ある程度合理的に世の中の仕組みが分かってくると、自分以外の者の不合理性あるいは脱規範性に一言申したくなるものです。で、それを「指摘」することが誰しもあるでしょう。

 

「指摘」されて怒る人がいます。

「指摘」してヒトを傷つけると落ち込む人がいます。

 

傷つけることはどのくらい「悪い」ことなのでしょう。

 

傷つくパターンその1。

「うすうすわかっているが、言われる覚悟のない人」。

目をふさいで、そんなことはない!って怒ったり、そんなんじゃないけど…と不機嫌に首を傾げたりします。

自覚があるからこそつつかれると痛いのです。

 

あと、「単に臆病な人」


たしなめられたり指摘されたりと言ったことに心当たりはないが(ないんです。自分を見つめることに慣れてないので、そんな風に思ったことがない)、単に自分を馬鹿にされた・貶められたという思いを持つため、自尊感情を保てないタイプ。

 

では指摘する者の問題は。

 

まずは自分が問題点の認識に関して正しいかどうかを問われると思います。
何に照らして正しいのか、その前提が相手と共有できていない場合、悪い結果に対してある程度の責任が発生します。

 

次に自分にその資格があるかどうか

指揮系統から外れる人や、損得関係のない人が、求められずに「口を出す」場合、「責任をとれない」事態が発生しうるので、かなり困ったことです。

しかし、「指摘しないと損をする」場合、ある意味「口を出す」資格が発生すると思います。
相手が怒ろうが何しようが、その結果をひっくるめて損得を判断して、自身に損になるならば、口を出さざるをえないであろうということです。
指摘すべきときには指摘することで
自らの役割を果たし、周囲に自分を認められるようにすることは組織人としても合目的行動ですね。

また、
自分に損害が及ばないように相手を教育する態度は成熟といえましょう。

(ただし、起こった事態を収める力があるかどうかも含めてちゃんと判断しないと成熟した大人とはいえません。

人間は想像力の及ぶ範囲で損得勘定をしていると思いますが、成熟した損得勘定を行えるよう自分を鍛えたいものです。)

 

デモやテロ(為政者によっては同列ですが()にも、それぞれにとっての大義があり、受け止める相手の器量によって起こる反発を自分の基準による損得勘定に入れ、行動しているのだと思います。

起こす側も、受ける側も、自分の想像力と説明力を鍛えておかないと、共感を呼びませんね。
もっとも、報道する方の器量にも左右されますが。

(為政者と報道者が共犯関係あるいは隷属関係にある場合、デモもテロも「悪」とみなされることでしょう)