宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては次のような伝承がある。天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂(にひ/二つの腕)の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたのがはじまり。
その後、寺の火災で二尺の観音像も消息したが、
奇跡的に一尺二寸の二臂の観音像は猛火を脱した。
ご本尊は、
秘仏、二臂の千手観世音菩薩。
やましろの民話:
宇治の三室戸寺には、参道の入り口に小さい橋がある。名を蛇体橋というてな、 なんでも雨の降る日には橋の裏側に、蛇の影が現れるのやそうな。 ずっと、昔のことや。山城の綺田(かばた)村に、三室戸の観音さまを信仰している心のやさしい娘がいた。 ある時、娘は村人が蟹を殺そうとしているのに出くわし、 「魚の干物をあげるから、逃がしてやっておくれ」と頼んで、蟹を助けてやった。 さて、ある日のこと。その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙を飲み込もうとしていた。 そこで父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」と、蛇に言うたのや。蛇はすぐに蛙を放し、やぶの中に消えていった。 その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへやってきた。 「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」 父親はびっくりぎょうてん。 「三日後に、来てくれ」 と、言い逃れをして蛇を帰したのや。 三日後、娘は戸をしっかり閉めて部屋に閉じこもると、三室戸の観音さまを念じながら、一心に観音経を唱えた。 恐ろしくて気が遠くなりそうなのを必死でこらえてな。 外で娘を待っていた若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿にもどると、尾で戸を打ち破った。 「観音さま!」 娘が叫んだとたん、たくさんの蟹がこつぜんと現れ、はさみをふり立てて蛇に切りかかった。怒り狂う蛇を退治したのや。 翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに、出かけた。途中で雨が降りだし、三室戸寺についたころには、本降りになっていた。 娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、橋の上に蛇が横たわっていた。 蛇は悲しげな目で娘をじっと見つめると、橋の裏側にまわり、ふっと姿を消したのや。 雨が降る日には蛇の影が現れる。 いつしか人々は、この橋を蛇体橋と呼ぶようになったのや。
後日娘は蛇を供養するため、蛇の姿をした『宇賀神』を奉納したと伝えられています。
なんと写真まであり。。
そして、この宇賀神ですが、
耳たぶを撫でれば福、
顎髭を撫でれが長寿、
体を撫でれば金運に恵まれると。
そして、撫でてる時に気づいたのですが、
名前のプレートの裏に。。。
「欲ばれば◯◯ない」という
文字のかすれたプレートが
菟道稚郎子が宇治に来た際、兎が道案内したとの伝承もあり、兎と縁があります。 因みに、菟道稚郎子は日本書記に、菟道の山の上に葬られたとありますが、当山本堂の裏山の古墳が、稚郎子のものだといわれています。
兎って、菟道稚郎子の名前から取ったんちゃうんと、
少し思いましたが。。。💦
この狛兎は、
胴体の穴の手を入れ、
中にある石の卵を立てると
昇運がつくと。
もちろんさせていただきました
狛兎の反対側には、狛牛も🐃
ツツジの斜面
上の方まで登れ、間も入っていけますが、
上は結構急勾配でやめました
あじさいがとても有名ですし、
蓮も鉢がいっぱい並べてありましたよ
そして、
源氏物語ミュージアムを堪能し、
宇治上神社⛩️の方へ
菟道稚郎子。
宇治上神社のサイトがよくわからないのですが。。
同じご祭神を祀る
隣りにある宇治神社とは
もともとは一つだったよう
また、菟道稚郎子が亡くなって3日後に生き返り、自分の妹である矢田皇女(やたのひめみこ)を、大鷦鷯に奉ると遺言してふたたび絶命したとされています。そして彼の死後、即位したのが大鷦鷯皇子、すなわち仁徳天皇でした。菟道稚郎子の宮は、桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)と呼ばれ、皇子の没後、仁徳天皇によって菟道稚郎子が祀られたのが宇治上神社の草創ともいわれています。
なんとも興味深い、菟道稚郎子。
そして、その足で平等院へ🛕
10円玉で有名な
鳳凰堂のあるところです
宇治の地は、
平安時代初期から貴族たちの
別荘地だったよう。
平等院の地は、陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが藤原道長の義父、宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没するが、その子である関白藤原頼通は永承7年(1052年)になり、末法の世が到来したこともあって、宇治殿を寺院に改めようと考えた。そして、その開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)で、園城寺長吏を務めて京都岡崎(現・京都市左京区岡崎)の平等院の住持となっていた明尊大僧正とした。その際、頼通は新たな寺院の名称として「平等院」の名を欲したので、明尊は岡崎の平等院の名称を譲っている。これによって岡崎の平等院は新たに円満院と改名した。円満院は後に江戸時代に入ってから現在地である滋賀県大津市にある園城寺の東に移転している。こうして、宇治の平等院は園城寺の末寺として創建された。その際、境内の西にあった縣神社を鎮守社としている。本堂(金堂)は、元は宇治殿の寝殿でそれを仏堂に改造したものである。現在観音堂が建っている場所にあり、大日如来像を本尊とした。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されている。延久6年(1074年)、頼通は当院で亡くなっている。
人の名前や相関関係が
わかっているので
すっと入ってくる〜
道長が築いた当時の宇治を、
俯瞰図で描いたパネルなども
ありました。
企画展は来年1月13日(月・祝)までだそう。
興味ある方はどうぞ
お茶と宇治のまち交流館「茶づな」も
面白そうでしたが、
今回は企画展のみ観覧しました。
隣りには茶畑がありましたよ 🌿
宇治は源氏物語の最後の舞台。
紫式部のソウルメイト道長とも
こんなに繋がりがあったとは
当時の宇治へのトリップも楽しかったです