作中の小説家な芥が
「老人って一週回ってアバンギャルドだな」
こうつぶやきます。
元気で社会性があったら、デリカシーはゴリゴリ削れていくもの?って訊きたい(笑)
こちらの小説の主人公は、虚弱体質で産まれた男性。
現在、ご近所からは「家事手伝い」に分類され、無職の扱いを受けています。だから、コンプレックスが発生します。
私もこちら側の体質に産まれ、これほど重症ではありませんが、
当時の友人には主人公と同程度に重症な子がおりまして、
彼女の母は、遊んでよい友達を厳選していました。
親が子供社会に口を挟むととやかく言われる時代でしたけれど、
私は偶然、彼女宅で厳選する理由を聞きまして。
自慢の多い子、勉強が出来ようが出来まいが自分がいかにスゴいか言いたい子、とは遊ばせないそうで。
それは彼女のメンタルに多大な影響を及ぼし、後に体調不良を誘因するからです。子供の状態をよく観察できるお母様は、保健関係の職に就いておられました。
ここでも「根性論」を唱える大人はいて、選から漏れた子の家族は優秀な子を排除する陰湿さを要因にして、病は呪いから起こるように話していました。見当外れの論点が、問題をあらぬ方向へ向かわせます。
それほど重症ではない私でも、物心つく前に数度は死にかけたらしく、
私の体調が悪くなれば両親が喧嘩になることも度々あり、作中に登場する両親の姿と重なります。
作品は兄弟ながらうちは姉弟で性別が反転していて、もっぱら父親が母親に怒るばかりで。
「なぜもっと早くに気づかない」「こうなる前にどうして病院へ行かない」
そうして母は萎縮してパニックを起こしては爆発するの繰り返しへ。
私に物心ついてからは、下にも頑固な男の子がいるのでそれは母親がかわいそうと思い、止めに入ったこともあります。
作中で主人公は「病気なのに周囲に気を使ってばかり」と言われております。
それは、自分の体調不良で親が喧嘩する原因になれば、そうなりますよ。なにも、なりたくてなった病気や体質でなくても、現実には諍いの種になっているのですから、おちおち眠っていられません。
優先すべきは何か、各々は冷静になり考えてみたら。
しかも周囲の評価は「早く元気になれ」というプレッシャーがあり、体質を否定します。
文中にも、
「少々のしんどさなんて気合でなんとかなる。学生時代、和久井(主人公)も体育教師からよく言われた。気合だとか根性だとかで元気になれたらどれほどいいかと、涙をのんで授業を見学した」
こう書いてあります。教師はそれを主観と思いません。子供が「体質」や「病」と闘わねば、通常の日常生活すら過ごせないなんて、想像しないのでしょう。
それもこれも「集合的無意識」に「病は穢れ」とする認識が潜在するからではありませんか?
病に負けない健常者こそが優生って、病弱は劣性と無意識のうちに判断していませんか?
そこに、他者を気の毒に思う優しさは存在するのだろうか。自分が当たりたくないばかりに、否定して遠ざけたいのだろうか。それが排他的な行動になり、受け入れる度量のない小さな人間性へ。
虚弱と脆弱は厳密には違っていて、
産まれた体質次第では、明日へ命をつなぐだけでも日常生活には制約がかかり、自由度はありません。
よって、呼吸するために我慢が必要になります。元気な人に、そのような経験がありますか?
これらを決定づけるような実話が、私にはあります。
10数年も前、息苦しいので内科へ行っても一時的な改善しかせず、その間も仕事や家事を行いつつ血液検査をしてみたところ、ヘモグロビン値が約半分になっていました。その結果用紙をみた医師は椅子から転げ落ちそうになりつつ「なんで動けるねん」って真顔でつぶやき、素がでたみたい。
気を取り直して、心当たりから受診科の指定を受け話がまとまった後に、
「長年の生活習慣で、それでも動けるライフスタイルを確立してるんやろなぁ」って、話す間ずっと不可解の理由を考えていたみたい。
酸素の有効活用をしていたこのときには、それがどのようなライフスタイルやら思いつきませんでしたが・・・
恩田陸先生作品に登場した、心臓に持病のあったキャラが医師から受けた指導を話していて、私が幼い頃に受けた指導と同じ内容でした。
生来的に活動が限定される子供共通の課題かもしれませんが、なら元気な子供はどのような課題に時間を使っているの?24時間の1日が同じように過ぎても、その間にできることに使える時間が違う以上は差が生じます。何を学びに時間を使うのか、明日へ命をつなぐために合理性のある動き方で活動量を減らさねばいけない子供について、「みんなと一緒に、普通にできない」というレッテルを貼ることがおかしくないかい?
実際、日頃に元気な人ほど、少しの発熱や体調不良で大騒ぎをしてネガティブな思想にとりつかれていませんか?今にも死にそうな訴えを起こしませんか?
こういう人にこそ「少々のしんどさなんて気合でなんとかなる」ので、静かに眠り闘病するよう諭すべきではないかな。虚弱体質に生まれついた子供は、幼いときからその繰り返しをして今を生きておるのだから。
止まる勇気もない教師や大人は、子供をどこへ向かわせたいのだろうか。
「やってくれ」や「させてやる」というものは依頼心に偏っていて、合理的ではあっても合理性はありません。自主性がないのだから、プログラムと同等です。
いったい「病」とは、何を指すの???