新年早々、知り合いから「脊髄とか臓器とか取り替えて車いすが要らないようになるのか?」ときかれた。

 

ips細胞のことらしい。

 

健康保険等国家予算である程度の支払いが賄われる保険診療報酬であるが、制度の存在そのものは大いに「国民」の生活の安定化に寄与したと思う。

制度の内容については、(意識されているかどうかに関わらず)人口増加を「目的」もしくは「前提」として設計・運用されているため、今日の人口減少・高齢化進展社会では破綻が約束されている

 

国家が推奨しているモノへの依存症やその使用による健康被害に保険が使われるという矛盾(タバコやパチンコなど)。マッチポンプであり、いくら潤沢に基金があっても、カネの循環は拡大する一方。

 化学食品・添加物・農薬をはじめとする発がん物質に関しては、これを避けることは容易でない。これは国家の犯罪ではないのか? 一体国民をどうしたいのか? 滅ぼしたいのか? いくら保健を叫んでも、肝心の健康な人が残らない。医療の世話になる人を増やすばかりである。国家が本気で健康寿命を延ばそうとしているようには思えない。

 それでなくても、医療処置の必要がなくても、診察だけではやっていけないから薬を出さないといけない(もしくは出番だとばかり嬉々として薬を出す)医師を作り出す仕組み。免疫に頼り日数を経るしか手がないはずの病気に、抗生物質を売りつけ、耐性菌を氾濫させる。その対策費も健康保険から出る。

高額療養費制度は、「カネの切れ目が命の切れ目」で泣く人を少なくしたが、医療者のみならず患者・家族にもモラルや医療の概念の崩壊をもたらすといった矛盾も抱えている。

 

また、古来の死の姿を捻じ曲げてまで「生かし続ける」だけの延命医療。「なぜ、どうしたらこんなことになるのか」について民はあまりに何も知らない。医師がその場の信念に基づいて「いのち」を救うために提案したことに、無見識にうなずく家族、その結果が、いつまで続くかわからない、本来生きているはずのない姿の介護絵巻。言い方は悪いが、甲斐のない(ポイント・オブ・ノー・リターンを超えて、回復の見込みのない)人にお金と労力をつぎ込むため、社会全体としては新しい命には相対的に冷淡になる。

 

そして「機会平等の幻想」。

ある疾患・状態に対し、「社会的に妥当で最新の医療を受けられる権利」を誰もが有する、医療機関はそれを提供できなければならないという。

日本中にドクター・コトーが万遍なくいらっしゃるのだろうか。そんなわけはなく、機会は不平等なもので、ことにカネやコネや地位、そして情報を持っている人は、保険の範囲内でさえ、それなりに力に対応した人や処置に連なることができる。

また、次々現れる疾患・新生物に対し、新しい治療法や薬が発明され、国民の嫉妬の視線は保険適用を求め、健康保険制度に国民をつなぎとめるために、適用疾患はただただ拡大されていく

 

さすがに入院単価を絞ろうと、アメリカをマネして急性期医療にDPC(入院治療費定額制)を導入してみたものの、保険者(支払いの財布)が国家予算であり、皆保険(既得権益)との整合性を大きく揺るがせないよう、患者誘導が可能なほどDPC以外の医療機関との価格差をつけることができない。
 DPC制度存続・目的完遂のためには、さらに包括分の価格を下げる・参加病院を絞る(経営的に成り立たなくさせて退会を促す)・出来高部分も包括化するなどの施策が必要となる。医療費節約は現状では病院いじめにほかならないゆえ、ますます経営を圧迫し、病院からの離職者を増やす。急性期病院の高騰化を促したりすることになり、命を金で買える傾向が強まろう。

 

そしてついに「結果の平等」まで求められるようになった。医療崩壊の序章を開いたのは医療訴訟、それも医師個人への刑事訴訟の始まりであるといえる。検察もメディアも医療者の「敵」となった。個人でこれに抗しえる者がそうあろうか。

かくて医師はますます病院から去り、高リスクの「救急」「産科」「小児科」などが次々と閉鎖されていく。皆保険の理念からすると最も守るべき順位の高そうな科であるが、衆愚民主主義と利権官僚行政の台地にはこのような現実が展開される。

 

一方、厚生労働省指定先進医療。治験扱いであり、保険は適用されない。保険診療に見切りをつけたり、そんな売り上げでは飽き足らなくなった(あるいは元々法律を遵守するのが困難な人格)ものは、需要に応じて、もしくは先んじて参入するであろう。そこでは(犯罪と立証されない限り)結果責任は求められない。患者の方も、保険診療に見切りをつけ、カネやコネや情報があれば、先進医療など自由診療に吸い寄せられていくであろう。

 

ips細胞について聞かれた。間違いなく実用化する技術であろう。しかしバラ色の未来はもちろんない。一部の層にほぼ独占化される技術であり、誰にも使わせてもらえるものではない。保険は適用されない(日本だけ適用されれば世界中の貧民から住民登録が押し寄せることになる。すでに、生活保護や医療証を求めて近隣諸国から移住する者と呼び寄せる者が引きも切らない。筆が滑ったが)。

 

これら諸問題を温存したままの診療費抑制は弥縫策であり、民の間に不信と不満をばらまき、参加者の減少・原資の枯渇から制度の崩壊へと至る。人口減少によって自然にそうなっているのかもしれないが。

 

国民皆保険の理想を支える手立てはおそらく、ない。

 

我々は、自分の身を自分で守らねばならない。すなわち「カネか、コネか、地位か、情報」を必死で集め、自分の頭で考え、できるだけ健康に生きること、「保健」に努めることである。生き物らしく真っ当に死にたいならば。

 

そして、いかにして加齢していくかを、社会学・倫理学・心理学・哲学・宗教学的(生理学や生物学だけではない)など、いろいろな角度から考えておくことである。

また、「死に方」が見えてくれば、11日の重みが実感として増すのではないか?

ここから先は宗教学・哲学の領域に踏み込む。稿を改めなければならない。