自己肯定感の高い自分は不安症状が強い、

この文脈がオカルトテイスト。これまでの、自信があるから肯定できる既成概念を破壊しています。

気張ってツッパるかしらん、自然体ではないでしょう。これがマイルドヤンキー価値観にあたるかしら。

こうした思い込みを、内向的やシャイと呼びますか?

『非社会』の次は『奪社会』かしら、したらば大転換呪法は成就しそう。小説“炎の蜃気楼”の世界なら第六天魔王が復活をとげる。

 

 

 

序文、幼児教育でも注目を集める『共感覚』、はこちらから 

 

学術分野では、感覚間協応と定義されています。

 

 

これを、今までは、幼いうちほど【刺激に対する知覚を処理する脳機能が未分化なために起きている現象】と言われてきました。未熟さから起こる、と。

ところが、この感覚間協応のある人ほど芸術分野で顕著な才能を発揮することから、表現活動においては有効性が高まるのではないかとみられています。

 

理論では“子供は無知だから”になっていません。

【未熟な時期は未分化】な現象から起きる症状だから、

アスペルガー症候群の一種ではないかと見る専門家がいるかしらん。

これが、既存の人類発達学からみたものの見方。

 

私が受けた説明においてのアスペルガー症候群とは、

一般には成長とともに生活上で不要になるセンサーの消滅や整理統合が、うまく処理されずにたくさん残った状態。

すなわち、センサー(神経芽)が多いあまりに周りから入る情報量も増えて処理しきれず混乱を起こしやすくなる障害につき、適切に処理できる量に応じた環境を社会が与えるべきである、という理屈。

適切な環境を与えられない場合、メルトダウンが起きパニック騒動へ発展するので沈静化するためには周囲のサポートが必要であり、落ち着くまで観察を要する。メルトダウンの起こる理由は『脳機能が未分化だから』とは違うのかしら。手がかかり時間も消費しますから、感謝の起こりそうなものだが、サポート体制が日常化したら生活必需品になるのかしら。

 

実際に、重度の自閉症により臨機応変な対応がまったくできない障害があることから、ルート配送などのルーチンワークでほぼ変化しない環境へ就業する成人もいます。

 

そこで、考えて欲しい。

生活に必要がないことから、センサーが少なくなり過ぎるケースはないのかしら。要らない要らないばかりでも与えられ生きられる環境があれば、センサーの重要性も下がり消滅しそうです。

 

それはともかく、

センサーの数と処理能力の均衡が課題になるなら、スペックが問題として提示されていて、

センサーの多い人ほどたくさん処理すれば、合理性は満たします。

センサーが少ないなりに処理も少なければ、本人としては適切に行っています。

センサーが多くて処理が少なければ、入る情報は行き場を失い脳内に溢れます、もちろんリテラシーする余裕はありません。これを機能の未分化が起こす、というのでしょう。

 

その合理性が上のリンク記事に書いてあるような、感覚間協応によるこれまでに発見されてこなかった高度な処理になって発生しませんか。

記事にある子供に対する実験の数々、これは情操教育にとって必要不可欠なメソッドになりませんか。これまでの日本では、このことは軽視され保育活動が行われてきたのでしょうか。その点が不明瞭につき、記事からでは私は読み取れていません。

 

その処理について、

深夜ドラマ『ポルノグラフィー』の主人公である木島は、官能小説家。BLファン、特に実写ファンには視聴者が多いのではないかしら。

木島は利き手に怪我を負いペンが持てなくなったから、加害者の大学生との示談条件に代筆を依頼します。この後に木島が口頭で物語を紡いでいるシーン、代筆する大学生は専門用語の当て字を知らないので都度その場で常用の読み方を指示し漢字を指定して書かせています。

いや~、この専門用語の辞書、用語集としてどこかにありませんか(笑)私も欲しいので、大変興味深いシーンでした。

こういう木島、かなり頭が切れますし冴えています。台本のない即興の物語を流暢に語りながら、大学生を配慮して文字まで教えてあげます。作家業の表現なら、筆が走る状態にあって集中しており相手を気遣う余裕まで見せています。客観的視点があればこそ、これらの作業を同時に平行して行えます。古い友人の城戸がその才能に嫉妬を抱きつつも、埋もれさせるには惜しいと感じる創作力がコレです。どうにかしてデビュー当時の文学的作品で売れ筋に乗せてやりたい、生活のために書くのではなく多くの人から感動を呼び覚ます作品を描かせたいと考える由来でしょう。ただ、木島の性格がかなり歪でふざけていて城戸の真摯な思いを正面から受けられず、また性癖に対して奔放な性質も加わり現状を満足していて期待にこたえるつもりがないので、ドラマとしてはこのすれ違いが面白味。

高度な感覚処理とは、こうした木島のような作品に対する創造性にあふれた人であり、現実の作家さんでも見聞きしますし、

映画監督の才能を見せつけた俳優のトム・クルーズもそう、監督業において自分のことだけに集中せず出演キャストではない撮影クルーに気を配ります。俳優のキャリアしかなくても、こうできる貫禄。

黒沢監督もそうかしら。

サグラダ・ファミリアの建築様式も、木島のような作業になっていませんか。

 

そして、理論から提唱されている、芸術的分野での活躍を推定される子供の潜在的能力。

この芸術とは、絵画や彫刻の製作や物語などの創作に留まりません。デザイニング活動、服飾デザインや日用品(キッチンツールや電化製品)のデザイン性や建築デザインにいたるまで、さまざまな分野で付加価値の高い製品開発に活かせます。遺伝子デザインも含むのかしらん。

昨今では一般家庭でも海外製電化機器の使い勝手が語られるようになり、国際競争はますます激化の一路をたどっていて、ビジネス経済に国境はなくなりつつある現況。

『芸術』と聞いて、美術や作詞作曲など創作のみをイメージすることが、イマジネーションの乏しさです。

 

しかし、リンク先の保育実験、

どうしてもっと早くから、50年前にやらなかったかしら。当時の日本は、戦後経済復興の成功モデルとして国際的にも認められていました。

都会志向の若者が増え、核家族世帯が好まれはじめ団地ブームが起きた頃に

この研究を考えていたら、今ごろは勤勉な日本人らしく最先端モードの製品作りに成功していたやもしれません。アニメ界以外にも、たくさんの日本製品が輸出待ちをしていた未来図。元気や気合いより、経済的豊かさを生み出しませんか。

一生懸命な根性は、どこへ向かったかしら。そして、未熟はいつ成熟するのかしら。