張作霖は1926頃から日米欧の民間資本を活用した鉄道整備など「華北の自由化」を計画
1928/6関東軍の河本大作やコミンテルン謀殺員らが反共に転じた張作霖を爆殺した  
当時の日本メディアは国民党スパイの犯行と論説 1932河本は南満鉄道の理事となる
wikj...河本らは、予め買収しておいた中国人アヘン中毒者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突、死体を放置し「犯行は蒋介石軍の便衣隊によるものである」と発表

●溢れた日中の軍官(国費依存)たちは張の自由化計画で自らの立場が危うくなると考え「華北の自由民権派」を一掃する必要に迫られた
1931/6上海租界地でヌーラン事件 wiki...押収された文書には、「国民政府の軍隊内に共産党の細胞を植付け其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた
ソ連スパイのヌーラン情報は日本にも渡される ヌーランはゾルゲらの買収工作により釈放
1931/9~1933/5満州事変  ※国策の独占事業 赤字満鉄の職員40万人朝日記事
1931/9関東軍部隊が日本所有の鉄路爆破 自作自演の関東軍は中国軍による犯行と発表
1932/1-3第一次上海事変日本軍は艦隊十数隻を派遣し上海の虹口を占領すると明言
国民党中央の撤退命令を無視した19軍の蔡廷鍇は「倍の兵力と装備に優れた日本軍」と交戦し敗退蔡廷鍇は1931江西省の紅軍にも苦戦 共産党との戦いに疑問を抱く  
1933福建革命 蔡廷鍇は国民党を完全に裏切って中華人民政府を樹立
この人民革命はまもなく蔣介石に鎮圧されるが「国民党の分断弱体化」の責務を果たした
※蔡廷鍇 欧州に逃げた後に再び反蔣介石の活動 1949以降は共産党の要職についた
1957東京開催の原水爆禁止世界大会に参加 1968北京で病没

1932~1933関東軍が満州国の拡大に意欲 熱河省にて右派軍閥と衝突 
関東軍の攻勢に呼応した共産党軍は各地で赤色テロを煽動 略奪を繰り返し勢力を拡大
1933/1.03関東軍の爆破隊」が山海関の南門を爆破 
1.14労農赤軍革命委員会と中華ソビエト省政府は「蔣介石打倒」を正式に発表
4.04江西省にて紅軍が大規模な南昌蜂起 (左翼の連携と策略) 
(東北軍の張学良らと国民党軍の連携を分断 華北左翼連合は関東軍の南下を誘導)
江西省の人口 1927/2千万人余り →1936/約1千万人余りに減少(左翼の民間殲滅)ぶーぶー
↑当時の毛沢東「8億もの人口がいる 闘争なくしてどうやって機能するのか」
4.10左翼に挟まれた蔣介石は国民党中央軍に「共産党軍の排除」を指令  

1934~1935 各地で国民党と共産党の大規模戦闘
1935共産党軍は劣勢となり長征 同年7月コミンテルン7大会にて抗日煽動の重要性を示し左翼日本軍の南下を誘導 関東軍はソ連南下による満州国侵入の憂いを晴らすことができた
1936共産党軍は瀕死の状態となる 2.17共産党は全軍2万の大軍で山西省に侵入 東北軍の張学良らは共産党幹部との密約により侵入を見過ごした 北シナにおける日中開戦を予知していた共産党軍は秘密裏に民権派分断の洗脳工作を推し進め左翼統治の円滑化を準備した
左翼日本軍も盟友の共産党を救うための抗日運動の煽動(偽装策略)」を中国緩衝地帯で秘密裏に仕掛ける(目的は国民党と民権派の攪乱) 3月に29軍の宋哲元はシナ駐屯軍の今井と面会し防共協定の準備を進めた
1936/4廣田内閣はシナ駐屯軍の増強決定 国民党外交部盧溝橋に近い豊台のシナ軍駐屯に反対 「日本陸軍も法的根拠はない」とためらったが廣田内閣は反対を押し切り強行した
左翼の抗日」とは民権派の抹殺を意味する 実際に日本の民権派を大量弾圧(選別虐殺) 
そして国民党軍の矛先を共産党から抗日戦線へと誘導し「華北の混乱と内乱」を策動した
これらの策略により「学生や労働者の左傾化」が進む 一部は過激な発狂殲滅隊に変質した
これに対し「民権派(国民党)の抗日」には左翼軍の南進と中国の共産化を阻止する狙いがあった
同年6月頃より中国共産党が仕掛ける左翼テロが各地で激化し「日本軍と国民党を戦わせようとする運動」が農民や貧乏人も巻き込み広がり始めた

1937民権派に倒された「孫文の銅像」に青天白日旗を丁重にかける日本軍


1936/12西安事件」   張学良は蔣介石を裏切り「左派軍閥と連携」
スパイ網の充実と「左翼の緊密な連動」共産革命の強い決意を示している
       ソ連    →秘密連携←     関東軍(満州国)
                                   北シナ左翼連合(華北の傀儡政府)左派軍閥
        河北省(防共戦線)シナ駐軍   北シナ派遣軍(近衛政権)
  山西省(赤化攻略) (抗日の煽動) 中国29軍(宋哲元)は自滅  左翼民↑支持
 山西軍(閻 錫山) 左翼民↑虐殺隊 ↓↑(偽装の敵対関係)    ...右派軍閥...
    西北軍(左派軍閥)瀕死の中国共産党周恩来東北軍(張学良)
       汪兆銘政府スパイ潜入(赤化工作)国民党の一部の方面軍
                 国民党中央軍(華中)
          南京政府支持民権派の住民←圧力上海派遣軍
         広西派(国民党左派)   土地を奪われ餓死100万


1937/2「国民党全国大会」 共産党の根絶と中国の自由化を決議
内乱を誘導する「左翼の謀略と発狂が各地で頻発
1937/4「国民党の決議」にコミンテルンと同胞は動揺 5月にソ連中央から情報交換の緊密化と決起の準備を促す指令が極秘に下る
近衛政権はスターリン直属の工作員と密約を交わし「関東軍の南進を誘導」
(シナ一撃論を軍中央の左翼参謀と共有)
1937/7「盧溝橋事件」この左翼の罠にはまった蔣介石は共産党討伐から抗日へと方針転換 日本の左翼メディアは「反日悪行の蔣介石(デマ)」を日本国民に煽動宣伝 この「鬼畜アメリカに通じる国民党を吊るし上げて自由民権派を抹殺すべし」というプロパガンダに洗脳された知能の低い左翼民も反米煽動に加担し近衛内閣のシナ派遣軍増強」を正当化した

マンガみたいな日中開戦    
盧溝橋事件1937/7.07 左翼の謀略戦は29軍の計画的な自滅で幕が開けた
シナ駐屯軍日本5600人 盧溝橋付近の北京市豊台は約500人 戦死16人  

中国緩衝軍4万人(北天地区の国民革命29軍) 戦死約200人 軍長は宋哲元 

wikiより....蒋介石は盧溝橋事件後の停戦協定に反発して熊斌北京に派遣した 7月22日、天津にいた宋哲元を北平に呼び、主権と領土を守るためには、日本軍の甘言にまどわされず、抗戦を決意しなければならないと説いた。宋もこの説得によってようやく中央の堅い決意を理解し、抗戦の心を決めた。しかし結局、宋率いる第29軍は一部地方で激しく抗戦したものの、敗北して北平と天津を放棄した....
※宋は敗退後の7.28に「北京西域の保定」に逃れる 副軍長は戦死
※もう一人の副軍長秦 徳純は盧溝橋事件後に軍政官僚に転じる
秦は1931反蔣介石戦争に敗退し「宋とともに張学良に降伏」していた
支那駐屯軍の大佐牟田口 廉也 1941マレー・シンガポール攻略戦を指揮
現地で牛を調達し荷物を運ばせた後に食糧としても利用する「ジンギスカン作戦」を発案
(左翼日本軍の食料も現地調達が基本でシナ民権派住民の食料事情も悪化した)

圧倒的戦力を行使しないは停戦という形(左翼の密約)で「左翼日本軍に壊滅的な打撃を加えない」よう細心の注意を払っていた また29軍の各司令官も自軍を自滅へと誘導する策略で「支那派遣軍の攻勢を援護」している

wiki 黄色の1937防共自治政は「左翼の偽装」
親ソの近衛政権は隠れ左翼の汪兆銘政府を支持 中国共産党とは秘密裏に連携

29軍 1930蔣介石との戦いで敗北 1932河北省に移動 1935/6蔣介石の国民党中央軍が北津地区から退いた後に北京市(北平)に進出した
1935/1229軍宋哲元冀察政務委員会を樹立 (緩衝政権は1936から左傾化)
は左翼日本軍との提携を計り土肥原賢二少将」を政務委員会の顧問として招いた

左翼が誇る「得意芸」民間殲滅」のDNAが早々と発現
通州事件 冀東防共自治政府の保安隊が日本人を虐殺(盧溝橋事変の3週間後)
wiki....通州事件当時、通州を守備していた日本軍第二聯隊の主力は北京南部の南苑に出動中で、通州には戦闘能力を持たない人員しかいなかった日本は冀東防共自治政府保安隊を友軍とみなしていた.....
防共だが「日本の民間人を大量虐殺」(防共のスローガンは偽装であることが明白)
防共自治政府と左翼日本軍は「共産党瀕死の打開策」として国民党(シナ人)の仕業に見せかける策略で左翼日本軍と国民党軍の戦いを誘導  当時は 「偽装がバレても仕方がない状況」だった  この大胆さが後の共産革命を成功へと導く
7.28日29軍自滅敗退後の7.29日に通州事件 現地の反国民党の機運を盛り上げた
防共自治政府の指導者は「隠れ左翼の殷 汝耕」 → 1942汪兆銘政権に参加
1902日本に官費留学(中国同盟会に加入) 1926田中義一と連携し自由主義者を牽制

卑しい民間人(民権派)を懲らしめるのじゃ 近衛政権の「シナ懲らしめ発言」
左翼日本軍の民間搾取の策略1937-1945 「軍の食料は現地調達が基本」
河北省を占領した左翼日本軍は現地農民から家畜や土地を奪い長期戦に備えていた
稀ではあるが「強制的な略奪」や強姦も一部の上層部は黙認している これらの行為により農民の餓死や自殺もあったとされるが不確かである(下の体験談) ただ現地住民の間に抗日の機運が盛り上がり「八路軍(山西省)に志願する者が増えた」のは事実である
一石二鳥の見事な策略であった 農民には策略を見抜く余裕が無かったのです
八路軍は左翼日本軍の占領統治が捗るように山西省の赤化洗脳工作を進めました
中国共産党の支配下にある住民の証言は信憑性が低い
「近くの街に駐屯していた日本軍がしょっちゅう村を荒らしに来て、家畜は全て奪われていった。牛がいなければ農民は生きていけない 日本軍と戦うことだけが唯一の生き延びる道だった」(19歳/1944年/山西)
「1942年にひどい干ばつがあり、食べるものが何もなくなった。軍に入れば少なくとも食べられるだろうと思い参加した」(17歳/1942年/山西)
「近くに拠点(トーチカ)があり、自分の村は大きな道路に面していたこともあって、日本軍がよくやってきては物を略奪し婦女を強姦していた。そういう状況を見て、抗日に参加することにした」(18歳/1938年/河北)
...日本軍が村民20人余りを廟に閉じ込めて火をつけ焼き殺したことがあるが自分の長兄はその被害者の一人だった」(19歳/1945/山西)
中国共産党の残虐行為に酷似  これは持ちつ持たれつの民間殲滅です

民権推進のアメリカ」との対立を承知の上で「窮地の中国共産党を救う戦いを決行
近衛は8月に都市空爆を指令 中シナ軍は9月と11月に数十万の大軍で上海侵攻
赤の軍上層部と中シナ軍長官は「国民党内部に潜り込んだ共産スパイ」と連携を図りながら南京の急襲を画策  左翼と共謀した近衛政権はこれを黙認し「右翼日本軍による勝手な暴走内外に印象付ける工作に成功した 12.01南京攻略を正式指令 
★11月のソ連中央は12月中の南京攻略と日本軍の増派を把握している
上級の赤い労働者の一例 1937下村定(中将) 
1944北シナ軍司令官 終戦間際まで民権派を追撃し中共を援護ぶーぶー1959参議院議員
★12.15左翼日本軍は南京城に留まっている「敗残兵らの補足殲滅」を歩兵隊に指令
数十万の大虐殺は大嘘だが「左翼による数万の殲滅一部の日本軍も加担した

16/7記事 日本軍と共謀した毛沢東
16/7記事 共産党がラッパーと組んで愛国宣伝