Bittern Storm Over Ulm / Henry Cowの拍子記号を採譜してみた。

Henry Cowというのは60~70年代英国の、いわゆるプログレッシブ・ロックのバンドで。
プログレというのは、私などは、マントを着用したキーボーディストがキラキラと輝きつつ両手でメロトロンとオルガンを弾くイメージしかないですが、このバンドはかなりハードコアな感じで、それもそのはずバリバリのソーシャリスト、70年代ヨーロッパのインテリジェントな左翼の方々、「Rock in Opposition 反対派ロック」です 文化的な面では、20世紀の左翼ほどおもしろいものは他になく、今世紀初頭、きっと左翼はリバイバルヒットすると思います(自分でも書いてて意味不明です)。

この曲は"Unrest"というアルバムに入っててYardbirdsのパロディらしいです。ユーモラスなメロディで、Frank Zappaの影響があると思う。
それで、プログレファンの方々の大好きな「変拍子」というやつが使われてます。しかし私は「変拍子」という言葉、あまり好きじゃないです。

なんというか、拍子記号をつかまえて「変」呼ばわりするのは、拍子に対して失礼だろうと。ブルガリアやギリシアの民族音楽の立場はどうなるのか。全ての拍子記号は、平等であるべきではないか。ついでに私有財産は廃止、レコード会社を全部国営にして名前をメロディアに変えるべきではないか。


そういう、ハードコアかつ左翼的なムードを高めつつ、この曲の変拍子を聴くと、2拍子のユニットと3拍子のユニットの組み合わせとして捉えれば、ある意味シンプルに感じられると思います。まあプログレに限らず、奇数拍子は1950年代にジャズでも流行ったし、それこそ東欧の民族音楽では普通なのであります。結婚式とかで奇数拍子でダンスしてる訳です。

12/8というのは、シャッフルのリズムとしても演奏できるし、3拍子系にもとれる。ポリリズムですな。
12+8/8ととれば5拍子。そういう、拍子は全て平等であるべきだ、という、One Nation Under the Groove、いや、むしろnationは揚棄されるべきであり、one groove under socialism、そういう左翼思想がリズムによって表現されています。嘘ですが。


また東欧の民族音楽的な、「長い拍」と「短い拍」がある2拍子系と3拍子系の混合だという感じもする。あんまよく知らないがRadioheadというバンドの"Pyramid Song"というのもそんな感じでした。

time signature for Bittern Storm Over Ulm by Henry Cow
12/8 | 8/8 | 12/8 | 9/8 | 12/8 | 8/8 | 12/8 | 9/8 |


12/8 | 8/8 | 12/8 | 12/8 |


(0:29)


12/8 | 9/8 | 12/8  | 9/8 |12/8 | 8/8 | 12/8 | 9/8 |


12/8 | 8/8 | 12/8 | 6/8 | 4+3/8 |


(0:57 funny riff)


12/8 | 8/8 | 12/8 | 9/8 |12/8 | 8/8 | 12/8 | 9/8 |


12/8 | 8/8 | 12/8 | 6/8 | 4+3/8 |


12/8 | 8/8 |12/8 | 9/8 |12/8 | 8/8 |12/8 | 9/8 |


12/8 | 8/8 | 12/8 | 6/8 | 4+3/8 |


(1:53 break)


6/8 | 8/8 | 4+3/8 | 


6/8 | 6/8 | 6/8 | 4/8 | (maybe)


(2:01 coda) 8/8 throughout till end


部屋の片付けをしていたら、ビル・クロウ『ジャズ・アネクドーツ』(村上春樹訳、新潮文庫)が出てきたので読みふけってしまった。これはジャズベーシストのビル・クロウによる30~60年代あたりのジャズの巨人たちの逸話集(anecdotes)。
ともかく天才/奇人変人による奇行の数々。ジャズを全然知らない人やジャズを敬遠している人が読んでもおもしろいと思う。ジャズっておもしろそう、と思うかもしれない。
読んでて、似たようなエピソードを別の本で読んだなあ、と思うところがいくつか。

若き日のビリー・ホリデイがベイシー楽団に入って最初のツアーの帰路、なぜか一文無し同然に。カウント・ベイシーがケチでギャラをくれなかった、というわけではなく、ツアーバスでのクラップス(サイコロ賭博)で全部スッた
「一文無しではママのところに帰れない」と最後の4ドルを賭け、サイコロを握るビリー。バクチの相棒はやはり、最愛のテナーマンで最高の音楽的理解者だったレスター・"プレズ"・ヤング。「このダイスはあたしが振るわ」という訳で、運命の出目は… 

と、これ阿佐田哲也『麻雀放浪記 1巻』の嵐のスラム街でのチンチロリンのシーンみたいなのだった。どっちもサイコロ賭博だし。阿佐田哲也(色川武大)はジャズにも造詣が深かったようで、だからジャズの伝説なんかもインスパイアソースにできたかもしれない。しかしながら具体的な影響関係とか、実際アネクドーツにギャンブルの話がよく出てくる、ということ以外にも、50年代くらいまでのジャズの現場とギャンブルの世界になにか、本質的な類似があるような気もする

『アネクドーツ』で紹介されている、コールマン・ホーキンスのエピソード。
40年代あたりまでジャズの世界では「カッティング・コンテスト」というて、ジャムセッションにどんどん腕自慢のミュージシャンが乗り込んできて、演奏で勝ち負けを決めるという習慣があった。
演奏によるバトルというのは、古くは悪口で戦うダーティ・ダズンとか、後にはヒップホップの世界にも通底する、アフロアメリカン文化という感じ。ロックなんかにはこういうルールのあるバトルという側面はないわけです。若き日の「チャーリー・パーカーの屈辱」などは、「カノッサの屈辱」と並ぶ歴史上の事件として有名ですね。
それで、カンザスシティに乗り込んだ「ジャズ・テナーサックスの父」コールマン・ホーキンスが、意気揚々と現地のジャムセッションに殴り込み。するとカンザスにいた腕利きのサックス奏者、ベン・ウェブスターやらレスター・ヤングらが、返り討ちにしようと大終結。それで明け方頃、女性ピアニストメアリー・ルウ・ウィリアムスの
窓をベン・ウェブスターがノック。「来てくれ。ホークはまだ吹きまくってるが、ピアニストがへばっちまった」という話。なんとも偉人たち大終結のエピソードですが、これなんかもジャズ演奏をギャンブルにかえれば、麻雀放浪記の世界だと思う。

まあ古~い「芸人」の世界なんですな。それで出てくるのが、たとえばドラッグの問題。
麻雀放浪記だと、ベテランの老ギャンブラー出目徳がヒロポンを打って、ギャンブラー生命を賭けた徹夜の勝負に挑む。それで出目徳は「芸」で勝ったものの、そのまま死んでしまうのだった。これはまあフィクションですが、こういう世界は実際あった訳ですね。小説家だって似たようなもんだった。坂口安吾とか。

大企業による一大産業として確立する前のポピュラー音楽は昔風の「芸人」の世界であり、芸人というのはつまりは肉体労働、一部の勝ち組以外は、休まずハードに働かなければならず、その割に実入りが少ない。だから底辺の労働者がアルコールとかドラッグに手を出して、無理矢理休まず働けるようにする、とかいう世界。法的な「犯罪性」とは別のレベルで、実際には社会の底辺がそういう労働者に支えられてるような状況も世界の歴史において、よく見られる訳ですが、50年代くらいまでアメリカのジャズミュージシャンも麻薬に手を出す人が多かったのは人種差別も含めて、やらないとやってけない、そういう側面もあった。現代の高名なタレントが好奇心やファッションで麻薬に手を出すのとは同列に語れない面もあると思う。もちろん、麻薬というのはまた別の搾取の形態であって、また肉体的にも、麻薬と手を切れなかった人たちは生き延びられなかったのですが… チャーリー・パーカーもビリー・ホリデイも禁断症状を和らげるための大量飲酒が命とりになったそうです。
そういうハードな仕事をしつつ同業者に「芸」で負けないために、新芸の開発もしなければ生き残れない。
坊や哲はチャーリー・パーカーだったのか。

それで、おっかないお兄さん方とのつきあいとかそういう話も出てくる。
ファッツ・ウォーラーがシカゴのホテルで演奏してたら武装した男に拉致られて、アル・カポネの誕生パーティに連れて行かれ…とかいうアネクドーツもありました。

そういうおっかない方面との結びつき、なんで一般的に芸人というのはアウトサイダー方面の存在であったのか、というのもある。マイルス自伝なんかに出てくる、ビリー・エクスタイン(
白人にも認められたスター歌手だった)が南部のツアーで人種差別的な待遇をガン無視できた、とか、共同体のアウトサイダーであり、同時に、社会階層を超えた憧れの対象っていう、こういうのは、世界中に一般的現象として見られる。歴史的には共同体の生産システムに参加できない人が放浪芸の世界に入って、とかいろいろ説明は可能でしょうが、なぜそうした人々が同時にラグジュアリーな存在でもあるんでしょうか。まあとにかく芸能というものは、本質的には幻想にすぎないのかもしれないが、あらゆる社会的枠組みを無効にする力が見られる。

あとジャズの巨人たち、訳のわからない縁起もかつぐし。そんなところもギャンブラーっぽい。デューク・エリントンの異常なまでの迷信好きのエピソードもおもしろかった。『ジャズ・アネクドーツ』おすすめです。


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楽曲の耳コピの練習をして遊んでみました。
てきとうに書いてるから、いろいろと間違ってるかもしれぬよ。


The Beatles "Michelle"


【イントロ】


Fm FmM7/E  | Fm7/Eb Fm6/D  | DbM7 | C7 | 


【A verse】


F | Bbm7 | Eb13 | B dim7 | C7  B dim7 | C7 |


F | Bbm7 | Eb13 | B dim7 | C7  B dim7 | C7 |


【B cho】


Fm7 | Fm7 |DbM7 | Db6 | 


C7 |  Fm | Fm FmM7/E | Fm7/Eb Fm6/D  |


DbM7 | C7 | 


【C 間奏】Aパートと同じ。

子供の頃聴いてたときはもう少し普通のコード進行かと思ってたが




ビートルズは60年代にロックミュージックを決定づけたグループですが、世代的に60年代以前のポップスにも当然影響受けてるから、ティンパンアレーっぽいのとか、シャンソン、ラテンとかそらもういろんな音楽が、エゲレスの港町の不良の脳内において英国民謡だとかアメリカ黒人音楽とミックスされた、シュールな世界だったりする。


ビートルズは、英国の昭和歌謡(根拠もなく断言)。




この曲は基本的にはシャンソンっぽいFマイナーの曲。FからCにいたるクリシェ・ラインが美しい。問題は、Fマイナーにも関わらず、いきなりAメロがFメジャーからはじまってしまうという事態。その次2小節目のBbマイナーはサブドミナントマイナー、これはまたFマイナーのコード。


これは、第一義には、旋法的に同主短調と同主長調をいったりきたりしてるモーダルな動きだと思います。トニックのFの3rdが上がったり下がったりすることで、なんか切ない、という。




それでAメロ冒頭のトニック、歌のパートでEbは鳴ってないのだけど、なぜかF7に聞こえてしまう。(Bbmに対するセカンダリードミナントにもなる)。なぜそう聞こえるか。曲全体がFとFmの間をフローティングしている(英国流)ブルースっぽいものに聞こえちゃうからだと思います。
Bメロ冒頭Fm上での、マイナーペンタトニック的なメロディの印象とか。それにシャンソンのくせに、ベースのハネ方が黒い、シャウト気味のボーカルも黒い
なんか60年代英国音楽によくあるブルースっぽい感じだなーと感じる。トニックもサブドミナントも全部ドミナント7thになります。


間奏(Aパートと同じ)のBbm(1:28秒あたり)でなんかギターが微妙にDナチュラル音だしてる。ミストーンかと思いきや、アウトロでは堂々とBb7を弾いてるので、結局F7(tonic 7th)-Bb7というブルースなコード進行。
マドモワゼルに捧げたシャンソンであったハズの「ミッシェル」がR&B、英国人の米国へのラヴソングだったという、感動的なオチです。
つーかよく聴くとこのギター、いろいろヒドい




R&Bなシャンソン、こういうハイブリッド感がビートルズの世界的な人気の秘密ではないか、と思ったりします。モダンジャズも、それこそデューク・エリントンが20年代とかに「ジャングル・サウンド」とかゆうて、エキゾチカでハチャメチャで実験的なミクスチャーサウンドをやってたり、50年代までには「やることは大抵やってる」状態になってた訳ですが、ビートルズにはエリントンみたいな音楽的知性はなく(ヒドい)、代わりに不良の感性と創意工夫で、ここまで豊かに洗練されつつもヘンなことやってるところがイイ。




それで旋法的な、3度のフローティング状態。
いろいろありますが、Yellow Magic Orchestra"O.K."、某教授が細野晴臣に「病的すぎるのでは?」と忠告したという曲で、James Brown "Hot Pants"を援用したCのドローンの上で、「死」について歌いながら、ブルース的なモードがCメジャーから突然Cマイナーへ傾斜していくパートが印象的です。歌詞は東洋的な死生観を淡々と歌ってるだけなんですが、音楽的には明らかに、真面目な人を脅かしにかかっています。とってつけたようなインド風音階とか、これ半分くらいは細野さんふざけてるのでしょう。




それから、「ピカルディの3度」とかゆうて、マイナーモードの曲が、トニックメジャーで終わる、そういうのがあります。


フレデリック・ショパンの『幻想即興曲』とか、Skip James"Devil Got My Woman"、"Hard Time Killin Floor"とかで聴けます。




Skip James(1902-1969)はミシシッピ州ベントニア出身の、マイナーキーの特異な曲でしられるブルースマン。


『悪魔が俺の女に取り憑いた』は彼の代表曲で、AとDのドローンの上で短3度を含むモード、Dドリアンっぽい(2分2秒で出てくるメロディの最高音が長6度のB)美しいメロディが裏声で歌われる曲、つまり短調に聞こえるのですが、コーダでは長3度のF#を含むフレーズが鳴らされます(いわゆるブルーススケール)。『キリングフロアー』も似た曲で、こちらは20年代の大恐慌を歌った曲。メロディはDブルーススケールに長2度が付加されたようなモード。


3rdの音程が流動的であるブルースは、長調と短調の区別がない、あるいは、潜在的に長調でもあり短調でもある、といえます。
ブルーノートは長調上に短調が重合した状態ともいえますね。(他の説明もいろいろ可能で、ベーシスト濱瀬元彦氏の理論が非常に興味深いです)
それが、洋楽器を弾くアフロアメリカンであるスキップ・ジェイムスの音楽では「短調」に聞こえるモードで表出している。
でも、明確な終止をもたないモーダルな民族音楽的なものが、西洋音楽的な環境、商業音楽という場において、「曲」として終わるためにはなにか終止形が必要で、それはスキップ・ジェイムスにはメジャー3rdを含むコードとして捉えられている。
「チャン、チャン♪」っていう感じ。今のところ、そんな風に聞こえたりします。




"E.S.P."から"Nefertiti"にいたる"The Second Great Quintet(第二期黄金クインテット)"による4作のあと、つづいて1968年に発表されたアルバム。
収録曲は"Stuff"、"Paraphernalia"、"Black Comedy"、"Country Son"の4曲。

一般的に、最初の2曲において、ハービー・ハンコックのエレクトリック・ピアノとロン・カーターのエレクトリック・ベース、ジョージ・ベンソンのエレクトリック・ギターが導入されたことで、「エレクトリック・マイルスの序章」という扱いをされているアルバムなのだが、序章ならば素晴らしいのか、という話にもなる。
こういう電化=「マイルスの先駆性」というのは、どっちかというとブラック・ミュージック総体にあんまり関心がなくて、ジャズを高級なBGMあるいは芸術として聴いていた人にとってのことであって…このレコードの魅力を生み出しているのは、R&Bを導入しながらも、それまでの最高度に洗練されたモード・ジャズを引きずっているという「後進性」なのだった。

モダンジャズというのは、曲をコードやモード構造に分解して再解釈、新たなハーモニーやメロディに変換しつづける音楽なのだけど、第2期黄金クインテットのやっていたことを要約すれば、「あくまで曲を演奏しつつ、曲の再解釈」による束縛を逃れる」ということだと思う。
よくマイルスのモードについて「モードに移行したからコード進行から自由になった」、などと書かれる。和声的な音楽のコード進行=
緊張~緩和という線的なドラマが、モードにおいては自由な色彩の配置になった、という訳だけれど、
十年一日のスタイルで「So What」の2つのモードを演奏しつづけるならば、事態は何も変わらないだろう。このクインテットは、演奏におけるポリリズミックな崩しだけでなく、作曲においても、クリシェを逸脱するようなしかけをいろいろやっていた。たとえば
E.S,P.収録ショーター作の美しいワルツ"Iris"は、ソロパートでは、コード進行のサイクルが早くなったり遅くなったりする(Blue In Greenみたいな)。構造的な複雑さによって、簡単に触知できるような構造を逃れる、大きな流れの感覚を生み出す。
それはこのアルバムでは後半2曲に色濃くでている。

このアルバムがそれ以前の黄金時代と異質なのはStuffとCountry Sonの二曲がマイルス作で、アルバムの半数がマイルス作品となっていること。意欲バリバリである。トランペットの演奏もなんだか元気に満ちあふれている感じ。
前半2曲では、ビートを強化して、R&B~ファンクに移行していくマイルスのその後の方向性を打ち出している…のだけど、アルバムを通して聴くと、そう単純ではないのだった。
Stuffはアルバムの中でも最もR&B的であるにもかかわらず、リズム隊の演奏は黄金クインテットのフリーフォーム的なモード性を保持していて、これが奇妙な味わいなのだった。R&Bでは反復が快楽を生み出すのだが、ロン・カーターのベースラインはその手の音楽のベースとしては自由すぎた。聴いてても、かっこいいが、腰は動かない(笑)
ロンはハービー・ハンコック1964年のファンキーなCantaloupe Island("Empyrean Isles"収録)ではリフに徹している。もちろんR&Bの弾き方がわからない訳はない。だから、「ロン・カーターのベースが保守的だった」のではなく、ここでのヘンテコさはマイルスが自由に弾かせたということに起因すると思う。なんだか演奏にぶっつけ本番な感じがする。また、マイルス自身も黄金クインテット時代の音楽性とR&Bのあいだでケミストリーが生まれるか実験結果待ちだったのだろう。
たぶんこの段階では、R&Bそのものにはしたくない気持ちもあったのだろう。
Paraphernaliaはジョージ・ベンソンのリズムギターを導入して、ファンキーさを強調したスイングリズムの曲で、コーラスの終わりの3拍子が粋。

後半が興味深い。まず音楽的には黄金時代を踏襲しているのだが、この2曲はブロック構造を採用しているところが共通していて、特異な印象。
トニー・ウィリアムス作の"Black Comedy"は
カルテットがごく自然に演奏しているために気づきにくいが、小節ごとにめまぐるしく拍子記号が変わる、ちょっとミンガス的というか、変な曲。スピード感溢れる演奏は本作の白眉。フィリー・ジョー・ジョーンズがマイルスのリズム感は超人的だった、と語っているが、そんな感じがする。
最後のマイルス作"Country Son"は懐かしい4ビートジャズと静謐なバラードのパート、
8ビートの「ジャズ・ロック」(ロックっつってもいわゆるロックではなくて、R&B、ソウルだけど)パートを行ったり来たりする、非常にヘンテコな曲。
マイルスはこういうリズムの実験は後の「Honkey Tonk」なんかでたま~にやっているが、R&B~Funkの反復性とは異質な方向だと思う。「テイク・ファイヴ」とか、50年代に、こういう奇数拍子、複合リズム、ブロック構造の採用なんかでジャズのリズムを超克しよう、という方向があったのだが、ポピュラー音楽の先端はそっちよりもアフリカ的な反復性に向かった、と言える。
この曲の録音はStuffなどより後。だからマイルスが何を考えてどこに向かっているのかようわからなくなるのだった。
黄金カルテットのライヴにおける、パワフルな演奏から一瞬でハービーの静謐なピアノソロに展開するような場面、あれをレコードに
最後の記念撮影として残した、のかもしれない。
ただし。
Country Sonの「ジャズ・ロック」パート(CDタイム10:10)、Dのベースの上でマイルスが吹くフレーズ、
これはIn A Silent Wayの"Shhh/Peaceful"のフレーズなのだった。
だから、よくわからないのだが、
ここでマイルスの脳内には新しい音楽の風景があったのかもしれない。



Miles in the Sky (Reis)/Miles Davis
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Well you needn't 」の有名な演奏ミス。油井正一の解説にあるとおり、コルトレーンは無実なのだった。


キーはF、コーラスの構成はAABA形式(各8小節)の歌曲形式。


モンクのピアノソロの2コーラス目の終わりにそれは起こります。




Bパート後半をトリルで展開、コーラス最後のパートとなるはずの

A1小節目までひっぱった後、A3~4小節目でホールトーンスケールのアルペジオを

演奏。(CDタイム2'13あたり)

これはひょっとして、コーラス最後のC7(ドミナント)を弾いてるつもりなんではないだろうか?




というのは、直後にモンクが弾くテーマのフレーズがカオスの引き金になるのです。


このテーマ、アウフタクトのフレーズがなぜか小節の2拍目の裏から入るので2拍遅れになります。


モンクは作曲にも演奏にもしばしばリズムのトリックを多用しますが、


ここでの遅れはたぶん「あれ、コルトレーンはどうした?」というためらいのためではないかと思います。




というのはここからモンク一人2拍遅れの進行に突入しているからです。


それは、有名な「モンクの呼び声」を聴けばわかります。


この2拍遅れフレーズ以降、ベースのウィルバー・ウェアは警戒してトニックのF音と5度のC音を強調してます。


すると、ピアノソロの終わりの8小節目、モンクがコルトレーンの名前を呼びます。


これは、完璧にビートにのった、とても素晴らしいシャウトで、


グルーヴ感と説得力にあふれています。


しかし、正確に2拍ズレている訳です。


だから、叫び声の入る小節が問題なのではなく、前述のテーマの引用以来、モンクの頭の中ではずっと2拍ズレていたことがわかる。それから、叫び声に説得力があったところが問題。




するとアート・ブレイキーがかけ声に完璧に呼応した2拍分のナイアガラ瀑布ロールを展開。

ここでアンサンブル全体が2拍ズレ、ウィルバー・ウェアはF音のみ弾いて、どういう
展開にも対応できるようにしてます。正しいと思います。


ソロ冒頭2拍を食われたトレーンのソロは、とりあえずブレイキー&モンクに合わせてはじまります。


コルトレーンの最初のAの最後、本来の進行が2拍食われていたため、


ここで(本来の進行から見ると)2拍増えて6拍になって全員が同期します。


ウィルバー・ウェアが「救われた」とばかり突然元気になり、


トレーンは一瞬元気をなくします。モンクのリズムを確認中。


ここがおもしろい。




ブレイキー以下のメンバーの動きはモンクにつられた演奏ミスとも言えるし、軌道修正のための動きともとれます。ブレイキーが間違ったとは言い切れない。
モンクが間違ってるのは確か。


しかしかなりヒドいことが起こっているのに自然に聞けてしまいます。


それはモンクとブレイキーの自信に満ちあふれたスイング感によるところが大きいと感じます。

Monk’s Music/Thelonious Monk
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わが生みて渡れる鳥と思ふまで昼澄みゆきぬ訪ひがたきかも
山中智恵子(1925-2006)『紡錘』収録歌(昭和38年)
現代短歌のレトリックなどを勉強をかねて読解してみます。

○飛ぶ鳥の姿と語り手の心が一つになった瞬間を描いた歌。
風景と心理が融解する瞬間をとらえること、近代短歌の一つの伝統を踏まえています。しかし、50年代、「前衛短歌」時代の歌人の秀歌の一つとして、この歌のレトリックも歌われる感情も、はるかに複雑な象徴性を実現しています。
レトリックの構成を見ると、A「私が生んで渡る鳥」およびB「と思うまで昼は澄んでいった」という圧縮表現があり、さらにそれらはC「訪ひがたい」感情の喩えとして機能しています。修辞的に非常に高度です。
加えて、優美な音調、特に上の句のなめらかさがその複雑さを「うた」として昇華しています。すばらしい歌です。


A「わが生みて渡れる鳥」はごく素朴に解釈すれば、
「鳥がとんでいく、わたしの中から思いが飛び立っていくように」
などということだと思います。
「生みて渡れる」は見事な措辞です。鳥が生れてから飛び立つまでには、それなりの時間の経過が想起されますが、それを「生みて渡れる」と言い切っています。一瞬の思いの中に、あるいは、たったこれだけの字数に、複数の時間をたたみ込んだ表現です。



さらに、これは単なる比喩表現にとどまっていないと思います。
鳥は古来、魂、特に死者の魂の象徴です。この歌ではそれほどはっきりと打ち出されていませんが、象徴を介して、一人の現代女性の思いが、失われた象徴的な世界感受と、かすかにリンクされている。「巫女」山中智恵子氏の特異な手法です。
続くB「(私が生んだ鳥と)思うほど昼が澄んでいった」は日常的な論理を越えた表現ですが、見る心が見られる鳥と重なったとき、「鳥=心」という古代的な形象をピボットとして、昼は時空をこえて澄み渡る、ということでしょうか。



そして、C「ああ、訪ねがたいのだ」。
つながりがやや難解ですが、「訪ひがたき」ものは「澄み切った昼」だと読めます。
すなわちA「わが生みて渡れる鳥」B「と思ふほど昼澄みゆきぬ」。
わたしの中から鳥が、澄んだ昼の中に渡っていく。距離の表現となっていますね。光の中へと鳥が渡っていく、すなわち、わたしと昼との距離です。
その間隔を越えて、わたしは、澄みきった世界の中に溶けていくことができない、というレトリック構成ですね。

澄みきった昼とは、何か永遠性のようなものと捉えてもいいし、澄みきった昼の彼方に、逢いがたい誰かが待っている、と日常的に読んでもいいのではないでしょうか。


きじくえば/ましてしのばゆ/まためとり/あかあかとふゆも/はんらのぴかそ


万葉集巻5の、山上億良「子等を思ふ歌」
 瓜食めば子ども思ほゆ
 栗食めばまして偲はゆ
「ゆ」は万葉集ぶりの、自発の助動詞で、「偲ばゆ」は「思い出される」。



なぜ雉なのでしょうか? 宮廷料理とか、神饌(しんせん)、宮中行事で神に供える食材として選ばれているのかと思います。高貴な食材に舌鼓を打ちながら、老いてなお半裸のピカソを思っている。


どのように思ってるかというと、「まためとり」。


不思議に美しい響きのフレーズですが、言ってることは「また結婚して」。まあピカソは老年になっても次々に若い愛人を持ち続けた人です。「また結婚して」などと、結婚式のスピーチで言うならば、大変なことになる。決しておめでたくはない、どちらかといえば不穏な、悪意のあるフレーズです。音調は美しいのに。揶揄してます。


「あかあかと」は「明るく」で、「あかあかと半裸」というのはなかなか奇怪な、一種ふざけた調子のフレーズ。老芸術家の過剰な生命力にあきれながら、讃えてる歌だと思います。

塚本の初期の歌では、常識的には祝福すべき婚姻、さらにそれに至る異性愛は呪われたものとされるのですが、ピカソの婚姻は過剰であるが故に嘉されているようです。


ねむるかぞくの/あしいりみだれ/ふぃよるどの/ぎざぎざのしへの/ちかさととおさ

眠る家族の風景に大量死のイメージを重ねた作品です。

ここでの眠る家族は
「脚入り乱れ」寝苦しそう。
夏の蒸し暑い夜っぽい感じがします。
20世紀前半のニューヨークで都市の風景を撮っていた写真家ウィージー Weegee(1899-1968)の、Heatspellという非常階段で子供達が眠っている1938年の写真を連想します。

http://www.amber-online.com/exhibitions/weegee-collection/exhibits/heatspell-1938


眠る家族の脚「入り乱れ」→「フィヨルド」→「ぎざぎざの」死
と、フィヨルドが前半と後半をつないでおり、枕詞・序詞的な構造で、
足引の山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む(柿本人麻呂)
を思わせます。

人麻呂の歌は「山鳥のしだり尾のように」
「長い夜の独り寝」。
山鳥の尾というのはうたの中の現実の風景ではなく、あくまで「長い夜の独り寝のさみしさ」に、自然のイメージを配合し、音調を整えるためのフレーズです。

この歌では眠る家族が「実」の景で、ぎざぎざの死が実景に重ねられたイメージなのですが、前半を序詞を見ると、「死」が実景となり、虚と実、生と死が逆転します。

かくめいか/さくしかにより/かかられて/すこしずつえきか/していくぴあの

第一歌集の冒頭歌なので有名です。革命家の作詞歌がよりかかって液体になるピアノ。

「より/かかられて」「えきか/していく」などの「句跨がり」がうたのリズムに急激な変調をもたらし、それが「寄りかかられる」「少しずつ液化する」という変化や運動のイメージと連動しています。さらに、句跨がりによりリズムがばらばらにならないよう、「か」音の響きが一首の音調を統合しています。

この歌は短歌論ではないでしょうか。

「革命歌」というのは政治的なアジテーションのうた、つまり、詩歌の意味としての側面、現実世界の表現、という側面のことだと思います。言語表現である以上、短歌にはなんらかの、現実的な意味がなければなりません。

それに対して詩歌には音楽としての側面もあり、むしろ音楽であることをやめたときに、定型詩は定型詩ではなくなってしまう。ならば、音楽性こそが短歌の本質でしょう。意味が音楽を圧したときに音楽はぶよぶよに軟化していく。
この歌は、意味と音楽の緊張関係を意識して歌を詠んでいくのだ、なおかつ、音楽がグロテスクに変容しかねない危険な領域で、というマニフェストではないかと思います。