セラピストを目指す者は、多分「治したい」という意欲を(多かれ少なかれ)持って業界に入ってくるものと想像する。

しかし、リハビリテーションの現実に向かい合うとき、ぶつかる壁がある(彼や彼女の想像力の限界によってはぶつからないかもしれない)。

「治せない」後遺障害と「加齢」である。

 

そして、保険診療の制限である。

保険では、「漫然と」介入を継続することは厳に戒められている(まあ、事業者の自覚によっては保険対象でないような介入内容で継続することも可能であるが)。

施設によっては、対象者の必要時間に対し、まったく枠不足(人員不足)であることも問題だ。これは経営の問題か。

もっとも門戸を大きく解禁されても、必要な分ずつ時間枠を配分するためには、厳しい評価力が必要であることを挙げておく。

 

さて、腕に覚えのセラピストは、自分の技術(手技や口説など)による結果もしくは未来予想により、対象者にバラ色の社会復帰やその希望を送り、あなたは感謝されるだろう。

しかし、あなたなしでは人生の価値が下がるという「恐れ」を持つ日が来るだろう。
 保険診療を利用する限り、いつかは自分の手を放さなくてはならない。

その時…対象者に絶望を与えることになる。

 

ならば自由診療なら限界を突破できるのか。

 

対象者の満足に応じて、価格も自由設定できる、「市場価格」のない(もともと採点基準も自由に設定できる治療の結果に「市場価格」などあろうはずもない)自由を、セラピストは満喫するであろう。

そして対象者は、お金を払って満足を買い、ハイレベル・ハイスペックな生活や状態を謳歌する(かもしれない)。

ふたりはいつまでもその状態が続くことを望む。しかし、その出費ができなくなった人(資力の問題や家族の問題など)には、もうその技術を買うことはできない。赤ひげは許されない。

してみれば、自由診療のセラピストは、対象者の幸福のためではなく、一義的にはお金のために施術するのである

 

「それの何が悪いのか」

「誰しもお金なしでは生活もできない」

「カネがない者は努力していないだけである」

「カネがない者は社会的に力を持つこともできない」

「私は対象者のために十分良心的価格を設定している」

 

尤もな言い分にみえる。

いくらでも言い訳は可能だ。しかし、一義的にお金という前提は動かない。
 その自覚がなければ、現金以外の事物や情報・感情の価値について無自覚にお金を前提とした判断をすることになるだろう。

 

お金を稼ぎたい。立派な動機だと思う。

しかし、お金を稼ぎ続けるのはその動機では無理だ。

恐らくあなたのビジネスの指導者もそういうだろう。

また、事業をやったことのある人は身にしみてわかると思うが、お金は稼ぐ時より失う時の方が一瞬である。

 再投資の方向性や時期を間違えたらマイナスへの転落が待っている。