見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春のあけぼの
みぬよまで おもいのこさぬ ながめより むかしにかすむ はるのあけぼの

むずかしい歌です...

九条良経(後京極摂政前太政大臣)(1169-1206)は新古今時代の公家、歌人。太政大臣、若くして人臣最高位に。良経を中心とする九条家・御子左サロンが後鳥羽院サロンに発展、新古今和歌集へつながっていく。

丸谷才一は『後鳥羽院』で「旦那芸」と評していますが、そんなことないと思う。
ある意味で、テクニックにこだわってギクシャクする定家よりも、個人的には好きです。仏教的な無情感の影響も感じたりする。
1206年3月6日、深夜に原因不明の死を遂げます。享年38。

見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔にかすむ春のあけぼの

「見ぬ世(見ない時代)」は、未来だと思う。
それは、自分がいなくなった後、を含意すると思います。
というのは、この「見ぬ=未来」は、続く「眺め=現在」と対照をなし、
すなわち「そこに眺める私はいない」というニュアンスに読めるから。
もっといえば、自分の死後、という感じすら受けるのですが...

その未来に「思ひ残さぬ(思いを残すことのない)」美しい景色。
それを見ている自分の「ながめ」(現在)。
さらにその景色が「昔」に霞んでいく、そんな春の曙。

自分の生きてきた過去、現在、自分のいなくなった後の未来、その全てが、
目の前の霞んだ光の中に解け合っていく。
でも別に無情感を詠んだ釈教歌という訳じゃなくて、そういうことがなんだか官能的に歌われてるところがポイントなんではないだろうか。

本歌とかはよくわからないですが、『枕草子』
 春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、むらさきだちたる雲の、細くたなびきたる。

あと、
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふる眺めせしまに 小野小町
とか、いくらでも関連する歌や物語はありそう。

あと「思ひ残さぬ眺め」、『源氏物語』読んでたら見つけた。
若紫巻の、「弥生のつごもり」、光源氏がマラリア治療の加持祈祷に「北山」の山寺に詣でるとこ。気晴らしに見下ろすと、屏風絵的な風景が広がっている。そこでまだガキんちょの若紫を見つけるんだけど。
 京のかたを見給ふ。はるかに霞わたりて、四方の梢そこはかとなうけぶりわたれるほど、「絵にいとよく似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」
「かかる所に住む人」は、遁世の風流人、とも読める。

そんな感じで、

私が眺める、この瞬間、この景色、
もはやそれ以外、今生の後に残すべき、何の思いもなく、
さらにこの春の曙は、遠い想い出へと私を霞ませていく。

みたいな感じでしょうか? むずかしい。

『超訳百人一首 うた恋い。』というマンガ/アニメの存在を先日、今さら知りました。素晴らしいことだと思います。ネタになるから古典なのです。

ただ百人一首がうた恋いなのかと考えるに、必ずしも「恋」だけじゃないというか、「政治」とかも。
「政治的失意」ね。
官位あがらないっす」とか「流罪になっちゃった」とかいう。
でもそれが、「伊勢物語」「源氏物語」のイメージなどに取りなされて、「なつかしさ」とか「恋しさ」とかに再変換されたりする、というような歌集だと思う。

百人一首についての本の、おおざっぱなメモ。

■百人一首の解説本 無数にあるけど...
・有吉保『百人一首』(講談社学術文庫)
百人一首についての学問的なことがまとまっています。

・目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫)
『百人一首』は作者たちの人間関係などの知識があった方が、絶対におもしろい。

・樋口芳麻呂校注『王朝秀歌選』(岩波文庫)
短い詞華集を集めたもの。王朝人が考えた「和歌グレーテスト・ヒッツ」ですね。
『百人一首』および、その原型とされる『百人秀歌』など、定家選の重要な詞華集を
収録。
公任の『三十六人選』(三十六歌仙)なども。いきなり勅撰集を読むより、こういう短いアンソロジーの方が入りやすいかも。ただし解説はあまりない。

・安東次男『百首通見』(ちくま文庫)
詩人/俳人である安東次男の読み方。
和歌集を「俳諧連歌」のような、「場の文学」として読む感じです。
歌と歌、人と人との「合わせ」、遭遇によって生まれる重層的な意味と戯れる。
だから『百人一首』より、二首一対の構成が強く出た『百人秀歌』を重視しています。
また俳人だけあって、助字や季語について繊細な読みをしています。おすすめ。

・尾崎雅嘉『百人一首夕話(上下)』(岩波文庫)
江戸時代の国学者による平易な百人一首解説。江戸時代っぽくて、個人的にはおすすめという訳ではないですが、挿絵もたくさんあっておもしろい。

■新古今時代
・新古今和歌集
岩波文庫ならコンパクトな一巻。角川ソフィア文庫なら、詳細な解説、訳、人名録などが付いて上下二巻。

・島津忠夫『新古今和歌集を学ぶ人のために』(世界思想社)

・塚本邦雄『新古今集論 ― 二十一世紀に生きる詩歌』
(岩波セミナーブックス)

「六百番歌合」についての講義録。
歌合というのは、左右チームが歌を出し合い、その優劣を争う、歌の紅白歌合戦みたいなもの。「六百番歌合」は定家たち御子左家の『新古今和歌集』前哨戦的な歌合。
名門・六条藤家と前衛・御子左家の遭遇戦、かなり激しい議論となった。
前衛歌人塚本は当然定家たちに思いっきり肩入れして、実況中継的なノリで楽しげに
語ってます。おすすめ。

・『六百番歌合/六百番陳状』(岩波文庫)
その『六百番歌合』を全て収録。
左右チームメンバー(方人)の議論や、判者(審判)の判詞(ジャッジ)が
読めれば、おもしろい。こういう議論は、当時の歌人たちの理論を伝えてくれる資料でもあるし、単純に、気合い入ってんな~という意味でも。

判者の俊成は、『千載集』を選んだ大歌人、定家の父で当然御子左側。
激烈な「独鈷鎌首論争」が繰り広げられる中、六条家の美学は納得できんが、でも公平に…といった中々苦労を感じさせるジャッジぶり。
六条家の顕昭法師による、俊成の判定に対する反論『六百番陳状』も掲載。

この後、ほとんど誇大妄想的な規模の巨大イベント『千五百番歌合』の主催者として、後鳥羽院もプレ新古今の戦場に舞い降ります。


・『後鳥羽院御口伝』
どの本で読んだのかわからなくなりましたが。後鳥羽院自身の残した歌論です。
新古今の原動力は、後鳥羽院が定家たちの新しい美学に共感したことです。
しかしおそらく歌人として自信を深めた後鳥羽院は、定家の独断的な美学に違和感をもつようになっていきます。
定家も自分を取り立ててくれた後鳥羽院に感謝しながらも、専門家である自分の上に立とうとする後鳥羽院に不満をつのらせ、陰で「上皇の選歌のセンス、ダサイ」などと公言。

この『御口伝』の定家評。
「確かに朕も定家の歌の評価を間違えたりした。それは悪かったけど」と譲歩、
「優美な歌を詠む、生来の上手」として定家を讃え、
返す刀で「人の意見ぜんぜん聞かない」「感情がなくテクニックだけ」と
激烈な批判を展開していることで有名です。
定家と後鳥羽院の間の複雑な愛憎関係がうかがえます。

なお、後鳥羽院が承久の乱の倒幕に失敗、配流先の隠岐で編んだアンソロジー『時代不合歌合』に対する回答として定家の『百人一首』がある、という説があります。

定家の『百人秀歌』や『新勅撰集』では、政治的な理由(幕府に遠慮)で後鳥羽院、順徳院の歌を外さざるを得ませんでした。定家は当初『新勅撰』に二人の院の歌を採ったにも関わらず、削除命令が出たということです。
一方、後鳥羽院『時代不合歌合』には、しっかりライバルたる定家の歌が選ばれています。
そのことに定家は何を思ったか、そこでの自分の歌の扱われ方にキツイ皮肉を言ってたらしいですが。しかしとにかく『百人一首』はその二人の上皇の意味深な歌で終わります。


・後鳥羽院『遠島御百首』(「中世和歌集 鎌倉編」(岩波書店))

新古今の後、承久の乱に敗れ隠岐に流された後鳥羽院が詠んだ百首の歌。
島の風景や人々。慟哭と諦念。
アーティスト後鳥羽院の、新古今以後の超える達成。

・塚本邦雄『定家百首/雪月花(抄)』『王朝百首』
(講談社文芸文庫)

百人一首は全体で一つの世界を構成するようなアンソロジーで、一つ一つの歌を、背景知識なしに読んでおもしろいかというと、必ずしもそうではない、というのは一般的な意見だと思われます。
これらのエッセイ集で、歌人塚本邦雄は、三十一文字の詩として現代人に衝撃を与えられるか、という観点から王朝和歌を選りすぐってみせています。
同じ文学者の読み方でも、安東次男などとまったく異なる方向ですね。
定家とは異質な天才、藤原良経の歌を集めた『雪月花(抄)』は絶対におすすめ。


・掘田善衛『定家明月記 私抄』
『定家明月記 私抄 続篇』(ちくま学芸文庫)


「紅旗征戎、わが事にあらず」我こそは歌人、天下国家のことなど知らぬ。

そういうくせに、けっこう天下国家について悲憤慷慨するのが好きそうな定家卿。

傲慢なのに、涙もろいロマンチスト。貴族社会の眼に神経質で、喧嘩っぱやい。
前衛歌人のくせに、伝統主義者。
そういうエキセントリックな大歌人の日記が『明月記』。
歌の道を継ぐべき頼みの嫡男が、後鳥羽院と連日スポーツ大会。

定家、号泣。
百人一首(秀歌)選歌に関するものと思しき記録も。あと猫飼ってたらしい。

・鴨長明『無名抄』(角川ソフィア文庫)
『方丈記』の鴨長明は、新古今時代の優れた歌人でもあった。
師匠は俊恵で、定家たち御子左家とは距離を置きつつ交際、という感じ。
『無名抄』は当時の歌人たちの世界を、客観的な視点から記録したエッセイ集。
そんな堅苦しくなく、おもしろく読めます。

・歌論『中世歌論集』(岩波文庫)、
『新編日本古典文学大系 歌論集』(小学館)

定家の歌論には『近代秀歌』『毎月抄』などがあります。

・『藤原定家歌集』『定家八代抄 上・下』(岩波文庫)

詞書にある定家の「秘密の恋人」って、誰なんだ。
某、式子内親王という説もありますが。
藤原行成『権記 全現代語訳(上・中・下)』(倉木一宏訳、講談社学術文庫)、上巻を読んでいますが、おもしろいです。

一条帝、藤原道長に仕えた官吏で能筆として知られる藤原行成(ゆきなり、こうぜい)の日記です。摂関政治の最盛期、『枕草子』『源氏物語』が書かれた時代。
安倍晴明もいます。一介の有能な役人という感じで、魑魅魍魎と戦
ったりはしませんが。

男性貴族の日記は、宮中儀礼や文化的な事績を記録し、子孫の財産とするために書いてます。
「我が家の日記の、○○年○○月の条には、この儀式はこうするべきだと書いてあった」などという、宮中での仕事の先例として使われる。
基本的には、紀貫之の『土佐日記』とか、その後の女房たちの日記などのような、文学的なものではありません。
たとえていえば、

○月○日、ナントカの儀式、誰それと誰それが、まず笏を取って礼拝した後、笏を置いて礼拝した云々... しかしこれは先例がなく、間違った作法か。

基本的にはこのような記述が、延々と続くのですが、でもおもしろい。

けっこう貴族たちの生活はハードで、けっこう体調不良を我慢して儀礼に携わったりしてる。その一方、宮中儀礼の次第を間違ったり(結構みんなやってるようだ)、仕事をズル休みしたりも。

死やお産などの「穢れ」に触れた貴族は、穢れが伝染しないよう、謹慎するわけですが、年末年始の忙しい時期に、政務に携わる貴族が一網打尽に「触穢」になっちゃった場合、どうするのか、とか。
当時の宮中の人間関係や喜怒哀楽のようなものも透けてみえてくる。

各年の最初に行成、道長など主要人物の年齢・官位がのっていたり、巻末に用語・人名解説、平安京地図、内裏図などが載っていて、あまり専門的な知識がなくても読みやすいように配慮されているのがうれしい。
なお、原文なしの現代語訳だけです。
同じ講談社学術文庫の『官職要解』や『有職故実』などが手元にあると役に立つかもしれない。

著者の後書きには、文庫では難しいだろうが次は藤原実資『小右記』現代語訳、などと書いてありました。
反骨の『賢人右府』実資の日記、ぜひ現代語で読んでみたい。

浜田到の歌は、ものすごく、かっこいいです。
かっこよいけど、しかし、謎めいた印象を受けます。

ふとわれの掌さへ取り落とすごとき夕暮れに高き架橋を渡りはじめぬ

ふとわれの/てさえとりおとすごとき/ゆうぐれに/たかきかきょうを/わたりはじめぬ (5・11・5・7・7)

たとえば「われの」さえ除けば定型になるのに、浜田到はそうはしませんでした。
意味の上でも「われの」は不要ではないかと見えるのだけれど。

リルケに影響を受けたという浜田到は、50年代のいわゆる前衛短歌運動の中で注目を集めた詩人・歌人で、強烈に象徴性を帯びた世界を表現していました。

代表作たる連作『架橋』の表題歌、一見、平明かつ印象的なイメージの歌、一読で強い印象を受け、暗記した…と思っていたのですが、口ずさもうとすると、なんだか上句が茫漠としていて、口ずさめないことに気づかされます。

この歌は基本的になめらかな57577定型なのに、どうも、初句二句のあたりだけ、異様にひきつったリズムをもっています。

ふとわれのてさえ/とりおとすごとき/ゆうぐれに/たかきかきょうを/わたりはじめぬ(8・8・5・7・7)
と読めば、現代短歌ではよく見られる初句七に近いですが、そうすると三句以降の完全な定型に対して、初句・二句に生じる句跨がりが、韻律上、いっそうギクシャクした異物感として現れてくる。

歌人がどういうリズムを想定しているのか、よくわからなくなるのですが、やっぱり「ふとわれの」を初句と読むんだと思う。
本のページでぱっと見たときは、「高き架橋を渡りはじめぬ」というイメージに惹かれていたんだけど、むしろ音読してみると、11音の二句「掌さへ取り落とすごとき」足の置き所をふと見失ったようなリズム、それがこの歌の中心をなしているんだと思いあたりました。


浜田到歌集 (現代歌人文庫 5)/浜田 到
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口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも

原不安といふはなになる 赤色の葡萄液充つるタンクのたぐひか


ここに描かれた情景は、もともとは、ワイン工場を見学した現実の風景と思われる。
そのとき
歌人はサンプルのワインを飲んだり「おみやげに何本か買っていこうかしら」と思ったりしたかもしれないけれど、それが歌になると、こんな世界になってしまうのであった。



葛原妙子(1907-1985)は、ありきたりな現実を素材として形而上学的な惨劇を描こうとする。

「ふと暗きかも」、ブドウの味が鮮烈で、目が眩んだ、ということかもしれないけれど、それより、歌の視点が語り手を外から眺める視点に瞬間移動している、超現実的な描写手法と読んだ方がおもしろい。実景と超現実的表現のピボットとして、眼球とブドウのアナロジー。それは死者として自分を眺める視点であって、これは葛原妙子の作品によく見られるモチーフ。

「原不安といふはなになる」と聞かれても、全く見当もつかないのだが、赤色の液を充填したタンクとはすなはち人間の姿であって、この歌もまた、語り手が自分をそこにおいてあるタンクとして見てしまう、「わが目がふと暗い」瞬間。



みどりのバナナぎつしりと詰め室をしめガスを放つはおそろしき仕事

暑き部屋に人の血をしづかに流すとも奇怪にあらね人は外科医なれば


妄想は人の小さき頭脳より ボンボンは硝子の壺に溜まれる


「おそろしき仕事」
奇怪にあらね人は外科医なれば」などという自問自答めいた歌いおさめ、字余りなど、こういうある種の(意図的な)無造作さも印象的。なんか斎藤茂吉的な、有無を言わせないような強さを感じる。幻覚的なイメージの直接的に迫ってくる感じは、ある意味塚本邦雄以上だと思う。

原牛のごとき海あり束の間 卵白となる太陽の下

三句に見られる「字足らず」は短歌では「字余り」以上に違和感を生む。ここでは「束の間」をリズムと意味の双方から強烈に際立たせる効果を生んでいる。



こんな歌も。

生みし仔の胎盤を食ひし飼猫がけさは白毛となりてそよげる

ゴキブリは天にもをりと思へる夜 神よつめたき手を貸したまへ


犬の耳雫垂りつつゆききせりさびしくもあるかしづく垂るること




こういう怖ろしい世界は、直感的なものではなく、意識的な手法であって、歌人は自身の手法を説明する文章をいくつか残している。

ポレミックな『再び女人の歌を閉塞するもの』(『短歌』1955年)は、釈迢空(折口信夫)の高名なエッセイを引き、中城ふみ子や葛原自身を含む当時の「女歌」批判に応えたもの。
当時の「女歌」批判者への反論として、批判は素朴なリアリズムに依拠しており、また現実の「女性」の置かれた状況と乖離しているのではないか、という指摘とともに、「反写実」によるリアリズムの可能性を訴えていた。


他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水


にも詳細な自注がある。
「的」なのだから、川や海、流水ではなく、何らかの静止したたまり水が、実景としてあるのだろう、とか、「
他界より眺めてあらば」、つまり、語り手が日暮れに、その静止した水を見た瞬間、しづかに眺めている死後の自分を想起した、というイメージは伝わってくる。
作者の自注によると、「しづかなる的」は、台所のフライパンだったそうだが、完成した一首はもうフライパンとは関係ないものになっている。

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伊勢物語、いわずとしれた平安初期の歌物語集。

在五中将在原業平とおぼしき、色好みの「昔男」「まめ男」(誠実な風流人)の物語が集められているが、はじめから業平の一代記として書かれたものではなく、(一人もしくは複数の)編著者が段階的に色好みの貴公子の物語を寄せ集めて作ったもののよう。詞書きが長文化した歌集のようでもある。

今も昔も変わらぬ恋心の哀切さ、に共感して読む人もいるだろうけれど、しかし、いつ果てるともなく、短い物語の断片が続いていくから、なにか漱石の『夢十夜』とか、内田百間の『冥土』『旅順入場式』のような幻想掌編集を読んでるような感じもしてくる。

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特に幻想的な、第六段『芥川』冒頭の、闇夜の川縁を逃げていく恋人たちのシーン。百間の『柳藻』とかも連想する。ところで、ここでなぜ女は、草の上の白露を『かれは何ぞ』と問わねばならなかったのだろうか。
深窓の姫君であって、草の露を見たことがないから、などという合理的(そうは思えないが)なことだけでなく、そこには、夢の中の会話のような不条理、または古代的な呪詞性が感じられないだろうか。

今昔物語巻二十七第七話『在原業平中将女、鬼に食らはるること』は同じ物語であるものの、「鬼が出るような知らないところに泊まってはいけません」という現実的な教訓譚で、『芥川』段の呪術性はない。業平の性格も、「あらゆる美人を一人残らず見てみたい」というような、単なる好色漢にすぎない。

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むしろ、『更級日記』の、衛士と姫君の武蔵への駆け落ち「竹芝」伝説の方が『芥川』に近い感じがする。

衛士に徴用された男が口ずさむ、

 などや苦しき目を見るらむ
 わが国に七つ三つ造り据ゑたる酒壺に
 さし渡したるひたえのひさごの
 南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき
 西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で
 かくてあるよ

という歌を聞きつけた姫君が、
『いかなるひさごの、いかになびくらむ』(どんな瓢箪がどのように揺れるのかしら)と、男に「私を連れていきそれを見せなさい」と命じる。
男の「かしこく恐ろし」という畏怖はまた、姫君を盗むということだけでない、何か神話的な起源を感じさせる。

男が追っ手から逃れるため「勢多の橋のもとに」この姫君を隠し「橋を一間だけ壊す」描写といい、今昔の業平の物語よりも、伊勢物語『芥川』段にずっと近いものがある。
伊勢物語の「白玉」はむしろ、優美な恋物語としての背後に、こういう、境界としての水の呪力への遠いつながりを持っているのかもしれない。

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白玉かなにぞと人の問ひし時露と答へて消なましものを

結末の、女は二条后高子であり、鬼というのは実は女の兄である国経大納言が女を取り返しに来たのであった、などという種明かしは、元の説話に、後から(業平の物語にするために?)付け加えた蛇足に他ならない。
この補筆のために、「鬼ある所とも知らで」「はや一口に食ひてけり」などという、それまでの説話的な叙述との間に不整合を生じ、一編は破綻している。
破綻しているのだけど、これもまた夢、あっけなく夢が覚めたのだと読めば、またそれもおもしろい。
このゲームは、演出的に極めて優れている。

ストーリーは、
29歳のジェイムス・サンダーランドは、一通の手紙を受け取る。差出人は死んだはずの妻マリアで、二人の思い出の場所で待つ、とあった。ジェイムスはかつてマリアと訪れた観光地、サイレントヒルのホテルを目指すが、サイレントヒル市街は怪物の跳梁する異界となっていた... という感じのアクション・ホラー・ゲーム。

12年前のゲームとはいえ、いちおうストーリー上の謎については、書かない。ただ妻の死に、なんらかの悲劇的な事情があったのではないか、ということは、ゲーム開始時点で想像がつくだろう。

このゲームにおいて画期的だと思うのは、主人公の設定。
「公式設定」では年齢は29歳、という、微妙な年齢のジェイムスだが、ストーリーから見る限り、少なくとも30代後半以降、中年である。
少年少女のみが活躍する日本のゲーム界において、アメリカ中西部の倦怠期の中年夫婦の物語をゲームにするというのは、なかなか、異常な発想なのではないだろうか。

海外ゲームにおいても、近年は"last of us"(ノーティドッグ,2013)とか、おっさんおばさんが活躍するゲームはいろいろあるけど、なかなかいない主人公だという気がする。そういえば『たけしの挑戦状』という先駆的な作品もあるが

「ホラー」一般の話として、リアリスティックな心理劇を、ホラーという枠でここまで見事に表現した作品は、洋の東西を問わず、そうないと思う。ゲームに限らない、ホラーというジャンルの傑作だと思う。

先行する『バイオハザード』シリーズが、「洋館」「ゾンビ」といった、記号的な「ホラー」のお祭り騒ぎとして、より一般的な認知を得ているのとは対照的かもしれない。
いやバイオハザードが悪いといいたい訳ではなくって、なぜか「6」も結構好きなんだけれど。
でも個人的には「ゾンビ」とか「スプラッター」は世間ではホラーだと思われているが、実は「ホラー」ではないと考える。なぜというに、あれは「嫌悪感」であって、「恐怖」じゃない。

シリーズは国内製作の「4」を最後に、海外製作で作られ続けているが、個人的には、奇想極まる「4」を最後の輝きとして、後は見るべきものがないように思う。

映像・音響表現がすばらしい。

モンスターやステージのデザインは、フランシス・ベーコンの歪んだ人物像や、映画『ジェイコブス・ラダー』(エイドリアン・ライン監督,1990)(オープニングがそのまんま)などをパクって、独自の世界観を作り上げている。
『ジェイコブズ・ラダー』とか、『エンゼル・ハート』(1987)、遡って『エクソシスト』(1973)とか、キリスト教的ホラーの意匠のみを使って、神を持たぬ日本人がこういう世界を作ってるというのが、おもしろい。

そして印象的なのが「落下」のモチーフ。
ジェイムス・サンダーランドという男は、なぜか床に開いた巨大な底なし穴を見ると、そこに飛び込んでいこうとする習性を持っており、ゲーム中、幾度となく「落下」のイメージが反復されるのだが、これはジェイムスが抑圧した記憶の中に下降していくことの隠喩になっている。
隠喩がもはや隠喩でなく、文字通りの「現実の穴への落下」として現れるということは、なかなかブキミな事態といえるが。
もちろん、それは何らかの罪悪感の表現、更にいえば、自死の隠喩でもある。
錆と血に塗れた異界の廃墟で、幾度も穴に落ちていく、このうらぶれた、もの悲しい感じ。自らの追放という感じすらある。しかし、この落下を繰り返すことでジェームスは真実に近づいていく。

スタート直後、プレイヤーは、いかなるゲーム上のアクションも要求されない(ホラー的な演出はあり)、サイレントヒルの市街地に続く、木立の中の霧深い下り坂を延々と歩く。ビデオゲームに文法があるとすれば、のっけから文法を逸脱した作りだというべきだろうが、こうした意図的かつ挑戦的な演出は、高く評価されるべきだと思う。この時点で既に「下降」ははじまっている。なお対照的に、最後のステージにおいてプレイヤーは階段を上っていくことになる。

BGMというものは殆どなく、ゲーム中に流れるのは、アンビエント・ノイズで、これは所持品の「ラジオ」が敵モンスターの接近をしらせる、ゲームシステム上の機能も兼ねている。
『クーロンズ・ゲート』とも近い、洗練されたゲーム音楽の使い方だと思う。
遠く遡れば『ゼビウス』(1983,ナムコ)ガムランにインスパイアされたという慶野由利子の音楽、さらにゼビウスなどのゲームミュージックにインスパイアされた細野晴臣の仕事なんかからつながっているものかもしれない。
春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空 定家

新古今和歌集に入ってる歌で、藤原定家のモダニズムを象徴する作品。この超絶技巧の短詩を知って、日本の王朝文学、すごい、と蒙を啓かれました。

文字通りに現代語に訳せば、単に「夢から覚めたら、峰から横雲が離れるのが見えた
でも、構造的には、かなり、複雑。

まず、源氏物語、狭衣物語、枕草子「春はあけぼの」、同じ御子左歌人の藤原家隆の歌などの和歌、『文選』の漢詩「高唐賦」における、仙女との恋のイメージなどなど、重層的な本歌取り、面影付け。
ちなみに、仙女との恋といえば唐代の小説『遊仙窟』(岩波文庫)とかもある。
未読ですが、定家作という説のある『松浦宮物語』にもそんな場面があるみたいですね。

『待つ恋』の歌だから、視点人物は、女性
「途絶え」。訪れてくれなくなった男を待つうちに、ふとうたた寝をし、目覚めた明け方。

「峰にわかるる雲」。「峰と雲」が別れるのか、「峰に、横雲が断ち切られている」のか、「峰に、二つの雲が別れる」のか...
今つらつら考えてみたら、どれかわからなくなりました

私は「峰と雲」だと思ってた。
横雲が分断されてる、だと理に落ちる気がするし。
雲が複数だと、にぎやかすぎるし、「横雲の空」じゃないと思うんだけれど。
つまり最後の「横雲の空」は、別れていく一つの雲がクローズアップされた状態だと思うんだ。たぶん。
「に」という助詞の用法を検討すれば答えが出るのかもしれないけれど、そこまではわかんない。

まあ寝起きでいきなり、そんな細かい雲の状態までわかるのかとかいう話ですが、
これは観念的なイメージで、実際に見た景色の描写とかではない。

「峰にわかるる雲」というのは、「恋人と別れる」意味ですが、また「雲」というイメージ、たとえば、夢の中でふと蘇る恋人が起き上がり、去っていく時の衣の感触... というようなことも想像できるんじゃないでしょうか。

とどめに「空の雲」じゃなくて、「雲の空」。ひねった表現(秀句)。
一首の最後にクローズアップされるのは、「雲」という実体ではなく、虚空、むなしい空の広がりなんですね。でもそこに春の恋の余情が、微かにただよってる、とかなんとか。

そういった、恋歌としての内容は、この三十一文字のなかに、一文字たりとも書かれていないわけです。そこが一番すごい
本歌とかは知らなくても、それはわかりますね。

「峰にわかるる横雲の空」という、とりたてて美しくもない、淡々とした視覚的なイメージと、恋の余情という関係のないイメージの連結、ダリとブニュエルの『アンダルシアの犬 Un Chien Andalou』(1928)の「月を横切る横雲」と「眼球とカミソリ」のコラージュのシーンを思い出します。

古典に詳しくない人にもおすすめの一冊。


『百人一首』は、一首独立、三十一文字の詩のアンソロジーとして読めば、王朝秀歌選どころか、低調な歌集ということになる。

『百人一首』は、たぶん、全体を一つの物語として読めば、おもしろいのかも。
すなわち、やまとうたの歴史を万葉から定家の時代まで辿る旅路、そこに隠された1230年代の定家の心境を読むこと。

後鳥羽院を始めとする、新古今美学をともに作り上げた、盟友・敵とのわかれ。
明らかな武士の世への移行、王朝文化の終焉
かつての新古今の先鋭的、綺羅を尽くした美的宇宙は、すでに、定家にとっても、後鳥羽院にとっても、むなしいものと映っていた。

『百人一首』所収歌は、およそ時代順、人間関係を強調して配列され、歌の良さよりも、ある種のライトモチーフ――望郷、遠離、「通ひ路」など――に着目して選歌されているように見える。

「偲ぶにも、なほあまりある昔なりけり」

逆にいえば、所収歌の多くは、一首の歌として見たとき、驚くようなものはない。

■■
この、塚本邦雄「王朝百首」は、百人一首を意識しつつ、三十一文字、一首独立の詩のアンソロジーとしての、「現代人に贈る古歌の花筺(はながたみ)」として編まれた。

作者名も注釈も全て虚妄であらう(略)その絶唱、秀吟は、おのづから作者の、唯一人の小宇宙の中に浮び、その背後には彼を生かしめた時間と空間が透いて見えるはずである。詩歌にそれ以上のいかなる要素を求めようといふのか。」

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もちろん、王朝和歌は、歌に付された題・詞書や、また本歌取りに多くを負っている。
だから、一首の和歌はテクストそのものだけによって読むべき、というのは乱暴だ。

だが、古歌の良し悪し、解釈に関しては、すでに王朝の時代にも、たくさんの論争・混乱があった。新古今に先行する『六百番歌合』の顕昭・寂連の「独鈷鎌首論争」などが有名だけど。だから、さらに時代をくだった21世紀の人間が、学問的知識がないと読めない難しいものとして和歌に出逢うことは、不幸かもしれない。

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古典の教養などなくとも、現代人に衝撃を与えてくれる歌は、たくさんある。塚本はそのことをこの『王朝百首』で教えてくれる。

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ランダムに本書所収歌を引いてみれば、びっくりするような歌が、たくさんある。

たとえば、馬内侍、

 飛ぶ蛍まことの恋にあらねども光ゆゆしき夕やみの空

飛ぶ蛍(ほんとうの恋じゃないけれど)夕闇の空を満たす光は。
現代のラブソングだとしても、おかしくないと思う。

また藤原顕綱、

 惑はずなくららの花の暗き夜にわれもたなびけ燃えむ煙は

上句「眩草(クララ)の花の暗き夜」ですよ。
クララ、苦参、眩草。アルカロイドを含む有毒植物。
下句「我もたなびけ…燃える煙として」ですよ。
ダークでデカダン。超カッコイイ。

あるいは、小大君の、

 おぼつかななにし来つらむ紅葉見に霧のかくせる山のふもとに

「不思議なの。何しに来たの」「紅葉見に。霧が隠した山のふもとに。」
なんだかシュールな問答形式のうた。謎めいたわらべ歌のよう。

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在原業平などが二首採られてる一方、百人一首歌人の中で、歌人としてはあまり優れてない清少納言を残したり、はたまた、定家たちの新古今美学の敵ともいうべき、「独鈷鎌首」顕昭の秀歌をわざわざ採ってるところなんかもおもしろかった。

本書では塚本の口語自由詩による「翻訳」も冴え渡っているし、また、本文庫の橋本治の解説も、塚本の意をやさしく語り直した素晴らしい文だと思う。



王朝百首 (講談社文芸文庫)/講談社
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ロバート・ジョンソンRobert Johnson(1911-1938)
悪魔☆伝説 in 十字路
なんかやたらにロバート・ジョンソンのブルース、北欧ブラックメタルばりに、悪魔的でヤバいというイメージがありますが、ほんとにロバート・ジョンソンは悪魔的なのか、という。

★★★
まず、トミー・ジョンソン Tommy Johnson(1896-1956)っていうミシシッピデルタのブルースマンが、ロバート・ジョンソンより先に悪魔と契約したことは有名。1928年録音の"Cool Drink of Water Blues"とか、ヨーデルっぽいボーカルとミニマルなリフの反復が不思議な感じ、じわじわ来ます。

30年代の人気ミュージシャンで、ロバート・ジョンソンにも影響を与えたというピーティ・ウィートストロー Peetie Wheatstraw(1902-1941)というブルースマンは『悪魔の義理の息子 Devil's son in law』とか『地獄の保安官』を売り文句にしてました。デーモン木暮閣下の先祖。

また、ロバート・ジョンソンと一緒に演奏したこともあるという、60年代ロックに大きな影響を与えまくったハウリン・ウルフHowlin' Wolf(1910-1976)も、同じ話を息子に語ってる。

つまり、『クロスロードで悪魔に魂を売り渡して天才ブルースマンになった』とかってのは、伝説っていうより、当時のブルースマンのお約束のネタだったということですね。

★★★
少年のころ家出してブルースマンとなったハウリン・ウルフは、ブルースを忌み嫌う母親と、死の間際になっても和解を許されませんでした。
当時の南部では、農村での定住生活や教会に背を向けた放浪ミュージシャンの音楽「ブルース」は、悪魔の音楽とされていたから。

そうすると、ブルースマンにとっての『悪魔』というのは、一つには「邪悪」の象徴で、リアルで重い意味合いもある。でも、また一面では、そういう社会通念、迷信としての邪悪というのを信じないぜ、ということでもある。共同体から出て放浪、「悪魔の音楽」を演奏してるってことは、そういうことですよね。

天国なんか信じねえ、畑仕事なんかしないし、酒も飲むしギャンブルもするぜ、と。「悪魔」は、ある意味「自由」の象徴でもある。

で、それをマトモに歌う、ということは当時の聴衆にとって、当然、衝撃的な効果があったでしょうね。

★★★
信心深かったのにブルースに取り憑かれてしまったサン・ハウス(1902-1988)は、"Preachin' the Blues"という曲で、ブルースの魔性そのものを歌詞のテーマとしました。「俺はブルースを説教する」という、教会と悪魔の音楽を合体させてしまった、引き裂かれた心の混乱を表現したような曲。
サン・ハウスに影響を受けたロバート・ジョンソンは同名曲を録音してる。
でもロバート・ジョンソンの歌には、サン・ハウスのような聖と邪悪に引き裂かれた感覚はないように思う。むしろサン・ハウスをサンプリングしてみた、なぜなら、かっこいいから、的な。クール

★★★
悪魔的なイメージの曲としては"Hellhound on My Trail"も有名です。
陰鬱なドローンの伴奏で『歩き続けるんだ、地獄の猟犬が俺の後を追っている』と呻く、不気味すぎる曲です。
でもこれ、よく聴くと途中から、一人で寂しい旅をしてるんだぜ、と、女性をナンパする歌詞になってます。

ヘルハウンド、ナンパの小道具

丘サーファーみたいな。全然ちがうか。
「俺は沈んでいく」とか強烈な歌詞で名高いCrossroad Blues クロスロード・ブルースも、要するに「誰もいねえ、彼女もいねえ」って話ですね。

この曲の元ネタは、スキップ・ジェイムスのベントニア・スタイルのブルースですが、スキップ・ジェイムスの荒涼とした世界を取り入れて、キャッチーにまとめた感じ。
地獄の猟犬を、サンプリングした感じじゃねえのかという。

★★★
『俺と悪魔のブルース Me and the Devil Blues』は、「やあサタン、行く時間かい」「俺と悪魔は並んで歩いた。俺の女をぶちのめしたいぜ」などという、極めてヤバい歌詞を持ち、伝説に拍車をかけてます。

でも"Hello Satan"って歌う瞬間の、高らかに歌詞を強調する声、ここで、歌詞のヤバさに聞き手が仰天することをわかってて、確信犯的に挑発してる感じがします。

ギャングスタラップのリリックで「お巡りを撃って、女を殴る」とか言うようなもんではないでしょうか。どれだけヤバいリリックを書けるか、という。
「悪魔」っていうヤバい言葉で聞き手や他のMC、じゃなくてブルースマン、をノックアウトする訳ですね。
聴いてて、悪魔に取り憑かれた狂気の男、という感じはしない。
もちろん、21世紀に聴いてもすさまじいインパクトですが。
70年殺しの挑発。

★★★
ロバート・ジョンソンはチャーリー・パットン、ウィリー・ブラウン、サン・ハウス、スキップ・ジェイムスなどのドロドロのデルタ・ブルース、はたまたリロイ・カーの都会的な抒情性、ロニー・ジョンソンのジャズ的なテクニックなどなどありとあらゆる音楽スタイルを、ライヴで聴いたりレコードで聴いたりして取り入れ、洗練された形にまとめ上げたブルースマン、という感じがします。

「編集」感覚が際だってると思います。演奏も歌詞も、一曲の中で一つの流れとして緻密に組み立てられてるのが感じられるし、完成度がすごい。「やさしい女のブルース」とか。

★★★
ちなみに名前の「ジョンソン」は、ロニー・ジョンソンの親戚だから、とか言い張ってたそうです。結構ミーハーだったのだろうか。


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