
ぼくらの手に入れた財産であり、材料だと思います。
失敗も含めた材料が、やっと揃いはじめたいま、
やっと「考える」ための時がやってきたのかもしれない。