急性期病院で「治す」ことしか必要とされていなかった私にも、「つなぐ」「家へ帰す」という動きを実践する日がやってきました。今では当たり前のことですが。

*「治して」いたかどうかは定かではありません。自然治癒の応援を正しくできていたかどうか。実は今も記憶がよみがえっては七転八倒するのです。患者さん方に申し訳ない…


ゴールの設定の勝手がまったく違います。面食らいました。
また、「整形外科リハビリテーション科」なる、閉ざされた空間の中で好き勝手な活動をしてきた私には、チーム医療の本格的な実践は実に初めてといって過言ではありませんでした。

この病院のスタッフの親切さ、気さくさは本当に救いでした(入職前の見学で雰囲気の良さにびっくりしていましたので、自分に見る目があったと思いました)。歳下の方々に助けられながら、ようやく私は「集団生活のルール」を学んでいきました。

つらい気付きがありました。

私が前の職場でいづらくなったのは、自分で招いたこと。
人のせい、環境のせいにしてなお、何も解決しなかったのは、自分を直視できなかったから。
誰も味方になってくれなかったのは、説得力がなかったから。
発する言葉の検討をする前に、人物を見られていた。
ついていって自分を守ってくれない輩に、誰がついていくものか。
人に浴びせた言葉は自分が浴びるべき言葉でした。
気づかせてくれたのは新しい仲間たちでした。

本当に砂を噛むような明日の見えない絶望感も味わいました。いい歳をして布団にもぐり声を忍ばせて泣きました。自分の「力のなさ」に情けないような、申し訳ないような日々。耳をそばだて、目を凝らし、口に気をつけ、走り回るうちに、少しずつ受け入れ助けてくれる人が現れました。彼ら、彼女らのおかげで、セラピストにできることを吸収していけました。
やっと私は「社会」のスタートラインに立てたのです。

科の代表として上部組織や他科との折衝をみなに頼まれるようになった頃、ようやくこれでよかったのだと感じられるようになりました。

 

「外部」との交流の中で、みえてきたこと。

「情報交換はしやすいが、なぜか空回り感がある…」

「各部署は持ち場の仕事を十分やっているように見えるのになぜ?」

 

「患者一人一人への関わり方が統一されていないのではないか?」

ざわ… ざわ ざわ…