人の心身を変えるほどの技術が、避けられない未来に生かされないのなら残酷なものである。

それは私自身のいくつもの反省と悔恨でもある。

「治せる」からこそ、技術だけでは困るのである。

人生を救う気持ちが原点にあるか?

人の一生を支えるために、人の多様な一生を想像する力があるか?

人生の一時期を「幸せ」にすることは(猛き努力と運次第で)誰にでも求め得よう。

しかし、人は躓くのだ

幸運に適応しすぎたがために、変化に対して意識や認知の変容に失敗するのだ

なにせ、初めて経験することで、「誰も教えてくれなかった」から。

 

対象者の、未来に対する心構えを作り、意識変革の準備をできるのが、本当に「人生を救うセラピスト」なのではあるまいか。

 

もしも心底から、障害・病気・怪我のため生活に困るひとを、カネに始まらない、必死の気持ちで技術を高めた方なら。

医療・介護保険のリハビリテーションと連携できないか

保険診療提供者と自由診療提供者はあまりにもお互いのできることを知らなさすぎる。

世界には社会主義も自由主義も、競い合ったり混ざりあったり、喧嘩しながら共存している。

(わが国ではやや社会主義が力を持ちすぎているようである。官僚天国だから。とは筆が滑った)

自由診療は「自由主義」、保険診療は「社会主義」になぞらえられよう。

どちらかのみであると弊害ばかりが肥大するものだが、協力すると大きな力を生む。

主義にこだわらず、手技にもこだわらず(笑)、ただ人生の価値のために、両者が連携してはどうか。

 

お互いのできること、したいことを知り、人の人生においてどのような状態で、どうふるまうべきか、そしてその分担ができればどんなに有用か。

また対象者に求められるように研鑽し協力し、対象者の連続した人生のサポーターになれないか。

 

願わくは、社会全体が、人生ステージごとの人生の価値について意識し、「オーダーメイドかつタイムリーな目標設定型リハビリテーション」を認識し、使いこなして行けることを願う。

それらがリハビリテーションの目的として社会全体に共有され、専門職が自身の役割を果たすならば、自由診療であろうと、人の一生の中で役割を分担し、適正価格に落ち着くであろう。

そうして、自由診療の「治療」は人の社会的サイクルのサポーターの一員となり、医療保険診療・介護保険サービスと連携して役割を果たしていけるであろう。

 

セラピストたるもの、人生を救う気持ちが原点にあることを信じたい