【子供たちが戦った知られていない沖縄戦】集合意識覚醒仲間と訪問 | 古事記・縄文・集合意識覚醒☆引き寄せのヒミツは無意識の活用から

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【子供たちが戦った知られていない沖縄戦】

《沖縄戦で亡くなった日本兵および一般住民は約20万人と言われている。》

 

2022/10/26~29  沖縄訪問しました。

 

それは「流れる雲よ」が沖縄初公演だったので、それに合わせて、知らなかった沖縄戦を学ぶ旅でした。

 

大東亜戦争(第二次世界大戦)が忘却の彼方になりそうな昨今、なぜ、日本は戦争をしたのか、、、

それすら学校で教えらえていないし、今の若者は知るすべもなくなっています。

もう戦争を知らない子どもたちばかりになってきました。

 

アジア各国の植民地からの脱却に協力してきた日本、アジアの国々の独立をはばみ、日本を植民地化させるために起きた大東亜戦争。

 

その中でも、沖縄戦は北海道と同じ軌跡をたどっていたようです。

 

沖縄は昭和47年までアメリカの統治下にあったため、硬貨は円ではなく、ドルやセント。

日本語・日本の教育もされなかった。

 

 

【鉄血勤皇隊】

沖縄師範学校、県立第一中学校などに通う13歳~17歳で結成された学徒隊。

1780人で結成され、半数が戦死。

【ひめゆり学徒隊】

14歳~17歳 沖縄師範学校女子部(白百合)と沖縄県立第一女学校(乙姫)の教師・生徒で編成された看護隊。

240名で編成され、戦没者は226名とされている。

 

 

訪問地 ニライカナイの地・沖縄

 

 

①《波上宮》沖縄県の一之宮。

上には八大龍王、下には閻魔大王に守られている。

明治天皇の銅像があり、その台座に「国家」という文字が刻まれている。

これは昭和45年に建立されたもので、米軍の占領下におかれ「国家」を失った沖縄県民が、もう一度自分たちの国を取り戻したいとの願いをこめて刻み込んだもの。

こうした県民の願いが復帰運動の原動力になった。

 

 

②沖縄県護国神社

軍関係者だけでなく赤ちゃんから老人までお祀りする護国神社。

御祭神は郷土関係靖国のご英霊をはじめ、郷土出身軍人軍属並びに、本土出身のご英霊、先住民、避難学童、文官関係戦没者のみたま、合わせて

177912柱をお祀りしている。

 

県民の浄財で再建された、5セント募金。

沖縄戦で護国神社の社殿その他は焼失してしまった。

戦後、オリオンビールの社長の具志堅宗精氏の呼びかけで、5セント募金活動が始まり、学校でも1セント募金運動が行われた。昭和34年竣工。

 

*昭和47年までアメリカの統治下にあったため、硬貨は円ではなく、ドルやセント。

1セントは今のお金の価値で約50円。

 

 

③旧海軍司令部豪跡

★劣悪な条件下で奮戦。

ここの豪は、当時の海軍司令部の跡が残っていて、豪を見学できる。

資料館では数々の遺品も展示。

 

沖縄戦では武器もなくなり、太い木の枝に短剣をくくりつけた自作の槍を武器をするしかなかった。

狭い豪の中に4000人に及ぶ軍人が入り、立ったまま寝る、移動すらできない劣悪な状況。

動けないなか、亡くなる人が増え遺体とともに息をする日々。

最終攻撃を受けるころは約270名ほどの動ける戦士、残りは遺体の山。

そして最終100名ほどしか生き残れなかった。

 

★海軍なのに陸上で戦った大田實少将

海軍を指揮した千葉県出身の大田實少将は、臨時の陸戦隊を編成し約9000名の部下を率いて陸上で米軍と戦った。

小禄地区を護っていたが撤退命令が出た時には、もう撤退が不可能で最後の一兵まで小禄地区を死守した。当時は持ち運べない重火器(大砲など)はすでに米軍に使用されないように、使えない状態に処分されていて、太い木の先に短刀をくくりつけた自作の武器で戦うしかなかった。

6月13日、最後に大田少将が自決し、小禄での日本軍の組織的展開は終わった。

大田少将は沖縄県民が苦しい生活を強いられながらも、我慢して耐えていたことや、青年・老人が防衛軍に進んで志願してくれたこと、若い女性が率先して傷病兵や炊事などをして軍に協力してくれたこと、これらの協力は絶対に知ってもらわねばならないと、6月6日に「沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別なご配慮をくださいますように。」と海軍次官に電報で訴えてから自決した。

 

指令室・作戦室に近い部屋には幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが、当時のままくっきりと残っている。

 

 

 

④白梅の塔

沖縄県立第二女学校の生徒からなる学徒隊の最後の場所。

八重瀬岳の第24師団第一野戦病院の解散後、16人の学徒がたどり着いた。上の豪は少量弾薬庫、下の豪は学徒は負傷兵の手当を行っていた。6月21日22日と米軍の激しい攻撃を受けた。白梅の塔には学校関係者149名が合祀されている。

 

 

⑤南部戦跡慰霊巡拝・魂魄の塔

敗戦後、沖縄はアメリカ統治になってしまい、あちこちに散乱している遺体までも勝手に触れることはできなかった。

こんな状況の中、真和志村村長だった金城和信氏は、戦没者の遺体の収容を訴え続け、遺体の収容だけでなく慰霊碑の建立に取り組んだ。

金城氏は戦前は小学校の校長をしていた。沖縄戦ではたくさんの教え子が戦死、自身の2人の娘もひめゆり学徒隊で亡くしている。

戦後、戦没者の供養をしたいと米軍と交渉しつづけ、村人たちの協力を得て「魂魄の塔」を建立。

遺体は日本兵だけでなく、米兵のものも差別なく集めた。

塔の名前の由来、魂魄(魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気)共に戦った英霊の心を永久にとどめておきたい、との願いから。

また27年間、アメリカ統治で母国語が英語になってしまった中、日本語を教え続けた。

 

 

⑥平和記念公園(沖縄戦終結の地)

摩文仁の丘「国立沖縄戦没者墓苑」

海に向かって右側の霊域ゾーンにある「国立沖縄戦没者墓苑」は、沖縄戦で亡くなった住民や軍人などの遺骨を納めた国立墓苑。18万余柱が納骨されている。

★摩文仁での戦闘

昭和20年5月22日、南部後退の命令が下され、数日間のあいだに各部隊は首里戦線を放棄して南に向かった。

6月1日未明、軍司令部は摩文仁の丘の洞窟に設けられた戦闘司令部に到着。

後退の途中、米軍の砲撃、米軍機による攻撃で犠牲になった遺体は野ざらしになり、その惨状は地獄絵そのものだったという。

米軍上陸の時に約10万の兵力も第32軍の時には3万に減っていた。

6月21日、摩文仁の丘に米軍が迫り、22日には喜屋武岬方面で奮戦していた第62師団の将軍たちが自決。23日海側の開口部付近の岩場で牛島軍司令官と長参謀は自決した。

 

教育者であった司令官、牛島満中将は、住民を巻き込まないように、着任後に県知事と協議して住民疎開を考えたが「対馬丸」が撃沈され計画は頓挫した。

 

★摩文仁での唯一の井戸

摩文仁にある井戸で、鉄血勤皇隊(13歳~17歳)などが水を汲んでいた。しかし艦砲射撃が激しく、水くみの決死隊が組まれた。10人行って2~3人しか戻ってこれなかった。

 

昭和50年、皇太子時代の天皇皇后両陛下が足を運ばれ、ご感慨の御歌をおよみになった。

「戦ひの終わりてここい三十年 くり返し思はむこの岡のこと

 戦ひに幾多の命を奪ひたる井戸への道に木々生い茂る

 戦火に焼き尽くされし摩文仁が岡みそとせ経て今登り行く」

 

 

10月26日、まず私たちは、沖縄戦の概要を学びました。

 

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沖縄県では、大東亜戦争末期に住民が参加して地上戦が行われた。

この戦闘で亡くなった日本兵および一般住民は約20万人と言われている。

 

はたしてどのような戦いだったのだろうか?

沖縄戦の概要を記したい。

 

 

《概要》

開戦以来、進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋の数々の島々にあった基地も奪われることととなった。

このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とし、昭和19年3月に南西諸島に沖縄防衛のため、第32軍を創設した。

 

一方米軍は本土攻撃の拠点となった硫黄島・沖縄を正式に決め(アイスバーグ作戦)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行った。

 

昭和20年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕し、これにより米軍は、太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて、1500隻近い戦艦と述べ54万人の兵員をもって沖縄本土に上陸を開始した。

ここから4か月にわたる沖縄戦が始まった。

 

この沖縄での戦闘は、6月23日未明に第32軍の牛島司令官と長参謀長が自決したことにより組織的戦闘は終結した。

 

 

 

 

《沖縄戦の3つの特徴》

アメリカは当初、3週間もあれば沖縄陥落すると考えていたが、実際は3か月もかかった。

なぜか

そこに大きな3つの特徴がある。

 

①     軍官民一体の戦い

軍人だけでなく、官民や島民も一体になって戦った。

陸軍司令官の牛島満中将、海軍トップの大田実少将、沖縄に赴任した島田叡知事。

島民に疎開を促し、残った島民は軍といっしょに豪構築の作業、共に戦った。

 

②     全国民が沖縄を守るために戦った。

沖縄戦は沖縄県民だけが戦ったのではなく、北海道はじめ、日本全国からの人々が共に戦った。
沖縄方面への飛行機での特攻は、海軍1026機(1997人)、陸軍886機(1021人)。

沖縄戦で戦死した沖縄県外の人は、6万6千人。

 

③     14歳~17歳の学徒達の奮闘。

沖縄戦では、各地と違うところは幼い学徒達の奮闘である。

13歳~17歳の男子中学生「鉄血勤皇隊」は通信の役割だけでなく、特殊作戦(特攻)も行った。14歳~17歳の女学生「ひめゆり部隊」「白梅部隊」は従軍看護として戦った。