バリー・ロングの教え -4ページ目

バリー・ロングの教え

バリー・ロング(Barry Long: 1926 – 2003)著作の「死するは恐れのみ」(Only Fear Dies)の第2章を日本語に訳しました。

この地球における命の真理をこれからあなたにお教えします。しかし、あなたはこの真理を嫌うでしょう。

 

なぜなら、あなたはすでにこの真理を知っており、それを忘れると決めたからです。そして、それを思い出さないと決心しています。それを聞かず、避け、忘れ続けることを正当づけています。

 

その真理は次の通りです。

 

あなたには、いかなる状況においても、不幸でいる権利はありません。

 

しかし、あなたはそう思いません。無知のうちに、あなたは自ら進んで不幸と親密に生きています。それを生活する上でのパートナーとしています。あなたはいつ落ち込んでも、不機嫌になっても、悩み苦しんでも、腹を立てても、苛立っても、むっつりしてもおかしくはありません。そう長くあなたは不幸と引き離されることはできないと、周りのみんなは分かっています。それはあなたにとって、どんな男や女、子供よりも身近で可愛がっているものです。そのため、あなたと他人の関係にも周期的に入り込み、大切にしている人とも不和が生じてしまい、言い争いになります。しかし、そんなことはお構いなしに、あなたは自分のとげとげしく煩わしい感情を押し通すような生活を営み、周囲の人々にもそれを押し付けます。愛想よくすることが自分に有利な状況になればそれは収まるものの、不幸が再び戻るのはただ時間の問題です。

 

恐ろしいことに、あなたはこのように生きることが、地球での命において自然なのだと信じています。故に、自分の卑劣で不機嫌な気分を我慢・容赦します。さらに、あなたを例に学ぶ子供達を、このおぞましく不自然な病に感染させます。そして、すっかり「私は愛にふさわしい存在だ、もっと愛されるべきだ」と思い込んでいます。あなたは無責任です。命でなく自分の不幸を愛することで、地球における命を汚します。

 

これを疑いますか。では、あなたの誠実さを試しましょう。

 

次にあなたが不機嫌になった時、苛立った時、心配性になった時、すねて無口になった時、じれったくなった時、落ち込んだ時、直ちにそれを手放しますか。それとも、その醜怪な不幸を、寒々しく握りしめますか。守りますか。自分の不幸でいる権利のために勇敢にも尽くし、戦いますか。(もしや、今にもしようとしているように。)そこまでしてあなたが献身し忠実にしがみつくものは、明らかに「愛するもの」です。

 

自分の不幸は自分のものでしかないということを、あなたは都合よく忘れることにしました。それは、地球における不幸への個人的な貢献として、あなただけの責任です。あなたが十分に自己中心的・幼稚・無神経でいる間は、自分の中に不幸があり続けることを我慢するでしょう。しかし、あなたの許し無くしては、それは継続することは出来ません。あなた以外に、それを取り除くことが出来る人はいません。あなた以外に、あなたの不幸が欲しい人はいないのです。

 

ですから、なぜあなたは自分をごまかすのですか。

 

自分が不幸の時、なぜ「不幸はいやだ」と訴えるふりをするのですか。それが自分によるものだというのに。あなた自身がそれを手放さないというのに。

 

ここで、地球における命の真理の続きを思い出してください。

 

あなたには、いかなる状況においても、不幸でいる権利はありません。それは、命は良しだからです。

 

命はいつでも良しです。今、もしくはあなたが不幸の時、顔に枕を押し付けられたらこれが分かります。また、あなたは癌になり、残された寿命は一ヶ月だけと言われたら、人生の問題やその哀れな不幸は奇跡的に消え失せます。直ちに、「命は良し」ということを悟ります。命は「今」この瞬間良しであり、一瞬一瞬いつでも良しということをです。

 

あなたは、命は昨日や明日にはなく、不機嫌や恨みが生み出される、「過去」や「未来」という不幸の夢の中にはない、ということに気が付きます。ついに、人生最後の日が来た時(その日はいつでも思うより近いものです)あなたは「命の真理に目覚めていれば」と思うのみです。

 

「命は良し」ということを知るのは、死と向き合ってからでなければならないのでしょうか。

 

出来事において不幸はありません。

 

不幸はあなたの内にあります。これは、あなたが「物事が変わったから」と言って、不幸でいる権利を手放さないことによります。生涯の出来事から逃れることのできる人などいません。しかし、不幸でいるという盲目にあって、あなたは衝撃的な出来事の唯一の意義が見れずにいます。その意義は、ショックによってあなたを命の真理へと目覚めさせる、というものです。生きることはこのためにあるのですが、あなたはこれも忘れると決めてしまいました。

 

あなたは、自分の不幸をいつでも正当化させられるよう、言い訳を備えています。原因は自分にしかないものの、常に人のせい、物事のせいにします。誰かにされたことを思い、怒りに震えます。誰かに裏切られたり、失望させられたことで冷酷になり、ふさぎ込んでしまいます。または、愛人や家族が亡くなったり、仕事や金を失ってしまうことで、悲しみと絶望に溺れてしまいます。

 

これが、大抵の人々の生き方です。しかし決して「命」ではありません。このように生き、命の真理を無視することは、トラウマや痛みを伴わざるをえません。なぜなら、あなたが生き甲斐にしているものは、どんなに長続きして欲しくても、いつかは死ぬか、変化するか、去らなければならないからです。このような絶望と無意味さと共に生きようとすることが不幸なのです。

 

あなたは生きているだけではありません。あなたは命です。

 

命そのものが地球で人格化したものが、あなたです。そしてあなたは、その人格の絶えなく続く浮き沈みの裏で、(時々だけでなく)常に命です。命は変化したり終わったりはしません。命は絶えることなく続きます。今までに、自分が続かなかった時などありましたか。最も過酷な大惨事に会った時、乗り切れなかったことはありましたか。もちろんありません。

 

命が良しなのは、それが純粋だからです。あなたが不幸でいる権利を放棄すれば、命はいつでも純粋です。

 

「今」それを放棄すれば、あなたは自由の身になります。

 

たとえ今、あなたは不幸でなくとも、明日かその次に日には不幸になるでしょう。今日は幸せ、明日は不幸。それが「普通」です。そしてそれが不幸なのです。

 

あなたは幸せになることは出来ません。そう考えることや、それを願うことは無知です。なぜなら、あなたが目指すものや達成できるものは、どれも継続しないからです。そして、再びあなたは不幸になります。可能なのは、不幸から自由になることだけです。それのみが継続します。

 

不幸から自由になれれば、望むことなどありますか。

 

不幸は無知です。

 

無知とは、過去の心の傷と痛みが蓄積したものです。これと向き合うことは苦しすぎるため、あなたは「逃げればいいから向き合わなくてもいい」と考え、積極的にこれを無視します。しかし、無知や心の痛みから逃げることは命から逃げることでもあります。いつしかあなたは死んだような気持ちになってはいませんか。

 

不幸は実体のあるものです。

 

不幸はあなたの内に生きています。今この瞬間、あなたは平穏でいてなにも困っていないかもしれませんが、不幸はそこにあります。定期的に、そして必然的にそれは浮上すると、あなたは理由も分からず不幸になります。落ち込んだり、自身を疑ったり、自己憐憫に陥ったり、憤ったり、寂しく、悲しくなったりします。

 

不幸は自然ではありません。母胎の中にいた時より、外の世界から侵略してきたのです。この侵略は、母親の体の中で、同様に集積されていた不幸を通して始まりました。そして、幼少期より不幸は、あなたの親の不幸の原因に対する無知によって、また、あなたの同僚、先生とあなた自身の無知によって、あなたの中へと侵入を続け、成長することが許されました。現在それは、あなたと同じ年齢の丈夫な生ける「体」となっており、これはあなたを退化させ、あなたの健康を損ないます。これがあなたの「不幸体」です。

 

「不幸体」はあなたの感情から成っています。あなたは自分の感情から喜びを得ていると思っているかもしれません。しかし、それは気まぐれな喜びであり、決して長持ちすることのない感情の「浮き」に過ぎません。そして、その反対の極は、気まぐれな苦しみである感情の「沈み」です。この二つはシーソーの関係にあり、片方があれば、もう片方は必ず付き物です。

 

感情的な喜びは、興奮による刺激から生じます。そして、興奮が治まると喜びは消えていきます。すると、あなたは徐々にうんざりしたり、そわそわしたり、困惑したりし、再び刺激が訪れるまで不幸になります。しばらく浮いていると、また沈んでしまう、というのがあなたの人生なのです。これは、苦しみの前に喜びがあり、喜びの前に苦しみがあるという浮き沈みの連鎖です。そして、その中間にある退屈・孤独という恐ろしい空しさにより、あなたはこの関係性に気づけず、自分の人生が操られているという事実を見出せずにいます。

 

退屈や孤独は感情にとっては我慢ならないものです。それは鋭い寂しさ、あるいは孤立として感受されます。感情にとって孤独や退屈はまるで死のようであり、刺激や興奮への希望が無くなることです。なので、なにか期待を寄せられるような、盛り上がる活動や楽しい出来事がないとなると、感情はその恐ろしい状態を回避するため、昔の不幸の気持ちの刺激を呼び覚まします。すると、あなたは訳も分からず落ち込み、沈鬱な気分になります。

 

やがて「不幸体」が発達すると、あなたは無意識に浮き沈みの刺激のギッコンバッタンをどちらとも楽しむようになります。感情が刺激さえされていれば、喜びなのか、苦しみなのかは、あまり重要でなくなってくるのです。感情が浮き沈みしている間は、感情的には生きている感じがするので、感情的に死んでいる気持ちや孤独感に比べたら遥かに望ましいと、あなたは思うのです。

 

「不幸体」が成熟するころには、あなたは心の苦しみや不幸に対するひねくれた快楽にハマり、感情の中毒に陥ってしまいます。自分の気分や落ち込みというかたちでそれに執着し、それを楽しんでいます。

 

次に不機嫌になったり落ち込んだりした時、直ちにそれを放棄しますか。

 

いいえ。「それは出来ない」、「そんなことはしない」とあなたは言います。あなたは、自分の不幸を楽しみすぎているので、それを手放すことをしません。それは実際に苦しいことですし、苦しい最中は「自分は不幸だ」と主張することは確かです。しかしあなたは、自分の慣れ親しんだ 苦しみを味わうことが、刺激のない孤独という地味な苦しみと向き合うより好ましいと思っているのです。

 

なぜあなたはそれと向き合うことを拒むのでしょうか。

 

それは、恐れがあるからです。それと向き合うことは、まるで死を経験するかのようなものです。しかし、実際は恐れが死んでいるにすぎません。死するは恐れのみです。そして、その苦しみと向き合い、十分に持ちこたえれば、あなたは自由と歓喜の青空へと切り抜けるのです。