『生命の実相』第十巻 霊界篇下 第1章 9 | 山人のブログ

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食事、瞑想、生きる喜び。

さらに別の日の霊界通信――

「愛するわが児よ、前の手紙においてわたしは、自分自身の葬式に参列したという話を書いた。お前は深い感銘に打たれていた。それはわたしが今までお前に話してきたことや、お前自身が体験してきたことの当然の帰結であったのだ。それははなはだ深い印象をお前の心に与えはしたが、わたしはその印象をお前の心の奥底深く埋めておいたのだ。が、その印象は今種子として芽生え、生長しつつある。それと同じく、わたしはお前の思想の中にわたし自身の種子を蒔いた。それは発芽し、生長しつつある。お前はやがてそれを悟る日が来るであろう。同じように全世界もそれを悟る日が来るであろう。われわれ霊人が、その子供たちに生命と知恵の秘密を与えるのはそういうやり方によるのである。

「お前の死んだ父すなわちわたし自身の埋葬の儀式中に、お前が何を考えたか、わたしはそれをよく知っていた。その時のことをここに引き続き書くことにする。わたしはお前の母の思想の中に坐して、彼女の魂に微笑みかけ、お前の小さき妹の頬を愛撫していた。あのわたしの葬式(とむらい)(そうしき)の五月の日ほど柔らかに太陽の光が射していたのをわたしはこれまでに見たことがない。お前の頬には涙が流れ、お前の咽喉(のど)はすすりなきに咽んでいた。お前は私の死体を墓地まで運ばせて、そこで(ひつぎ)を地におろした。小鳥は水松(いちい)樹叢(こむら)の中で(さえず)っていた。草花は墓地のグランドから芳しい匂いを放っていた。白雲がしずかに青空の中を帆かけ船のように滑っていた。黒い街道からわたしの(ひつぎ)は運ばれて来たのだ。会堂には悲し気なオルガンの調律(しらべ)(つぶや)いていた。オルガンの(つぶや)きにしたがって、お前は頭を屈めながら、椅子にもたれていた。お前の手には黒い縁取(ふちど)りをした賛美歌が持たれていた。やがてドアがひらかれて、お前は明るい、まぶしい日光のただよう真昼間の中へ歩み出た。

「しかし、その時太陽の光を見たのは、わが児よ、死せるわたしばかりであったのだ。ほかの人は悲しみに泣き濡れて、太陽の中へ出ても太陽を知らないのに、そんなに悲しまれているわたしだけが太陽に対して微笑みかけていたのだ。お前のかわいい咽喉を涙で詰まらせつつわたしはお前とともにいたが、わたしは本当は幸福であったのだ。わたしは神の微笑みを感じていた。そしてわたしの内には無限無数の楽しい調べが聞こえて来ていた。無数の美しい花がわたしを取り巻き、幾百万となき愛らしい小鳥の囀りがわたしを取り囲み、無数の愛する人々の眼がわたしを見まもっていた。しかし、お前は泣きながらわたしを携えてわたしを最後の安息所へ運んでいった。

「お前はわたしのお前に話そうとしているこの輝かしい知らせを理解しうるであろうか。わたしだけが生命を見、わたしだけが太陽を見、わたしだけが歓喜を味わい、わたしだけがお前を愛し、愛し、愛したのだった。わたしは泣くことはできなかった。お前は憐れむことはできなかった。なぜなら、わたし(〇〇〇)()霊であり(〇〇〇〇)私はそのままで聖きものであり(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)お前も霊であり(〇〇〇〇〇〇〇)そのままで聖きものであり(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)、人間はすべて神の祝福の微笑みを見るに相違ないことを知っていたからだ。悲しみや、憂いはわが世界では知られないのだ。なぜならこの世界では、人間が自分の想像で悲しいと信ずる事物のほかには何ものも悲しむべき事物は存在しないからである。お前もこの世界へ来たときに知ることができるであろうが、哀哭(あいこく)すべき事物は、ただ人間の創造のうちにのみ存在するものなのである。人間の創造のうちに哀哭すべき事物が造られるのは、彼が神を知らないからである。神が彼の霊性に与えたところの生命を自覚しないかぎりは、人は人間的な悩みを感じずにはいられないのである。お前はまだこれを理解することができない。しかしやがてなんじもいっそう悟るときが来るであろう。

「わが愛するはかなき児よ。わたしは、お前の父を埋葬した日のお前の心の悲しみを知っている。わたしはお前と一緒に生きていたときにもお前の(なさけ)の波動を感じていた。ただそれに穿(うが)ち入らなかっただけである。わたしはお前とともに生活し、お前の思想を分ちもちながらそれを自覚していなかったのである。

それはちょうど愛人同士がなんの理解も省察もなしに戯れているのと同じことである。わたしは死んでいっさいを理解したのだ。今わたしは現世にいたときよりもお前をいっそう愛している。なぜならこの世界の空気は、そして永遠の実在には愛の調音(しらべ)(ちょうおん)が貫き通っているからだ。

「わたしはあの時、お前の空ろな小さな(こころ)のうちに、何が起こっていたかをここに話してみようか。お前は会堂の中に坐しながら、しばしの間、お前が父の(ひつぎ)にかけた紐をもって会堂の外へ父の(ひつぎ)を持ち出すときには、どんなに惨めななんじ自身に見えるであろうかと考えていたのだ――これがお前の空ろな心の中に忍び込んだ考えではなかったであろうか。後になってお前は悲しみの真っ最中に不思議にもそんなに落ち着いて行動ができたことをみずからいぶかっていた。お前は全世界の中で誰よりもわたしを愛していた。そしてお前は自分の最愛の父のために悲しい遣る瀬ない涙に咽んでいた。わたしがこのお前の小さい心の秘密、お前がなんとなく理由もなしに恥ずかしくてお前の心の奥底に深く秘めて、あえて自分自身にさえも認めしめようとしなかったこのお前の心の秘密を、わたしが知っていることをば不思議に思うな。

「今こそわたしはお前に告げる。お前のその感じは、わたし自身の念であったからだ。なぜならわたしは会堂の窓から射し込んだお前の涙に反射している太陽の光のなかにいたのだもの。なぜならわたしの魂はわたしの柩の上を飾っているバラの花の匂いの中にいたのだもの。そしてわたしはお前の母親の魂に接吻し、お前の小さき妹の魂を温め、そしてわが愛するお前の思想の中に坐してなんじの心に念を送っていたのである。その時でさえもお前の思想の中に何者か知らぬ者の声が囁きかける不思議な状態を、わたしをお前に示すことができたのである。わたしがこの秘密をお前に物語るとき、お前の今までの疑いは消える。お前は、それだけは理解しその論理的過程の当然さを認めるであろう。お前はなぜそれを認めうるか自分自身にそれを説明することはできない。しかしいつかはお前も、人の魂の中に本当に隠されて顕われない秘密は一つとしてないことを理解し、人にも自分にもそれを教えるであろう。

「わが愛する児よ。ではお前は、そしてお前とともに多くの人たちは、人間というものが死んでからどうなるか?何を感じ何を見るであろうか?それを知りたいと思うであろう。

「この問題については、無邪気な霊魂が、幼稚な人間たちにいろいろの霊界通信である説明を与えているであろう。ある者はいう――それは白い日光の交錯する世界であると。ある者はいう――そこで人間は静かに眠っており憧憬(あこがれ)(しょうけい)に満たされていると。またある者はいう――そこにはいろいろの花が咲き満ちて山々が美しく見えると。これらの説明は正しくあるとともに、またそれだけまちがってもいるのである。死後の世界について、人が聴かされるところのものは、常に人間自身の発明であるのである。なぜなら現実界の人間は霊界の生活についての真相を知らないし、また知ってもそれを描き出す観念と言葉とが現実界にないからである。たとい人間がこれこそ霊界通信により知らされた霊界の状態だと主張しようとも、それは人間自身の知ろうとする努力の表現であり、自分自身の想像を描き出しているにすぎないのである。なぜなら、われわれ霊魂といえども、現実界の人間にとって、とうてい理解できないことは説明のしようがないからである。われわれがもし霊界のことを話そうとも、それは霊界そのものではなく、人間の観念で仮装させてあるのである。

「愛するわが児よ、われわれは詩人である。そしておそらくわれわれは、霊界の生活について一種の詩をつくりあげることはできるが、真相を語ることはできないのである。人間はただ二つの眼と、心情と、理解力と五官としか持っていないからである。なんじの眼を数千に増加せよ。そしてなんじの感官を数百万種類に増加せよ。そうすれば、なんじは理解しがたき神秘の世界の片鱗をうかがうことができるであろう。

「ではお前がそれを理解しうるように、われわれをして霊界の詩を作らしめよ。いな、われわれをして真相を詩化して語らしめよ。人間の霊魂が肉体を離れて多くの優しい魂たちに取りまかれ、十万億里の彼岸につれられて行くとわれわれが人間に教えるとき、それは真相であると同時に死であるのである。霊魂が形容のできない微妙なメロディーの中に、美しい色彩の中に、輝く日光の中に、そしてまた(ふく)(いく)たる匂いの中に生活しているというとき、それは小説であると同時に真相であるのである。遙かの遠くへ、遙かのかなたへ、われわれ死後の人間の魂が伴い行かれて、優しき愛のみ手に抱かれ、み空を天翔けるあやすように揺られながら、微妙な讃美の歌をききつつ日没のうちに神の微笑みを見るというのも真相を詩化した歌であるにすぎないのである。

「わたしがお前に、霊魂という者は微妙な天楽の響きの中を、馥郁たる薫りの中をつれられて神の国の森へつれられるというとき、それは真相を象徴化した詩であり、詩化した真相であるのである。神の国の森の樹の葉は、小児の微笑みをたたえてわれわれに囁きかけ、神の国の牧場に咲いた草花は、鹿のように無心に遊び、その雰囲気に漂う光は、母のような優しさをもっており、野を蔽う青々とした苔は、見るからに人間を力づけるとき、それは真理の象徴詩であり、象徴化した真理詩である。

「真理の(しん)(せん)(ものがたり)の、いかにすばらしく美しいことであることよ。そして真理は、語れば神仙譚になるほかはないのである。われわれは全世界の悲しめる人たちに、この真理の神仙譚を語るために遣わされた使者であるのである。この世の悲しさに泣き濡れた者どもよ、眼をあげて真理を見よ。わが囁く真理を悟れ――神はなんじたちの世界に光をかざして微笑んでいたまうのだ。父より。」

マグナッセンの父からの霊界通信として発表されたものはこれで終わっている。前章のヴェッテリニの霊界通信が、指方立相(しほうりっそう)の霊界の諸相を客観的に「かくある」として取り扱っているのに反して、これはまた「かくある」のは唯心所現の結果「かくある」のであって、不幸も悪も醜も恐怖すべきものは何一つ実在ではないと説き、「実相としては人間は永遠である。されば人間は決していまだかつて苦しんだことはない」と実相の立場から説いている。前者は差別心から見た霊界の消息であり、後者は平等心から見た霊界の消息であり、二つ合して完全となるのであります。