映画をいわゆる「大音響上映」のように、ほとんど意味のない言葉で盛り上がりながら視聴するのは良いものだろう。楽しそうだ。
しかしながら、寂しく思うのは、SNSで流れてきた意見を皆受け入れて、一つの受け取り方を大衆のものにしてしまうことだ。
感性的な「意味のある」解釈まで他人に委ねてしまえば、思うにその時点で外側に、映画が「そういう物」になる。「あなたが観た」映画ではなくなる。
自分はというと、ちょうどシンゴジラの上映初日の7月29日は誕生日だった。
当時、空っぽの日々であった。何か刺激を受けたくて、映画館に足を運んだ。
事前情報はほとんどなかった、知ろうにも試写会は一部でしか行われず、情報もほとんど非公開であったからだ。
まあこういうことを事前にしている映画は、総じて悪い評価に繋がることが多い。
で、まさに「自分で観る」に最高の状況で自分が何を感じたか、「何も感じなかった」何を当たり前のことを言っているんだと思った。
補足すると、その時の自分は価値観も人生もほとんど全否定されたと思っており、故に全て盲目的に肯定せざる負えなくなっていた。
今までのことは無になっており、考えるには観念の再構築を必要としていた。
ただ思考が存在だけしているが故に、観念的な物を解けない、まさに映画で暗号化された資料のように逆説的な「曼荼羅」だ。
解くには何かが媒介に必要になってくる。シンゴジラではそれは「折り紙」であった、日本の偶像だ。
宣長は漢意によって大和心が汚れていると言ったが、現代ではそれに官僚機構や資本主義まで被さっている。
本当にそういう心があったとしても、それは今やクソまみれに染まった欲望だ。
しかし戦後に入って、一部では様相が少し変わってきた。或いは鎖に繋がれた中でも自由を手にするために、或いは更なる私欲のために、法の解釈の広域化が本格的に始まったのである。
対策本部がはみ出し者で構成されても、曲がりなりに組織・法に従っている、これと同じだ。ただ機能的に個人が発揮される組織になっただけで、ヒロイズムではない。
法と官僚組織が民衆を安心させるため、ただそれだけの、もはや信仰ような形式的な物となり、尚且つ「冥衆護持」民衆の力を得られるのなら、
皆好きにやる。「真心」へと向かう。自我に従って突き進む。機構が神になり、観念は形成される。
これはゴジラから人間の誕生である。何処へ向かうか、恐ろしくもある「超越者」の最たる姿だろう。
