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バリー・ロングの教え

バリー・ロング(Barry Long: 1926 – 2003)著作の「死するは恐れのみ」(Only Fear Dies)の第2章を日本語に訳しました。

「不幸体」の実体は全て心の感情的な痛みから成っているので、これを「感情体」と呼ぶことにします。

 

あなたの「感情体」は、その意のままに全て事が進むわけではありません。あなたの「ありのまま」の安らかな存在により、それは侵食され続けているのです。実際、あなたが愛で満たされる瞬間や深い神秘性に触れられる時は、「感情体」は減じてゆきます。しかし、それ以外の時は、不幸の原因が無視され続けられているため、「感情体」は補充され続け、それによりあなたは自分の不幸な気分や落ち込みと、人生をともにせざるを得なくなっているのです。「ありのまま」の存在であるあなたが活発な時は、「不幸体」は休眠状態にあります。「不幸体」が活発な時は、あなたが休眠状態にあります。それぞれが一つの体のなかで主役を担いあうのです。

 

とても変わった生き方と言えるでしょう。誰もがこのように生きているで、これが「普通」なのだと思われています。それは確かなのですが、決して「自然」ではありません。

 

普通であるものは自然ではありません。

 

人間の自然の有り様は内なる歓喜です。あなたは、行き交じわう感情の裏で、歓喜なのです。そして、普通であるものとは違い、自然の歓喜、内なる至福には「反対の極」がありません。

 

 

今までの不幸な経験は、あなたの「不幸体」の中で今もなお生きています。幼児期からの痛みは、全て未だそこにあるのです。ロッカールームで泣いたとき、親友を失ったとき、学校でいじめられたとき、寂しさと不正のあまりやつれ、苦悩したときなどからの、慰められることのなかった不幸な子どもたち(感情)は、大人になったあなたの中で泣き続けているのです。

 

それら初期の感情は、その痛みと孤独をもって、あなたの中で互いに引き合い、融合していきました。一つ一つの生ける気持ちが重なり合うと、あなたの腹部を中心とした、悲しい、寂しい感情の「玉」へと圧縮されました。

 

幼児期の間、この小さな気分屋の不幸の「玉」は、まだそれ程に強くはありませんでした。あなたは簡単に気をそらすことができ、ずいぶんと早く陰気な自己憐憫を振り捨てることが出来ました。しかし、思春期を迎えると事は変わりました。

 

思春期になると、純粋な性エネルギーが到来します。これは、自然の体には純粋に働きかけますが、「不幸体」に対しては違った役割を担います。

 

本来幸せである肉体においては、性と生殖のエネルギーの流入は、純粋な感覚的知恵と力をもたらします。そして、その深く豊かな影響の下で、思春期の間、肉体は自然に美しく成熟します。さらに、この新しいエネルギーから、他の体の中にも自然の喜びや歓楽を生み出させるという、自然の神聖な能力を徐々に授かっていきます。他の体というのは、愛を完璧に、本能的に交歓し合うことのできる本来幸せの体、そしてその交わりより自然と生まれる赤ん坊の幸せの体のことです。 

 

これこそが地球における命と愛の極めて美しく、かつ完璧に実践的なデザインでした。そして、あなたが望むのであれば、今もそうです。動物の中でも人間のみが持つ「自意識」と相まり、この惑星における生命現象に意識的に参加することへの歓楽と驚嘆が、肉体の中で膨張し続けるという結果をもたらすはずでした。しかし、「感情体」の存在がこれをを台無しにしてしまいました。

 

不幸は「善」と「正しさ」、すなわち「自然」に対しては完全に寄生的であり、破壊をするのみです。自然界では、不幸や感情は本来存在しません。人体を含むいかなる器官や有機体に、不幸や感情の生存と進化のための用意はありません。従って、思春期という転換期を迎えている自然の肉体の中での「感情体」という不自然な存在は、感覚の自然な知覚に対して極度な歪みと動揺を及ぼします。

 

この歪みと動揺そのものは、あなたの快楽と苦しみの生き様として、また、問題と不健康の世界として、今あなたの目の前にある通りです。誰もがこれを普通なのだと正しく思いながら、自然であり、避けられないものであると誤って思っています。

 

新しく入ってくる性エネルギーは、幸せの体を極度に強化しますが、寄生的な「感情体」までも必然的に強めてしまいます。肉体はこのエネルギーの変化的作用に見事に対応し、性的成熟・性的知恵の頂点に登りつめることが出来るのに対し、若い「感情体」はそれを受け入れることや、それに対抗することが全くもってできないのです。知恵や成熟は、内なる歓喜のみから現れるものであるため、「感情体」はこのエネルギーの生成的な力を受け取ることが出来ません。「抵抗」としての反応をすることしか出来ません。性エネルギーの力と純粋さは、この抵抗の中を自ら押し通すことで、「勢」の不純へと退化してしまいます。

 

「勢」(フォース)は「力」(パワー)でも「強さ」(ストレングス)でもありません。

 

「勢」は暴力の始まりです。全ての暴力は、人間の不幸で不安定な「感情体」の中で始まります。

 

この「勢」の初期的な現れとして、青年期での強情な無知とわがままな独立感が挙げられます。これは、快楽や愛を自分の内面ではなく、刺激を通して見出そうとする、あらまし盲目的な決意として表現されます。 

 

青年期の若者の行動と、それに続く大人の行動は、流入する性エネルギーのもう一つ注目すべき効果により決定づけられています。思春期の純粋なエネルギーは、即座に「勢」を清め落とすことにより、不幸の「感情体」を破壊し始めます。この「勢」の排除は、ほぼ絶えなく続く若者の精神的な不満・そわそわしさとして、外面的に現れます。これは、常になにかに取り組んでいたいという欲求であり、「する」というよりは、「していたい」という思いです。

 

この不穏の状態は、経験の重みにより円熟されるものの、大人になったあなたに引き継がれます。これによりあなたは、なにか外部の刺激の助けなしに、無心や平穏の状態をそう長く保つことは出来ません。

 

「今すぐ快楽がほしい」という欲が、不幸の性的な部分です。

 

思春期の後は、感情の縛りが幼少期の時よりもかなり強くなっています。若者としてのあなたは、もはや自分の感情から気をそらすことが出来なくなっていました。あなたは自分でも気づかぬ内に、セックスと恋愛に関する空想からの新しい刺激・快楽で自分を喜ばせることで、感情に愛着を持つようになっていったのです。

 

性愛的な空想にふけることで、あなたは不幸の全勢力を誘発していました。しかし、無知にあってあなたはそれを分かってはいませんでした。今もそれにふけているのであれば、未だ分かっていないということです。青年期の「感情体」にとって唯一肝心だったのは、流入する性エネルギーが究極の刺激をもたらしてくれ、利己的快楽を得るためのすばらしい方法を新しく示してくれたことでした。あなたは、これが実は「ひも付き」であった(無料のものなど存在しない)ということには気が付きませんでした。

 

空想と荒れ狂う感情の下では、純粋な性エネルギーの流れは無条件にして一定であり、その豊かさは変動しません。しかし、このエネルギーを「感情体」の抵抗を通して感じると、途切れ途切れなエネルギーであると思われてしまいます。はらはらするような性的衝動として湧き上がり、感情的な「浮き」を生じ、性的刺激が止むとエネルギーは静まり、普段の落ち着きを取り戻します。「感情体」は、安定することはありません。常に上っているか下っているかです。多くの場合、これは意識下で起こります。「感情体」は刺激され後に落ち着いたように見受けられますが、意識下でますます静まると、数時間後か数日後、その振動は退屈や孤独として感じられる、恐ろしい中間地点にたどり着きます。そこから抜け出し、失われた「浮き」の快楽と刺激を取り戻すため、「感情体」は過去の刺激的な体験の記憶を呼び起こさせます。大抵の場合、これは性的な体験の記憶となります。これにより、「感情体」は再び「浮き」の高周波で振動し、快適な気持ちを生じます。(ベッドで寝ているときや風呂に浸かっている時に、これをしたことはありますか。)そして、思考が止まったり注意がそれることで空想の刺激が止むと、「感情体」は振動を続けます。「感情体」は不幸な存在であるがゆえに、その内に不幸な結果をもたらざるを得ないのです。つまり、「浮き」の逆である、同等の激しさの「落ち込み」がもたらされます。これが自覚されるのは数時間後か数日後で、不快で陰気な空しさとして認識されます。あなたは理由もわからなく落ち込み、塞ぎ込んでしまいます。まもなくそれは、「快楽をまた味わいたい」という切望へと変わり、あなたは「浮き」の快楽を繰り返すための行為へと迫られます。この行為は性的なもの、もしくはその代わりとなる食、買物、酒、衣服、娯楽、金などへの欲をなだめる自己満足的なものとなります。はかない快楽の行為は必然的に不満と不幸をさらに生み出し、これにより切望が増し、不適当な行動が増し、苦しみが増します。

 

この快楽と苦しみの循環は、一生絶えなく続きます。しかし、あなたが「感情体」を取り除くために自ら立ち上がり、「あるがまま」にあることで、それを終わらせることもできます。

 

 

性的な体験やプレッシャーは新たな分厚い痛みをもたらし、不幸の「玉」へと付け加えられます。あなたは、それらを引き起こした原因を恐れることと、同じ痛みを避けるための防壁を築くことを学びます。この自己防衛的措置は、あなたの気持ちを孤立し、鈍らせる感情の「たこ」を作ってしまいます。徐々にあなたは、死んだような気持ちになっていきます。刺激や興奮をもたらしてくれるものの助けなしに、日常を楽しむことはほぼ不可能になってしまいます。「若かった頃の生き生きとした気持ちは、どこに行ってしまったのだろうか」と考えます。それは、どこかに行ってしまったのではありません。あなたが、恐れという固まった感情の下におおい隠してしまったのです。

 

自分自身の内に見い出せましたか。

 

愛においては、あなたは特に自己防衛的になります。自分の少しだけを相手に捧げますが、恐れのため、全てを捧げることはしません。なにを恐れているのかは分からなくも、とにかく恐れ、用心し、控えています。そして、自分を相手に可能な限り捧げ出そうとするとき、あなたは再び傷ついてしまいます。なぜなら、自分のパートナーを「感情体」の感情を通して選ぶからです。このような選択は必然的に不幸をもたらします。

 

「感情体」に愛はありません。「感情体」は、愛の関係では、欠如している愛と幸せを相手から貰おうとします。しかし、「自分にないものは与えられることはできない」ため、「感情体」同士の関係の結末は、両者が痛み嘆き、愛を要求するという、感情の争いと苦しみにあります。あるいは、二人の同盟は妥協にいたります。気の抜けたものか、痛みを伴うものであるその妥協は、愛と命の無感覚な否定であり、「快さ」、「好都合」、「適合性」、「付き合い」などと呼ばれます。

 

いずれその愛の関係は悲惨な事に成り果てます。愛とロマンスに抱いていた夢は幾度も貫かれ、傷められ、汚されてしまいます。あなたが無知にあって、すでに乗り越えたと思っていた一つ一つの傷・失望・失恋は、残留の「感情体」へと付加され、不機嫌や落ち込みの形で再び泣き悲しむのです。あなたはその説明のつかない気分に取り付き、それを「自分」としています。