今更言うこともない日付です。
本当にゾッとします。
今も体の奥がヅクヅクしています。
でもあの日のことは、前後含めて克明に覚えています。
あまり進んでいないように見えたいろんなことと、自分が忘れないために、海に奪われた友人家族の記録を含めて、まだ紙出版漫画では「震災を思い出させる描写はまだ気をつけて、できればあまり触れないように」と言われていたけれど、
電子まんが雑誌で、「あれからもうじき一年」として、私は日記漫画として描きました。
http://www.comicloud.net/jpn/manga/003_002_004.shtml
今でも読めるのかわからないですけど、「コミックラウド」で検索してもらって、Vol.3のNo.2の号、を探すと、…描いてます。
(読めるのかな今でも^^;)
生きてる人は、その人がいる場所で、できることをやる。
それが「やるべきこと」だった、って改めて思いました。
そして、この3月11日は、私たち日本人が、世界中の人たちに改めて感謝をする「感謝の日」でもあります。
少なくとも私の中では。
いの一番に、信じられない速度ですごい金額の寄付を「私たちは大好きな日本を応援しています。」と差し出してくださった台湾、そこからはもう続々…
電話がつながりにくかったことはみんな覚えていると思うけど、これは国内に限らず、国外からも日本への電話はとてもつながりにくくなっていました。
セプテンバーイレブンの直後、東海岸に住む友人に電話がつながるようになったのは、9・11の3日後くらいです。
それと同様、日本にもとてもつながりにくくなってました。
日本に留学に来ている、仕事に来ているなどの人たちの家族はどれだけ不安だっただろうかと思う。
実際、そのあたりは目の当たりにしています。
そして、電気や電話がつながるようになって、一斉に世界中の友人や親戚から電話やメッセージが殺到しました。
「大丈夫?」
「うちにおいでよ」
「仕事できるように場所空けるからこっちで仕事しない?」
「別荘があいてる」
「行く場所がなかったら、うちの部屋、来てね」
アメリカ、台湾、メキシコ、韓国、南米、中国にヨーロッパ…
世界中の人達が心を痛めてくれている。
そう思いました。
じゃあ、自分は日本人であることを誇りに「日本は地震に慣れているし、地震に強い建物だから、大丈夫」「日本でやらなきゃいけないことがあるから、日本人は留まって踏ん張ると思うよ。安心してね!」「うちにいる外国人は、私が守るから」「日本は安全だから、この辺は普通にみんな仕事してるから」
そう言うしかありませんし、事実、そうでした。
被災した友人の家族たちになんとかモノを届けたくて八方塞がりになったりもがいたりしていた「あの時」の記憶は、いやがおうにも鮮明です。
時折、テレビから流れる「あの時の津波警報のサイレン」は耳にしただけで胸の中がかきむしられて、軽いパニックに陥ります。
今日は、午後に黙祷をしたら「またいつものように、今いる場所でできる仕事の日常」に戻ります。
笑顔に。
追記
震災時、ツイッターだけが生きていて「繋がる手段だった」という話を耳にするようになったのは、ずいぶん最近の話です。
あの時、ツイッターをやっていたら、なにか違ったんだろうか?
帰り道が少しだけ楽になったかもしれないけど…もしかすると、タイムラインが情報過多でかえってパンクしていたかもしれません←これは私だけかな?