塚本邦雄
うまをあらわば/うまのたましい/さゆるまで/ひとこわば ひと/あやむるこころ
★★★
1969年の第六歌集『感幻楽』所収、『花曜—隆達節によせる初七調組カンタータ』の一首。
隆達節は安土桃山~江戸初期の日蓮宗の僧、隆達が創始した小歌の流派だそうです。
この歌のリズムは、初句七(77577)で、短歌形式に導入された七五調。
山中智恵子とか、当時の前衛短歌のこころみの一つ。
1180頃の『梁塵秘抄』とか『田植草紙』、16世紀の『閑吟集』など、
こういう歌謡のリズムが短歌形に代わり中世以後、隆盛していった。
激動の時代を生きた後白河法皇(1127-1192)とか、天皇なのに和歌ヘタクソ、そのかわり今様に熱狂。白拍子など下層階級のパフォーマーと貴族が入り交じったライヴ・イベントで夜毎フィーバー
後白河は、王朝のリズムではない、庶民のリズムに時代の風を感じていたのでしょうか。★★★
古来、馬は、洋の東西を問わず、高貴な、美しい動物。
戦士の友。武士っつうことですね。
だから、ここでの「恋」は、あまり異性愛っぽくない。
★★★
古代インドのヴェーダの祭儀に、アシュヴァ・メーダという馬の犠牲祭があった。
そのアシュヴァ・メーダには、馬と王妃との交合を模した儀式があったとかいう話で。そうするとオシラサマの馬娘婚/馬の殺害に通じてくる。
オシラサマはカイコの飼養の起源神話でもあるのだから、これはオオゲツヒメ、保食神みたいな食物起源神話(ハイヌウェレ神話)という性質もあります。
そういう神話において、聖獣の殺害によって獲得されるのは、神的な権力だったり文明だったりするのですが、でも、そういう神話の根源には、馬とか牛とかいった、獣の強壮な生命力を、血を通して取り込む、というような、古代的な想像力があるんじゃないでしょうか。
ミトラ教の牛の供儀とか、ギリシャのミノタウロスの物語も、これは英雄譚だけど、異類婚と聖獣の殺害という、同じ想像力によっている。
★★★
なんにしろ、供儀の神話においては、往々にして、高貴な動物の血から力が獲得されるということと、性的なものが結びつけられている。
それで、この歌の上句「馬」と、下句の「恋」というイメージの連結には、直接的ではないにしろ、そういう神話的なものまで連想が届くところがあるような。
★★★
でも、起源神話としての異類婚というのは異性愛でないといけないんだと思う。
なぜなら、同性愛だと起源にならない。だからこの歌は神話としては、ねじれた感じがある。
神話のなりそこないというか、不毛の神話としての恋歌。切ないんですな。
もちろんこの歌の「恋」は異性愛として読むこともできる。
異性愛だろうと同姓愛だろうと、恋がまさに恋として、理由だの有用性だのと関わりのない狂気、まぼろし、至純のものとしてありえるならば、その恋とはつねに未遂の神話、かもしれず。
★★★
上句は、「馬を洗うならば」「馬の魂が冷えた光を放つまで」という意味。
高貴な動物としての馬を洗うならば、徹底して洗う。
「冱える」は寒さなどが厳しくなるさま、また、澄んで、あかあかと輝くようなイメージ。
馬の魂が冴えざえと輝きだすまで洗う、ってことは、つまり、肉体は冷え切ってる。もっといえば、馬、もう死んでます

ならば、下句「人を恋するならば、その人を殺すほどの情熱で」は上句の言い換えにすぎない、ともいえたりするかもしれない。
相手を殺すほどの献身。
★★★
「恋はば」は確か塚本邦雄自注によると、正しくは上二段「恋ひば」で、「恋はば」の用例は存在するものの、あくまで韻律上の破格とみるべき、ということらしいです。
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」というところが、この1970年録音のアルバムの可能性の中心...かもしれない。









