日常の話です。

 

嫌われる勇気、まだ読み終わっておりませんw

なのですが、久しぶりにアドラー心理学の本を読んでそうだったそうだった、と面白く読んでいます。

半端な知識なのですが、個人的ブログなので、知ったかぶってアドラー心理学のことを書いてみたいと思いますw

 

心理学というより哲学のようなのがアドラー心理学。幸福に生きるためにはどうしたらよいか?ということを論理的に考えたという感じです。

仏教という哲学があります。お釈迦様の教えの根元は○だから×、だから○をなくせば×が無くなるというような論理的な考え方で、体系として似ていると思います。お経というのはお釈迦様の様々な教えを書いた文章のはずなのですが、普通に聞いても意味が分かりません。日本のお経が漢字なのは中国を経由しているからであり、それこそ翻訳されているもの、どこまで原文であるのかさえ微妙です。(元はサンスクリット語)

話がそれました。仏教の話はまたいつか。

 

アドラー心理学の論理的なところが好きななのですが、私の中でアドラー心理学と言えばこれだよね!というのがあります。

 

「課題の分離」という考え方。

 

これはスポーツにおいてもとても有効的な考え方なので、知識としては誰もが知っていても良いと思います。

「課題」というのは、人間の行動としての目的、目標、するべきこと、という感じです。

「分離」は文字通り分けること。

「その行動は誰がするべきことか」ということをしっかり分けて考える、ということ。

誰がの誰とは自分か他の人です。

 

つまり、自分がやるべきことなのか、他の人がやるべきことなのかよーく考えよーということ。

そして他の人がやるべきことであれば、自分にはどうしようもないことなのだから考えなくていいよ~ということ。

 

例えばバレーボールをしていて誰かがイージーミスをしたとき、イラっとする人がいると思います。

ミスをした人のところに行き、こうこうこうやるんだよ!と言う人がいますが、伝えてすぐに出来るわけがありません。出来るならやってます。それでもそれを伝えるのはストレス発散のため。ですが結果は雰囲気が悪くなり、ミスをした人も硬くなり、余計に悪い結果になる。

 

ミスをどうにかするのはミスをした人の課題、本人が良く考えてミスを減らすようにするべきことであり、他の人には関係のないこと、他の人ではどうしようもないことなのです。

だからそれについて考えるなら、自分にあのボールが来たときはこうやろう、と自分の中での動きの確認をすればよい。逆に考えるきっかけをくれた仲間に感謝しながら励ましていけばいいのです。

ただ、ミスをした人が忘れていたり、気が付かなかったことを教えてあげるのはかまいません。冷静な判断の上であれば必要なときもあります。ですがその結果としてミスを改善できるかどうかはその人の課題となるわけです。

教えたのに出来ないなんて!ではなく、教えるまでは自分の課題ですが、それが出来るかどうかは相手の課題。結果にイライラする必要はないのです。

 

審判が誤審したとき、何だよあっちのチームの回し者か?しっかりやれよ!とイライラしても審判を変えられるわけではない。自分がやれることは審判がそういう判断をする可能性があるなら次はどうするか、と考える。自分が出来ることに集中する。

 

指導もそうです。ミスをした子供にイラっと来ることがあります。なんであんなのとれないんだよ。練習じゃとれていたじゃんか!と。

ですがそれをどうにかするのは後での指導の話。その場ではその子が自分で何とかしなければいけません。指導者は冷静にデータを取ってその子の弱いところを見つけられたことに感謝するべきなわけです。

もちろんあんまりに同じミスをするならば、状況を判断して交代したりするのは指導者の課題。指導者の出来ることです。

指示をして変わる可能性があるならば指示をするのも指導者の課題です。

ですが、それを実行できるかどうかは、子供の課題。出来たか出来なかったでイラついてはいけません。というかイラつくこと自体が間違っているという話です。

 

いかがでしたでしょうか。例が分かりにくかったでしょうか。

その問題は自分がどうにか出来ることなのか、自分にはどうにもならないことなのか、を分ける。

これが出来るようになると、人へのイライラが減ることがありますという話でした。

 

長くなったので続きのアドラーはまた今度。その前に本を読まねばw