「永田理論」のための哲学的裏付け(笑) | baritontaroのブログ

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趣味の声楽などに関する勇み足風の
所感です。たまに本業の印章彫刻に
ついてもホンネを暴露します。

時に顰蹙を買うようなことを言います
が、何卒ご容赦のほどを。

この2,3年、哲学書などとはまるで縁遠くなってしまったが、永田先生の以下のブログを読んでみて、はて、「確かドゥルーズ及びガタリが『千の風』じゃなかった、『千のプラトー』で似たようなことを言っていなかったかな?・・・・いや、ある意味もっと大それたことに言及しているのではないか」と大変興味をそそられた。

 

このブログの中の永田先生のお言葉。

 

留めがあるから、加速もあり、そのバランスで動きにキレが出てくるのです。

「流す」事に重点を置きすぎると、リズム感が失せる事もお分かりでしょうか?

 

リズム感が無いとは、根底に「止まれない」と言う事があると思われます。

 

以上の事は、私が帰納法により到達した結論であり、どこぞの権威の論文など一切観ておりません。

この様な結論が、もし、既存の理論として在れば、失礼致します。

 

 

興味はそそられはしたものの、今さら(!)ドゥルーズ=ガタリの分厚い著書をひもとくのは、老いて呆けた頭には実にかったるい作業だ。だから、不正確あるいは誤解を承知で、今頭に残っているおぼろな知識だけをもとに語ってみたいと思う。(無精者の言い訳じゃあWW)。

 

『千のプラトー』には「リトルネロ」という概念が出てくる。よく知らないが音楽用語だと思う。英語でいえばリフレイン(反復あるいは繰り返し)じゃないかな?

 

この「リトルネロ」に関してドゥルーズ(以下ガタリは悪いけど省略)は、印象的なたとえ話を書いている。(この通りではないよ)

 

暗い森を小さな女の子が歩いている。彼女は不安にさいなまれ、歌を歌い出す。何でもいいのだが、単純な繰り返しのあるものの方がいいだろう。例えば『メリーさんの羊』でいい。♪メリーさんの羊、メリーさんの羊・・・・とリズムをとって反復しているうちに、彼女の心は落着き、自分を迎え入れてくれる温かい家庭のイメージが心を領するようになるだろう。

 

この「反復」するリズムというのは、不安を安心に変える効果がある。言い換えれば無秩序に秩序を与える働きがあるのである。大切なことは、歌を「流す」のではなく、明確なリズムをとることにある。

私にも経験があるが、高校時代に長距離走をしているとき、たいてい頭の中では「♪えんやっとっと、えんやとっと、松島の~」の歌(『斎太郎節』っていったっけ?)が鳴っていた。いつぶっ倒れるか知れないという不安感をこの歌のリズムが払拭してくれたものだ。

 

さて、女の子が無事に家にたどりつき、ご飯を食べ、学校の宿題をする段になっても、「♪メリーさんの羊」は頭の中で鳴っている。しかし、そのリズムは森の中でのものとは微妙に違っているだろう。

「ええっと、16+19は、6と9を足してえ・・・・」

「♪メリーさん・・の・・ひつじ・・ひ・・つじ・・」

 

「反復」に変化、つまり「差異」が現れてくるのである。この「差異」こそが人を新たな課題に立ち向かわせる原動力となるのである。

 

考えてみれば、「反復」といっても、寸分違わぬ全き反復などあろうはずがない。「反復」しているつもりでも、どこかしらに微細なズレが生じてくるものだ。そのズレ、即ち「差異」が生ずる瞬間の様相ついては、ドゥルーズもデリダも直接には論じていない(と思う)。それは、「差異」を「差異」と認識した瞬間に、すでに「差異」は現れてしまったもの、即ち「過去の出来事」と化しているという認識論上のアポリア(難問)に属する事柄だからだ。従って、極めて重大な瞬間であるにもかかわらず、それは「狂気のうちに」と表現されたりするのである。

 

私は、永田先生が、その「差異」が生ずる瞬間の前提条件に関して該ブログで一石を投じたのではないかと思った。「反復」を変化せしめるに当たって、リズムの中の時間差に着目された点がそれである。「止まる」、ポーズすることの意味の重要さについてである。

 

「反復」は鳥や獣の鳴き声がそうであるように、テリトリーを形成する。このことは私たち人間にとっても意味が大きい。手っ取り早く言えば、自分が何者であり、どのような領分を所有するものであるかを精神的に確立するためには「反復」は是非必要なものである。曰く、「オレはエリートだ・・・・」、「オレは一人の修羅なのだ・・・・」、「オレは河原の枯れすすきだあ・・・・」と、か(笑)。

 

しかし、そこに安住し、甘んじていたのでは、いずれはテリトリーは荒れ地と化し、精神は腐り果てる。「流れる」ことや「逃走すること」は必要だろうが、このことはドゥルーズ哲学が往々にして誤解されるように、無責任にその場を放棄して逃げ出すことを意味しない。要は「流れる」・「逃走する」にしてもしっかりしたリズムとその変化を伴わなければなければならないということだ。永田先生は、そのリズムの本質について照明を当てられたのである。

 

 

 

ありゃありゃ、なんか見当違いのことを論じちゃったかなあ?

まあいいや、思いつきの所感だから勘弁してください。

「永田理論」の哲学的裏づけ?

・・・・になってねえなあ(笑)。