今月早々に目にした衝撃のニュースから、ずっとやるせない思いで過ごしてきました。

多くの宝塚ファンの方と同じく、私も辛いときや悲しいときに宝塚に救われたことが何度もありました。
特に10代の思春期は宝塚があって乗り越えられた部分が大きく、学校以上に大事だった場所でもあり、どこか勝手に母校のようにさえ思っていたことも。
熱心なファン時代を卒業しても、どこか気になって遠くから見ていた宝塚で、まさかこんな取り返しがつかないことが起こるとは思ってもみなかった。

だんだん変わりゆく宝塚に思うことはあっても、所詮オールドファンの戯言にすぎないと書き留めずにきたこともあったけれど・・今回は自分が大事だった場所に何が起きているのか知っておきたいと週刊文春の記事を読み・・自分への備忘録として思ったことを書き留めておきたいと思います(あくまで私の個人的な所感です)

宙組に感じること。
今年で発足25年。でもまだ一度も生え抜きのトップスターが出ていない。
最初は各組から集まってできたから仕方なかったけれど、何年経ってもいつも他組から組替えでトップスターが生まれる。落下傘や人事調整組という言葉(あまり使いたくない言葉ですが)を目にするたびに、組が自立するためにも生え抜きのトップスターは必要なのではとずっと思っていました。(今は昔と違って組替えも多いし、そんなことは言ってられないのかもしれないけれど)
他の4組には昭和からの先輩たちの脈々とした歴史があって、それは窮屈な部分もあるかもしれないけれど、その時代の先輩の目があるのも大事だとも思います。

劇団は宙組を作っただけでずっと放置してきたように(都合よく使いながら)私の目にはうつります。作ったならちゃんと責任を持って運営してほしい。
今、そのツケがきているのではないかとも。

ある意味閉じた世界の中での縦社会。
集団生活では、残念ながらどこでもいじめは起こり得ることだと思います。
これまでも色々な話は見聞してきたけれど、それでもここまでのことが起きなかったのは、かつてはストッパーになるちゃんとした上級生の目があったり、良心と救いがあったからなんじゃないかと思うのです。

私が初めて宝塚歌劇やグラフを目にした1970年代後半、いわゆる昭和の時代。そこに載っていたタカラジェンヌは大人の女性たちでした。男役でもスカートをはいて、普通に親戚のお姉さんたちのような会話をして。関西の劇団らしく、気さくで、でもひとたび舞台に立つと華やかで。
その彼女たちに合わせた作品を書いてくれる先生、舞台から感じる体温、それぞれの個性。
今にして思えば、それぞれがもっといい意味で自由に自分自身でいられた、人間でいられた時代だったのかなと。そして大人だったんだと思います。

今はマスコミの露出も多く(舞台中継以外のスカステ番組の功罪も)ネットもあり、ずっと芸名の自分を演じ続けていなければいけない。コロナ禍もあり、昔とは違う負荷、ストレスがかかっていると思います。皆、大人になれる環境ではない。ストレスが大きくなれば、その反動、はけ口は弱い人に流れるのも世の常。そこをちゃんと采配するのが劇団の役目のはず。
昔の宝塚には若いお嬢さんを預かっているという自覚があったと思うし、大事に思っていることが伝わってきたけれど、今の宝塚には全くそれを感じません。
花嫁修業という時代は終わっても、大事な人材であることにかわりはないのです。
スターを作り、そこにファンが生まれるのが宝塚なら、そのスターである生徒を守るのが一番のファンサービスなのに。

個々の自覚ももちろんあるけれど、宙組をここまで放置してしまった劇団の責任は重いと思います。

退団を希望する生徒が数十名いると書かれていました。
もうトップを組を支えられない、そのことがすべてではないかと思います。

かつてターコさんがリクエスト対談で「トップとして気を付けていたのは特定の仲がいい人を作らないこと、すべての人に公平でいなければいけないから」と話されていたことを思い出します。
背負うものは大きいけれど、その人にしか見えない景色がある。孤独だけれど孤高の美しさがある。そのためにも支えてくれる皆に公平でありたい。
ターコさんの大きさを感じる言葉でした。

劇団がきちんと立て直しできるかも問題ですが、何よりも、今取り返しのつかないことをしてしまったということを、組全体で考える時間が必要なのではないかと。人間らしい感覚を取り戻してほしい。

まだこれから沢山の可能性があった彼女の人生を思うと心が苦しくなります。
憧れて入った場所でこんな風に人生を終えるなんて思ってもみなかったでしょう。
記事の最後に下級生から、彼女への感謝の言葉が載っていて涙が出ました。
今回の件で、初めて目にしたあたたかい言葉でした。

宝塚が本当のあたたかさを取り戻す日は来るのでしょうか。。