父を送った後、ある肺がんの利用者さんを見送りました。
頑健な体で、退職後は団地の花壇や植木を剪定して回っていたほど、男気のある方。
秋ごろ、エレベーターまで歩けなくなったので、夜間在宅酸素の開始と同時に、ケアマネージャーにリハビリを勧められ、呼吸療法認定士の資格のある私に担当が回ってきました。
抗ガン剤治療をしながらの呼吸トレーニングは功を奏し、数か月でエレベーターどころか、屋外歩行練習もできるようになり、年末年始には四脚杖でなく、両手にトレッキングポールをもって、奥様と買い物に行けるまでになりました。
両手ですよ。酸素チューブなしです。
口すぼめ呼吸とかストレッチとか、休憩のタイミングとか、バッチリです。
マーカーも抑え込んで進行は落ち着いており、いったんリハ撤退してもいいのではないかという議論まで交わされるようになりました。
しかし、ある時値が上昇し始め、抗がん剤の効力が及ばなくなったことを知らされます。
主治医から今更強い薬に戻すよりはと、免疫療法をすすめられました。
確かに以前使っていた強い薬では ADLを早期に損ない、在宅生活の継続がより早く破綻すると予測されました。
「免疫療法」は「手立てがないので効果のわからない気休めのばくち」と彼には受け取られてしまったようで、気力も萎えました。
本庶博士のノーベル賞受賞は残念ながらまだ先でした。
数週間で、立てなくなり。入院。
リハの出番も中断しました。
片道切符だと、私たちは思っておりました。
しかし、「家に帰りたい」というつぶやきを奥様が聞き逃さず、渋る医師に頼み込んで自宅に帰らせたのです。
もちろん下の世話は彼女にとって生まれて初めて。それでも、「(帰らせてくれって)お父さんの頼みだから」と在宅介護をはじめました。
入院中ほぼ摂らなくなっていた食事も、自宅では、少しだけれど召し上がったそうです。
数日後、彼は家のベッドで、息を引き取りました。
最期はとても安らかに穏やかであったといいます。
「朝起きたと思ったら、もう起きなかったわ」
奥さまは笑っておられました。
家に帰りたい、家で死にたいという望みを叶えられた彼に、私は嫉妬を覚えました。
その方を担当するときにはまだ、私は父の発症を知らなかったのです。
よくなっていく彼を見た後の、父の発症。
そして、転げ落ちるように悪くなっていく父の状況と対照的に、穏やかな彼の回復。
父の死後、彼に訪れた穏やかな在宅死。
すべてに嫉妬しました。
何が違ったのか。
誰のせいにすればいいのか。
何のせいにすれば。
私は自分を苛む千のナイフを、自分の心の中に持ってしまったのです。