1961年生まれの直木賞作家井上荒野さんが、毎日新聞「日曜くらぶ」に連載、5月に単行本化された作品を読みました。
私が掴んだあらすじは以下のとおりです。
主人公は定年後を穏やかに暮らす72歳の大楠昌平と妻ゆり子69歳。
世田谷区に住む長男の睦郎、妻亜希、15歳の孫娘泉、そして41歳独身の夏希は都内でジャズを歌っている。
ゆり子の昨年の誕生日のプレゼントと称して、昌平が2人でクロスバイクを購入、天気が良ければ、10キロ程度漕いで昼食を取りに出かけていたが、ある日昌平が乾電池を買いにコンビニに出かけて、交通事故に遭い、右足首の骨を1本折る。
まだ松葉杖も使いこなせぬまま退院する昌平と、病院前でタクシーを止めることができないゆり子の前に、以前パンクを修理してもらった自転車店で会った石川一樹が現れ、タクシーを呼び、車まで送る。
数日後一樹が家のまえを通り、不定期アルバイト中と聞いたゆり子は、即座に夫婦のアルバイトを提案してしまう。
木曜日の午前9時から12時の3時間、その日の時間に病院のリハビリの予約を入れるようにして、送迎の合間に家のことを頼むので、1回7千円支払うのだ。
高校卒業後勤務したガラス工場を辞めた後、出会った店とは雇い主と折り合いが悪く辞めさせられ、不定期にポスティングの仕事をしているだけの26歳の一樹には、むしゃくしゃすると殴りたくなる、好きになった女性にのめり込んでしまうなど、裏の顔があり、チューリップを買った花屋の女性森晴子と大楠家の仕事が順調な時期に出会い、肉体関係にまでなる。
昌也の歩行のための手すり設置を頼んだゆり子の従兄尚也は膵臓がんで、彼が家を訪ねて来た日にゆり子はブレスレットを家で見失い、尚也が亡くなると、パールのネックレスをしまう際にパールの指輪がなくなっていることに気づく。
森晴子が妊娠、一樹に内緒で堕ろしたことで2人の仲は壊れ、一樹はゆり子に中絶費用として5万円を借り、ガラス工場で一緒に勤めていた高校同級生辰也がパチンコ屋で再会、転がり込んで大楠家から金を巻き上げようと画策し始め、とうとう一樹と辰也は、妊娠させた兄から恐喝を受け50万円が必要とゆり子に脅しだす。
脅しの電話がかかってきたことで、昌平とゆり子は一樹に盗みや騙されていたことに気づき、家にやってきた一樹を罵声して追い出す。
著者が私と年齢的にも近く、物語の主人公たちが定年後世代ということもあって身につまされるように一気に読みました。
見知らぬ他人に馴れ馴れしく話しかけてしまった自分。女の子たちの当惑した顔。クスクス笑い・・・。(中略)気に病んでいるわけでもなかった。ただ気づいてしまったのだ。自分がもはや老人であることに。老人になる瞬間というものがあれば、それがさっきだった気がした。p11
「他人を家に入れる」ことはともかく、他人に家事の一部を任せることには、昌平よりもゆり子のほうに抵抗があったのだが、それも一度経験してみればあっさり慣れてしまった。(中略)今の自分にとって存外に体力気力を使うことだったのだと、p35
すぐにだまされる、ばかな夫婦だって、脅かせばすぐに言うことを聞くと思ったんでしょ。これで気がついたのよ。だまされてることじゃないわ。だまされちゃいけない、ということによ。私たちはね、あんなふうに怒鳴られたって言いなりにならないわ。p233
惚れ直したよ。ゆり子の背中に声に出さず呟く。「あなたなんか大っきらい」という最後の一言もよかったし、湯呑みを投げつけたことにも惚れ惚れした。(中略)ゆり子が湯呑みを投げたときに、俺も何か投げたんだな。一樹に向かってだったか、あるいは世界というものに向かってだったのかはわからない。p238
定年後比較的金銭に余裕のある主人公夫婦は、いい思い出を持ち幸せな生活を送っています。
英会話教室で昌也はゆり子を見初めて以来夫婦関係は良好で、亡くしたブレスレットは50歳の誕生日に昌平から贈られたダイヤモンドをあしらったものです。
ゆり子が昌平と出会った頃を回想し、そのころの自分を眺めて書かれたこの表現がそれをよく表し、とても素敵で心に残っています。
自分であるようなまるっきり違う娘であるような、繋がっているようないないような、何か小さなケーキの箱に閉じ込められて、丁寧にリボンをかけてどこかにしまってあるような感じがするp54
その反面、隣に越してきて勝手に自分たちの庭にある木の枝や花の枝を切ってしまう若い夫婦に何も言えずにいるところは、老いを引け目に感じているからでしょう。
困っているときにさっと手を差し伸べられた、言えない苦情をさらっと代わりに言ってくれたなどが、主人公夫婦に誤算を招きました。
まだまだ若いと思っている、老いゆく私たちの暮らしにふっとした油断で忍び込む誤算に気づき、賢明な判断を持ち続けたいものだとつくづく感じました。
また、我が子と同じような世代の若者が世の中に対し、心の中でふつふつと不満を煮えたぎらせ、そのはけ口を年金生活者である高齢者に向けざるおえない今を憂いてしまいます。
その話は今日はやめておきましょう