馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
塚本邦雄

うまをあらわば/うまのたましい/さゆるまで/ひとこわば ひと/あやむるこころ

★★★
1969年の第六歌集『感幻楽』所収、『花曜—隆達節によせる初七調組カンタータ』の一首。
隆達節は安土桃山~江戸初期の日蓮宗の僧、隆達が創始した小歌の流派だそうです。
この歌のリズムは、初句七(77577)で、短歌形式に導入された七五調
山中智恵子とか、当時の前衛短歌のこころみの一つ。

1180頃の『梁塵秘抄』とか『田植草紙』、16世紀の『閑吟集』など、
こういう歌謡のリズムが短歌形に代わり中世以後、隆盛していった。
激動の時代を生きた後白河法皇(1127-1192)とか、天皇なのに和歌ヘタクソ、そのかわり今様に熱狂。白拍子など下層階級のパフォーマーと貴族が入り交じったライヴ・イベントで夜毎フィーバー 後白河は、王朝のリズムではない、庶民のリズムに時代の風を感じていたのでしょうか。

★★★
古来、は、洋の東西を問わず、高貴な、美しい動物
戦士の友。武士っつうことですね。
だから、ここでの「恋」は、あまり異性愛っぽくない

★★★
古代インドのヴェーダの祭儀に、アシュヴァ・メーダという馬の犠牲祭があった。
そのアシュヴァ・メーダには、馬と王妃との交合を模した儀式があったとかいう話で。そうするとオシラサマの馬娘婚/馬の殺害に通じてくる。
オシラサマはカイコの飼養の起源神話でもあるのだから、これはオオゲツヒメ、保食神みたいな食物起源神話(ハイヌウェレ神話)という性質もあります。

そういう神話において、聖獣の殺害によって獲得されるのは、神的な権力だったり文明だったりするのですが、でも、そういう神話の根源には、馬とか牛とかいった、獣の強壮な生命力を、血を通して取り込む、というような、古代的な想像力があるんじゃないでしょうか。
ミトラ教の牛の供儀とか、ギリシャのミノタウロスの物語も、これは英雄譚だけど、異類婚と聖獣の殺害という、同じ想像力によっている。

★★★
なんにしろ、供儀の神話においては、往々にして、高貴な動物の血から力が獲得されるということと、性的なものが結びつけられている。
それで、この歌の上句「馬」と、下句の「恋」というイメージの連結には、直接的ではないにしろ、そういう神話的なものまで連想が届くところがあるような。

★★★
でも、起源神話としての異類婚というのは異性愛でないといけないんだと思う。
なぜなら、同性愛だと起源にならない。だからこの歌は神話としては、ねじれた感じがある。
神話のなりそこないというか、不毛の神話としての恋歌切ないんですな。
もちろんこの歌の「恋」は異性愛として読むこともできる。
異性愛だろうと同姓愛だろうと、恋がまさに恋として、理由だの有用性だのと関わりのない狂気、まぼろし、至純のものとしてありえるならば、その恋とはつねに未遂の神話、かもしれず。

★★★
上句は、「馬を洗うならば」「馬の魂が冷えた光を放つまで」という意味。
高貴な動物としての馬を洗うならば、徹底して洗う。

「冱える」は寒さなどが厳しくなるさま、また、澄んで、あかあかと輝くようなイメージ。

馬の魂が冴えざえと輝きだすまで洗う、ってことは、つまり、肉体は冷え切ってる。もっといえば、馬、もう死んでます

ならば、下句「人を恋するならば、その人を殺すほどの情熱で」は上句の言い換えにすぎない、ともいえたりするかもしれない。
相手を殺すほどの献身

★★★
「恋はば」は確か塚本邦雄自注によると、正しくは上二段「恋ひば」で、「恋はば」の用例は存在するものの、あくまで韻律上の破格とみるべき、ということらしいです。


塚本邦雄歌集 (現代詩文庫)/塚本 邦雄
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スキップ・ジェイムス(1902-1969)のE-B-E-G-B-Eマイナー・チューニングと澄んだファルセットによる独得のブルースが大好き。
「再発見」後もすごくいい。
異常にさみしい"Devil Got My Woman"の演奏(でもジェイムスはなんか楽しそう)をガン見してるハウリン・ウルフは、この時何を思っていたのか...
http://www.youtube.com/watch?v=JB2POWSnStU

このスタイルがどこから来たのかよく知りたいのだけれど、本を読んでも良くわからなくて。
とりあえず勉強したことをメモ。

ミシシッピ州ヤズー郡のベントニアBentoniaという町の周辺のブルースで、Bentonia Schoolとかいうらしい。
これはスキップ・ジェイムスだけのスタイルではなくて、ヘンリー・スタッキー Henry Stuckeyという、おそらく録音がないブルースマンの「スタッキー・ブラザーズ」というバンド周辺の人々が共有していたスタイルらしい。ベントニアでは人々は毎晩ジューク・ジョイントでこういうダークなサウンドに熱狂してノリノリだったのだろうか。

こういうのをやってた人がたくさんいるなら聞きたいぞ、ということで調べると、

スキップ・ジェイムスはヘンリー・スタッキーにギターを学んだ、と。
ヘンリー・スタッキーの息子にJacob Stuckeyジェイコブ・スタッキーというブルースマンがいて、YouTubeに"I love my baby"という曲があったが、おお、これも確かにスキップ・ジェイムスを素朴にしたような... スキップの"Devil Got My Woman"もある!歌はもっと野太い感じ。やっぱりブルースって「同じスタイル」で「同じ曲」やっても、人によって全然ちがうなー。

スタッキーのバンドの周辺からは、ジャック・オーウェンズJack Owens、コーネリアス・ブライト Cornelius Brightというブルースマンも出たと。
Jack Owensは昔買った本にポートレイトが掲載されてて、どんな人なのか説明がなかったがBentoniaってあったので、ひょっとしてSkip Jamesみたいな演奏する人なのか?と、妄想が大爆発した思い出が。ハーモニカのBenjamin "Bad" Spires バド・スパイアーズとデュオで活動していたそう。YouTubeの2人の演奏風景、か、かっこよすぎる。

ブライトの"Devil Got My Woman"の66年の演奏もYouTubeにあり、これもまた味があります。

ベントニアには他にJimmy "Duck" Holmesというブルースマンもいて、この人はJack Owensに学んだらしい。ブギっぽいリズムを強調した、スキップ・ジェイムスより骨太な感じ。YouTubeで"Hard Time"をやってる映像があった。あと、"Nightmare"という曲も少しそれっぽい。

ここまで聞いた感じだと、確かにスタイルは共有してるけど、あの暗いファルセットの感じはスキップ・ジェイムス独自のものなのか??という感じで、ではどこからああいう歌唱法がでてきたのか、ますます謎なのですが...

英語wikiのブッカ・ホワイト Bukka Whiteの項に、ブッカもEマイナーチューニングをスタッキーに学んだのではないか、と書かれている。ふむふむ。

マイナー・キーの戦前ブルースといえば、と友人に教えてもらったのが女性ギタリスト、ギシー・ワイリー Geeshie Wileyの"Last Kind Word Blues"。ベントニア・スタイルに関係あるのかな?と思ってYouTubeで聞いてみたら、バイオグラフはほぼ「ミシシッピの人らしい。1930年代に3枚のレコードを録音」というもので、これは謎すぎ。写真も現存しない。戦争で死んだ父の遺言を歌ったらしい陰鬱な曲で、曲調も歌詞も、すごく謎。英wikiに若干情報があったけど、これはまた後で読もう。

★★★
「ハード・タイム・キリン・フロアー」スキップ・ジェイムス

戦前ブルースは幾つかの3行詩を即興的に並べたものが多いけど、この曲は一貫した内容の歌詞をもち、マイナー・キーのドローン、もの悲しいファルセットも相まって、一つの傑出した作品といえるようなものになってる。ヴァースにあたる部分と呻きのようなハミングによるコーラスのABAB構造も印象的。

そして歌詞は物凄く暗くてポリティカル。大恐慌下のアフリカ系の人の生活を歌った曲ですね。
スキップ・ジェイムスの音楽は陰鬱な浮遊感に満ちているが、人柄はけっこう外向的でタフな人だったらしいです。「スキップ」っていうあだ名がそういう意味だし。彼を「ニガー」呼ばわりした白人に「ニガーというのは汚い心を持った人間のことだ。それは今のお前だ」と反論したとか。
そんなスキップ・ジェイムスの人間性がこの歌詞にも現れているんでしょうね。

Hard time's is here
and ev'rywhere you go
Times are harder
Than th'ever been befo'

Um, hm-hm...

You know that people
They are driftin' from do' to do'
But they can't find no heaven
I don't care where they go

Um, hm-hm...

People, if I ever can get up
Off a-this old hard killin' flo'
Lord, I'll never get down
This low no mo'

Um, hm-hm...

Well, you hear me singin'
This old lonesome song
People, you know these hard times
Can't last us so long

Um, hm-hm...

You know, you'll say you had money
You better be sho'
But these hard times gon' kill you
Just drive a lonely soul

Um, hm-hm...

辛い時代だ、どこに逃げようと
ますます物事はひどくなる
今までにないくらい
Um, hm-hm...

そうだろ、人々はあちこちさまようが
天国にはたどり着けない
彼らはどこに行くのか、俺にはどうでもいいよ
Um, hm-hm...

この屠殺場の床から俺は起き上がれるのか
神よ、これほどひどく落ち込んだことはない
Um, hm-hm...

みんな、このおきまりの、寂しい歌を聴いてるかい
こんなひどい時代じゃ長く生きられない
Um, hm-hm...

昔は金があったというのかい
よく考えてみた方がいいぜ
このひでえ時代はお前を殺す
孤独な魂が追いまくられるんだ
Um, hm-hm...


デヴィル・ガット・マイ・ウーマン/Pヴァイン・レコード
¥2,100
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初代プレイステーションのゲーム。配信も終わったようですが、かなりおすすめの、名作です。PS3だったら初代PSソフト動くし、中古で買ってもいいかも。

ゲーム性、ないに等しい。
街中を歩きまわってフラグを立て、3Dのダンジョンに入って、木火土金水、陰陽相克の5すくみによる、チープな戦闘もあったりする。でも、このゲームの魅力はそういうところには、ない。
見事なグラフィックで描かれたアジアの街の裏通りをさまよい歩くことがキモ。

★★★
タオイズム、風水思想がモチーフのストーリー。

『陽界』に『陰界』の九龍城が出現、陰と陽の混淆により世界の秩序が崩壊の危機にさらされている。香港最高風水会議の超級風水師であるプレイヤーは陰界に赴き四つの神獣を見立て、風水を起こし、世界の秩序を取り戻さねばならない。」

『九龍城が出現した』と言われましても、それはいったい、どのような事態なのか... 地中からわき出たか、天から降ってきたか。何の説明もなされず、そもそも『陰界』とか『陽界』というのが、何のことだかさっぱりわからない
わからないまま、オープニングの『香港最高風水会議』の部屋から出ると、そこはいきなり陰界の九龍城であるらしいのだった。

九龍の「胡洞」(フートン、「路地」のような意味で、つまりダンジョン)には、気脈の歪みによって「邪気」が蔓延り、捨てられたモノは邪気によって鬼律(グイリー、付喪神のようなもの)と化し、胡洞の闇に跳梁している。また、それぞれの妄想を抱える街の人々は次々に邪気に取り憑かれ、「妄人(ワンニン)」となっていく。

やがて、胡洞の邪気を浄化しつつ、見立てるべき四つの神獣を探す主人公の前に、「双子の力」を集め神獣の力を我が物にしようとする怨霊「妖帝」と、彼が使役する妖術師たち『蛇老講』が立ちはだかるのだった。

「奴ら、双子の力を集めてるらしいぜ、ヤバいよなぁ...」
と同意を求められても、それがどれくらいヤバいのか、見当もつかないが。

★★★
とまれかくあれ、思いつきのままにファンタジックなガジェットを並べて、聖書や東洋思想など、古代の神秘的な思想でまとめ、「謎めいた世界」を構成するのは、カンタンだと思います。
このゲームのストーリー、世界観は、それが現実の歴史を踏まえていることで、尽きせぬ読解の可能性を与えてくれる。「読める」ゲームなんですわ。

ストーリーの背景は、現実の1997年7月1日香港返還とその後の九龍城砦解体(跡地は公園に)。

作中の重要なキーワード「陰と陽」、ファンタジーっぽい、よくある二元論だけど、それはまた同時に、現実社会における二元論も踏まえている。

つまり、「陰界」「陽界」について何の説明もないのは、それが多義的だから。
一つには「平行世界」のようなものなのだが、同時に、繁栄の表側と裏側、(あるいは心の陰と陽)のようなニュアンスも暗示している。

「陰界」とは、盛り場の裏通り、縁日のいかがわしい見世物小屋、ハスラーやギャンブラーたち、そして歴史のエアポケットに残ったカオス、九龍城塞などなど、社会や歴史の影の隠喩でもある。そういうアジアの前近代的なカオスは社会の表面から次第に駆逐されてきた訳だ。九龍城塞の解体をその象徴としている訳ですな。
「物の怪使い」の少年は、主人公に敗北すると「僕たちは昔から芸をして生きてきたんだ」と言い残して去っていく。あるいはダンジョンの隠しキャラ「ダミアヌス」
(ダンジョン探索のフラグが立つ前に、次のダンジョンの入り口に・・・・・)

「邪気」を祓い、胡洞を浄化していく主人公は、世界の秩序を回復するかもしれないが、闇を侵犯する存在でもあるのだった。でそういう社会のグレーな領域に安息の場所を見いだす人、というのも、いつの時代、どこの国にもいるわけね。
また別の意味では「廃墟好き」みたいなことも、心情的に、そういうこととつながってるかも知れない。作中の写真家グエン・グエンはそういう陰だけを写真のテーマにしたことで、邪気を呼んでしまうのだが...

また、自分がモノであるというフェティシズムによってのみ、人であり続けられる「妄人」というのも、サイバーパンクなミュータント的存在であるとともに、そのまま現代の生活の隠喩とも読める。だから、まるっきり妄想じみたゲーム世界、という訳でもない。

★★★
現実の風水は、都市の四方の地形を「神獣」に見立てることで、シンボリックに都市の平安を確立する呪術なのだが、このゲームの「陰界」において、見立てられるのは人間である。それでゲーム内の描写からすると、見立てられたら、神サマになるのであって、人間としては、ゲームオーバー、らしいのである。
ぶっちゃけ、人身御供、人柱である。
それで、このゲームのもう一つ隠された主題は、歴史と個人、宿命、というようなもので、つまり、のゲームは、非常にシュールで気色悪い世界なのだが、しかし、神獣に見立てられる宿命を背負った人たちが、宿命に向き合ったり、そこから逃がれようとしたり、という、なかなかクラシックな、叙事詩的な結構を持ったストーリーでもある。
ぶっちゃけ、主人公はそのストーリーの傍観者...いや目撃者でしかないんだけど。

でもそういうことはテキストでは一切語られない。完全にプレイヤーの読解力にゆだねられ、気づいたときには、物の怪には「剥きえび」が投げつけられ山田隆夫さん(役名「ハッカー」)脳みその無意識をいじくるんだ!気ん持ちいいぞぉ」と絶叫し、青野武さんの「陰陽師」は全てのセリフが無意味にテンションが高く、さらに、プリティな「妖精さん」ダンスの時間が始まっている。

★★★
最後に、すべての九龍の住人の、異様に濃く、ヘンなキャラクター。
ゲームを最後までプレイし、カオティックな九龍城が消失するのを見たとき、プレイヤーには、いつしか彼らが遠く別れた友人たちのように思えてくるかもしれない。

そしたら、たぶん2週目3週目もプレイしてしまうだろう。
エンディング分岐も、戦闘などのやり込みなどの要素もいっさいなく、何一つ1回目のプレイと変わらないとしても、だ。
ゲームオーバー時の画面はお好みで、3種類選ぶことができます
まあ、前に書いたとおり、異国の街をうろうろするためのゲームだから、それでいいのだった。

蓜島邦明による、効果音とBGMの狭間にあるようなアンビエント/ノイズ的な音楽も非常にすばらしい。



ARTDINK BEST CHOICE クーロンズ・ゲート-九龍風水傅-/アートディンク
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さいきん、アルバート・アイラーがすごく沁みるようになり。それで中上健次。

破壊せよ、とアイラーは言った』(文春文庫)は中上健次の1980年代前半のエッセイ集で、
雑誌の連載エッセイが中心になってる。
それで、この本におけるジャズと中上の関係が、どうなってるか、興味津々。

タイトルどおり、中上が60年代の青春のころに聴きくるってたという、ジャズについての文章もある。でも、中上健次が書いている「コード/規範の破壊」というのは、当時の(今はどう?)日本人ジャズ評論家・ジャズファンの「モード~フリー」理解を出るものではなく、純粋に音楽論として見た場合には、特におもしろくはない

あくまでこのエッセイ集は、80年代日本の状況についての、中上の個人的な問題意識についてのものであり、また当時の若者へのメッセージである、という意味において読むべきものであって、とりたててジャズ論というわけではなかった。

★★★
さて、ごく単純に、実在するサクソフォン奏者であるアルバート・アイラーは「破壊せよ」って言っていない。コードの破壊・侵犯というのは、60年代の日本の若者に聞こえたアイラーであって、実在するアルバート・アイラーではなかった。
でもジャズ入門書のアイラーではなく、未だ中上の耳の中で叫んでいたアイラーがここでの問題なのだろうから、これでいいんだ。おそらくアイラーは確かに、60年代の新宿で、破壊せよ、と言ったのだろう。私はその時代の新宿に生きていたことがない。

実在したアルバート・アイラーという人は、「僕は、人々をより高い精神に導くような音楽がやりたい」と大まじめに語り、そしてその音楽は最終的には、カリブ海音楽とリズム・アンド・ブルースと黒人教会的な世界を混ぜたようなおおらかなものだった。

★★★
「フリー・ジャズ」の、たぶん、いちばん正しい定義は、単に「60年代の前衛ジャズ」というものだと思う。フリー・ジャズに含まれる音楽は、実際にはかなり多様だ。多くの「フリー・ジャズ」の演奏は、「決めごと一切なしに、自由に演奏」してはいないし、まして「破壊」を表現してなどいない。
そうしたフリー・ジャズのイメージに一番近いのは、たとえば日本の阿部薫だと思う。
(でも阿部薫の音楽が「ジャズ」として聴かれることが、阿部薫の音楽にとって幸福なことかどうか、わたしには疑問。彼は反芸術性を志向してたように思え、ならば「即興芸術=モダンジャズ」と、正反対のものなのではないか、とも思えるから)

コルトレーンの『至上の愛』やアイラーの『ゴースト』(まさに「精霊」)は、「公民権運動」「革命」の時代の音楽ではあったが、その音楽は「革命」の表現ではない
むしろ、黒人教会のプリーチや、精霊が降りて神の言語で歌い出す(異言 speaking in tongues)会衆のイメージそのままだと思う。
ペンテコステ派とかかな?(間違ってたらごめんなさい)
キングレコードの民族音楽集成、アメリカの音楽の巻で、そんな光景が聞けた。

あるいは、それは幻想のアフリカへの回帰かもしれず。
あくまでそれはプロテスタントなんだけど、また一面では、ブードゥとかサンテリアみたいな、キリスト教と習合したアフリカのアニミズムに通じるものも感じられ。
アフロ・アメリカン・アニミズム(←民俗学的な根拠なし、間に合わせの造語)といえばいいのかなんなのか、聖性への希求、というのがあるわけだけど、その希求の対象となる聖なるものが、60年代アメリカ合衆国において、カラッポ、だということ。
文化や言語を奪われてしまったわけだから...創り出さないといけない。
だから「教会」や「アフリカ」は、「テクノ」とか「宇宙」とか「ダンスフロア」であっても、かまわない、というとこで、野田努『ブラック・マシン・ミュージック』(河出書房新社)を読むべし。
なんでマザーシップからオムツはいた奴が降りてきて、木星人がビッグバンドをやってたのか、っていう話。

★★★
話をもどして、
多くの調をスーパーインポーズし、コードの上でほとんど12音全てを使いたおせるようなシステムを確立したコルトレーン。
12のキーは全て1つ、すなわちそれは全てが神のうちに内包されていることの音楽的表現である。...と思っちゃったんでしょうね...『至上の愛』のPt.1で、マントラのようなテーマが転調を重ねながら基本となるキーにもどっていくところなど、そんなイメージなんじゃないか、と思った。

そんな感じで、アイラーやコルトレーンは、60年代の「破壊」の問題圏より、このエッセイのころ中上が見ていた「物語」「うた」「現代におけるシャーマニズム」といった問題圏の方に、近いんじゃないだろうか。中上は、ボブ・マーリーに芸能とシャーマニズムの交差するものを見、熊野山中でレゲエを聴いてた。
だから、アイラーは破壊せよって言ってないかもしれないが、でも中上健次のジャズ、そんな間違ってない、という私の結論。

★★★
本書の最後には、若者へのメッセージとしてケリをつけるように、中上自身の処女短編が収められている。上京してきた予備校生が都会で「嘔吐」にさいなまれながら、遂に予備校の屋上から飛び降りることで「英雄」となろうとする。こうして誕生した「英雄」は、しかし自らの落下のさなかに、この落下は単に受動的なものにすぎないともいえるのだ、などと自問する。

青春は、ひどすぎる」——中上健次

荒々しく、ひどい短編だ。
そして処女作にして既に「破壊という物語」だけでなく、その物語への批評的な視点も含まれている。アイラーも、中上健次も、ともに(よく誤解されてるみたいだけど)破壊の人ではないのだった。

それで、アイラー最後のライヴ音源の一つ、『Nuits de la Fondation Maeght』。
ここには、ほんとに穏やかな「うた」が溢れている。

破壊せよ、とアイラーは言った (集英社文庫)/集英社
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ブラック・マシン・ミュージック―ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ/河出書房新社
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フルクサス。

ジョン・レノンの1stソロ"Plastic Ono Band/John Lennon"と対になってるアルバム。
そしてその強烈なアルバムについての以下の文は、「そうは言っても、キツイだろう、いろいろ」という前提で書かれることが想定されるのですが、

女の人が「ぐぇ~~~」とか喚いていて、
しかもそれが日本人で、「偉大なビートル」であるジョン・レノンの隣にいる、そういう事態に対する先入見をもたない人は、このレコードを楽しめる可能性があります

フランク・ザッパのマザーズとの共演も、あのとんでもない怪人たちに声だけで拮抗してるスゴイ、と見るか、それとも、なんか日本人の女が出てきて、ロック・ジャイアンツたちの中で一人滅茶苦茶やってる、と「同じ日本人として恥じ入る」か。

でもボーカリストとしてやってることは、後のダモ鈴木や山塚EYEなどとあんま変わらない、という気もしたり。
やっぱ女の人が生々しく叫んだり喘いだりしてるのを、聞きたくない、というところが大きいのではないかと思ったり。逆にいえば、その「女の人だって叫ぶときゃ叫ぶ」というところが、この1970年録音のアルバムの可能性の中心...かもしれない。

オノ・ヨーコと定型的なポップ/ロックサウンドの組み合わせは、やはり音楽の人ではないので、かなり無理があると思う。「普通に歌ってる」ときも、かなり無理、と私は思います。
しかし、ジョンの1stおよび、このア ルバムにおける、ジョン・レノン、クラウス・ブーアマン、リンゴ・スターによるロックバンドは、非常に重くミニマル、ある意味、シンプルすぎてアバンギャルド、というアンサンブルなので、オノ・ヨーコの自由なボーカリゼーションとそんなに違和感がないと思います。

パンキッシュな"Why"、クラウス・ブーアマンとリンゴのミニマルなビートに不気味なチャントがかぶさる"Greenfield Morning"や"Why Not"、トライバルな"Paper Shoes"、ファンクでダブな"Open Your Box"、オーネット・コールマン・グループにヨーコさんの困ったボイスが絡む"AOS"などなど。

結構いいのよ。
でもビートルズファンには、たぶん無理
私も幼少期ビートルズファンだったのでそんな気がする。

80年代末から90年代の米国インディーズ・ロックなんかを思い出すと、ある意味、先駆的な...気がしなくもないですが、
ESP diskの作品とか60年代の訳わからん音楽を知ってる人、はたまた、90年代のローファイだのスカムだのを聴いてた人なら、ヘンな前衛ポップとして、普通にいいじゃん、と思うチャンスが、まだ残されています

歌詞も(このアルバムの収録作品ではないけど)"Death of Samantha"(曲については、ノーコメント...)とか"Yang Yang"(こっちは曲も結構ヘン)とか、なかなか強烈な歌詞を書く作詞家でもある。オノ・ヨーコさんを「ピース!」とか言ってるだけの元ヒッピーのおばさまだと、あなどらない方がいい。


Plastic Ono Band/Rykodisc
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レニー・トリスターノ、よくわからんが気になる人。

このアルバムは日本のEast Windとかいうレコード会社がレニー・トリスターノに掛け合って出した生前最後のアルバムらしいです。未発表音源集。

1曲目のタイトル曲は、1953年のホームレコーディング。多重録音で、混沌とした「音の渦」を作り出していて、ほとんどセシル・テイラーみたい。
1953年に60年代のフリー・ジャズみたいなことをやってます。

先駆的すぎますが、未発表の宅録だから、誰にも影響を与えようがない。
一人でお家で先駆的なことやって、しかもレコード会社嫌いだから、発表しない、というね。
このとてつもない孤独な感じは、なんなんでしょうか?
涙で目の前がよく見えなくなってきましたが、
あとはDVDになってるDarn That Dream(原型止めてない...)とImaginationのソロ(音悪いのでDVDで聴く方がいいです)、ソロありピアノトリオあり。2曲がロイ・ヘインズとピーター・インドとのトリオによるライヴ。もちろん全部いつも通りのスタンダード曲に基づくインプロ。「鬼才」とか「ニュー・トリスターノ」よりも暖かみのある演奏、と思った。

amazonでは中古プレミアがついてるが、iTunes Storeでは1500円くらいで買える。でもブックレットがないので痛し痒し。

"Descent Into The Maelstrom"Lennie Tristano
1.Descent Into the Maelstrom(3'24)*
2.Dream: Paris 1965(2'58)☆
3.Image: Paris 1965(3'25)☆
4.Rehearsal Take 1 (4'30)♥
5.Rehearsal Take 2 (3'11)♥
6.Rehearsal Take 3 (4'03)♥
7.Stretch (6'08)♨
8.Pastime (3'39)†
9.Ju-Ju (2'15)†
10.Con Con (8'47)♨

*Tristano (pf solo), home studio,NYC, 1953
♥Tristano (pf solo) home studio, NYC, 1961
☆Tristano (pf solo), Paris, France, Nov 3, 1965
    (Darn That Dream, Imagination)
†Tristano (pf), Peter Ind(b), Roy Haynes(ds), New Jersey?,
    Oct 30,1951
♨Tristano (pf), Sonny Dallas(b),Nick Stabulas(ds), home studio,
    NYC, 1966

メエルストルムの渦 (紙ジャケット仕様)/ユニバーサル ミュージック クラシック
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高校の頃、ジョン・ゾーン好きでした。
ジョン・ゾーンのネイキッド・シティを聴いて、(あれはあまりジャズではないけど)それでジャズに本格的に興味を持った。

このアルバムは1988年、ジョン・ゾーン(sax)、ビル・フリゼール(g)、ジョージ・ルイス(tb)のトリオで、ソニー・クラーク、ハンク・モブレー、フレディ・レッド、ケニー・ドーハムの曲を演奏しているという、どハード・バップ祭りの作品です。
関係ないが、このトリオのギターがデレク・ベイリーに変わったのが"yankees"(1983)というアルバムで、これはフリー・インプロヴィゼーション。高校生の私は、ベイリーの押弦のフレット・ノイズだけの演奏に腰が抜けた。

それでこのハードバップ大会。ゾーンが日本語をマスターして高円寺に住んでたりしたきっかけは、彼が若い頃、ソニー・クラークのレコードが日本盤でしか出てなくて、ライナーが読みたかったから、という話。

このアルバムの選曲は、「日本のモダン・ジャズ・ファン」なら、「50年代ハード・バップ=モダン・ジャズの黄金時代への敬意の表明」と思うのかもしれませんが、アメリカ人にとってはどうなんでしょう。むしろ音楽の遺跡を考古学的に掘り起こしてる感じなのかもしれない。

ここでの演奏は、ゾーンらしいフリー・インプロヴィゼーション的な要素もあるのですが、ハード・バップ曲を素材に自由なインプロヴィゼーションを展開する、という感じではなく、ハードバップの「作曲家たち」の「曲そのもの」をコンセプトにしている印象です。だからつまりタイムスリップとかコスプレの気分でハード・バップをやるというより、歴史的な距離を踏まえた演奏ということになる。それでいて知的で冷たい音楽ということはなく、原曲のメロディの「かっこよさ」にフォーカスした演奏は、すごく聞きやすかったりします。

オーネット・コールマン的な、各楽器の同時的な「うた」がそのままアンサンブルを決定するアプローチというか、原曲のテーマに寄り添いながら、3人がメロディになったりリズム・セクションになったり、自在に役割を変えていく
そんな中で、ゾーンがフリーキーなフレーズをかましたり、ジョージ・ルイスが突然ファンファーレを吹いたり、そうすると他の2人が瞬時にそのフレーズにあわせたりして、時々でてくるそういうヘンなサウンドにニヤニヤしてしまいます。

オーネットとデレク・ベイリーに憑依されたアーマッド・ジャマル・トリオか、あるいは、遊星からの不定形生物Xが擬態した寺島靖国さん(なんだそれは)か、そんな感じが。

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サイレンの音とアシッド・ハウスのプリープのようなオルガン(リング・モジュレイターのかかったギター?謎。)のシークエンスからはじまる『カダフィーのテーマ three improvised variations on a theme of qadhafi』。
1人ユニット『アクション・ダイレクト』による1990年12月16日のインプロヴィゼーション。
横に寝かせたプリペアード・ギターを金属片などで演奏するテーブル・ギター数台と、クラシックや声、環境音などのテープ素材、それぞれのラインにリング・モジュレイターなどのエフェクターをかまし、MTRでミックスしてギター・アンプに流す、というような『イナニメイト・ネイチャー 無生物界』と同じ演奏法だと思います。
混沌とした轟音の中に、ときどき紛れもない「人の手によるギター演奏」が聞こえる。
しかし、このアルバムでは『イナニメイト・ネイチャー』以上に、重層的なテクスチャーがよりわかりやすく、「聞きやすい」ように思いました。

高柳昌行はやたらに「孤高の」「前衛的な」「政治的な」音楽家ということで、敬して遠ざけられることが多いと思うので、「聞きやすい」といいたい。無理にでも

高柳昌行が自身の音楽を、20世紀音楽史や、エレクトリック・ギター史との関係で、ごく具体的なメソッドの面から組織していたのと同時に、また、ある種の抽象的、思想的なイメージに基づいて組織していたことは、間違いないでしょう。

しかし、「集団投射」「漸次投射」という2つの方法論の組み合わせによって即興演奏を組織していた、とされますが、これがどういう概念なのかは、『汎音楽論集』を読んでも、わかりやすい説明はない。論集に収められた対談では、さんざんアイデアを盗用されてきたし、方法論を説明する義理もない、というようなことまで言ってるし。

エネルギーを極度に集中していく過程と、その極点でのプラトー状態や、あるいは逆に「破れ」が生じて、低エネルギー状態に戻る、というような力学的なイメージか、と読み取れますが... 東洋思想を研究したようなところもうかがえる。

ヘヴィメタやハードコアパンクのノイジーな大音響の演奏というのは、若いころは、過激で、激しい音だぜ!と大喜びですが、極度のノイズや轟音で埋め尽くされた音というのは実はスタティックなものであり、戦前ブルースの一見「静かな」演奏の方がはるかに激しい、ということがあります。だからたぶん、「集団投射」の方がラウド、とかいった、サウンドの意匠の話ではないのだろうと思われる。ぶっちゃけ聴いてもどっちが集団でどっちが漸次、というようなことはわからないんじゃないだろうか。

すると、これはサウンドの見かけによる把握にとどまらない、形而上学的な構造において即興演奏を組織するという思考による音楽、ということになるんでしょうか。

『メタ・インプロヴィゼイション』は、1984年11月21~28日の北海道公演からまとめられたもの。大友良英氏が高柳の弟子として活動上のさまざまなサポートやエクイップメント開発に携わっていた時期のものだそうです。
ここでは既にテープを含むマルチ・トラックのライヴエレクトロニクスによるアクション・ダイレクトの演奏形態が確立されていますが、まだ「ソロ・ギター演奏」としての顔が残っています。どんな機材をどのように操作しているかはわかりませんが、テープからは短波ラジオ?の外国語放送のような音が聞こえてきたり、ギターからはヴァイオリンのようだったり、ドラムのようだったり、人の叫び声のようだったりするサウンドが生み出されていて、一人ノイズ・オーケストラのような印象。
次から次に新しい音響が繰り出されてきます。
単純に、即興演奏家としての視野の広さ、多彩な語法がわかりやすく、これも「聞きやすい」と思いました。


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アルバート・アイラーという人は、なんだか気になる。
「ハラホレヒレハレ~」と歌ってしまう、天然のフリーダムな人という印象がありますが、この1963年1月デンマーク録音のアルバムでは、アイラーが「普通に、ジャズ」だったことを教えてくれます。

「僕はアルバート・アイラーといいます。ここでは仕事があって、しあわせです」という、おだやかな挨拶、続いて"Bye Bye Blackbird"がはじまります。
都会で暮らす娼婦が故郷に帰っていく光景を歌ったともいわれるこの曲、マイルスの"Round About Midnight"ではパーカーの追悼曲めいていました。
このアルバムでは、デンマークのミュージシャン、ニールス・ブロンステッド(pf)、弱冠16歳のニールス・ペデルセン(b)、ロニー・ガーディナー(ds)はごく普通のハードバップを繰り広げていると、いきなり明後日の方向からアイラー飛来、いきなりスゴイことになってます。

しかしながら、このアルバムでのアイラーはあくまで「曲」を演奏しており、たとえばアルバム中ほとんど一度も4ビートのリズムから外れません。(個人的には、どんな変テコな演奏でも、まずリズム構造を聞き取ると、わかりやすくなると思います)
デンマーク勢も、"Blackbird"の最後ではピアノを止めてベースのオスティナートでアイラーの自由な展開を支えたり、アイラーとちゃんと反応しあってる感じ。すごく、普通です。ベースのペデルセン少年、才気を感じさせるプレイが印象的。

後にトレードマークとなる黒人霊歌的なメロディや、ホンカー的なフレーズ、あるいは、ある種マイルス・デイビスとかビリー・ホリデイを思わせる、語りかけるようなリリシズム、ここでのアイラーのプレイは別にわけのわからないものではありません。ビバップ的な和声的なアプローチにかわる、人間の肉声に近いサウンドによるメロディックなアプローチ、という訳で、"Summertime"などでは非常にダークな美しさを湛えたメロディが聴けます。これはすごくいいです
リラックスした雰囲気の"Billie's Bounce"では、パーカー・フレーズの引用をしたりも。

最後の"C.T."はベース、ドラムとのフリー・インプロヴィゼーションですが、ここでのトリオは互いの提示するモチーフに反応して次々に新しいエピソードを作りあげていく構築的なもので、けっこう「普通のモダン・ジャズの演奏」です。静かな演奏がダレてきたかな、と思うとドラムが速い4ビートを提示、ペデルセンが反応、しばらくするとアイラーが3連のフレーズを提示してドラムが合わせる、とか、そういう感じです。

すばらしいレコードだと思います。


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時々、取り憑かれたようにエリック・ドルフィーが聞きたくなる。
それでOther Aspects、前々から欲しいと思ってたけど、なかなかレコード屋で見ないので、iTunes Storeで買ってしまった。

1960~1962年にドルフィーが行った未発表レコーディングを集めたCDで、ますますドルフィーの謎が深まってしまう作品集。
実験的だが、フリージャズの対極というか、極めて緻密な抑制された世界。
謎すぎるので、これはライナーノーツが欲しかったかも。CDのライナーノーツを読めば謎の事実が全て氷解したりするのだろうか...

まず、1曲目の大作「ジム・クロウ」が謎。
このトラックのタイトル、ジム・クロウとは、ミンストレルにおける足の不自由な黒人男性の動きを滑稽にまねたダンス芸の名前であり、転じて、1876年~1964年まで存在した米国南部の州法の俗称。州法によって、アフロ・アメリカンの公共施設における隔離は合法とされていた。

ミンガスの「フォーバス知事」、十年一日に、「社会についての怒りを表現したジャズ」などと語られるトラック(その音楽に感じられるのは、怒りだけではないと思うが...悲しみとか)。
そこで皮肉なフリークトーンを吹くドルフィーが親分同様、怒ってるのか、悲しんでるのか、醒めてるのか、この誰からも愛されたとされる温厚で物静かだが過激なサックスを吹く男が、社会とかについて何を考えていたのか、そういうことがいまいち謎だったのだが、タイトルからして、これは生前明らかにしなかったドルフィーの社会に対する考えが反映されたトラックだと思われるのでした。

歌詞を聞き取ってみると、
Crow, Jim...
might, one day, be gone, gone, gone...
yes, yes, yes.. one day...
yes, one day, happy day...
might be gone
black, white, oh yes, black and white...
might, one day, live in peace...
いつか、白人も黒人もなくなる日が来る…という希望を歌った詩でした。

ドルフィーのアルトによる短く激しい序奏のあと、デイヴィッド・シュワルツのカウンターテナーが前述の詩を静謐に歌い出す。しかしながら、希望に満ちた歌詞を歌う声は不気味な呻き声に変わり、次第に演奏は混沌に飲み込まれていく。
やがてチャントとフルート、ピアノの合奏による、冒頭の静かなムードに戻って、曲は終わる。
フリー・インプロヴィゼーションではなく、明らかに何らかのスコアに基づいて演奏しており、ドルフィーが15分に及ぶ劇的な作品を構成する能力を持っていたことを示している。

声の使い方に、ちょっとフランク・ザッパの「いたち野郎」(まさにドルフィーの追悼曲が収められている)の1曲目を思わせるところもある。偶然の一致なのか、それとも、当時ザッパがこの未発表音源を聴くことができた、ということはありえるだろうか?
この曲は1962年の録音ということで、マックス・ローチのWe Insist !、ミンガス・プレゼンツ・ミンガスの2年後ということになる。

1960年11月録音のトラックが3つ。2曲目と4曲目のフルートソロinner flight(pt.1とpt.2)、極めて美しい。トラック3はアルトとロン・カーターとのデュオによる4ビートの即興。

最後の曲は「インプロヴィゼーション&トゥクラス」(タルカスではない)。
タブラ(タブラ奏者のGina Lalliという女性がインド的なリズム分割を声で示している)とタンブーラ、シタールの演奏にのせて、インドの音階(?)によるリフを反復するドルフィー。ひたすら反復です。エンディング以外、他のフレーズは吹きません。作品というより、インド音楽の研究のための録音だったのか?(CDライナーノーツにはそこんとこについて何か書いてあるのだろうか...)でも、遅くなったり速くなったりするリズムと、延々続くフルートの反復のせいで、凄まじくトリッピーな、ヤバい世界になってる。

かなり特異な世界ではあるのですが、決して意味不明でフリーダムな混沌が延々アルバム1枚分、という世界ではないので、out to lunchとかが気に入った人にもぜひお勧めしたい1枚。


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