懸念されるのは、ズバリ「雑さ」である。
誰でも葬儀社になれる時代であり、今後の唯一の懸念である。
以前、僧侶であり、葬儀社に勤める方からいろいろお話を聞いた。
仏様(ご遺体)に対してドライアイスの当て方などなどきっちりしないといけない部分はある。ある程度の葬祭ディレクターがみれば、モグリかプロか一瞬で見分けがつくとのこと。
だからこそ、葬儀社はそれを熟知した上での所作が求めらる。
私も以前、法衣を曖昧に着ていたことがあり、お叱りをいただいたことがある。お経の拝読や所作、着衣など適当に考えてはいけないし、もし、そこを安易に考えているような葬儀社は本物にはならないし、なれない。直ちに淘汰されるはずであり、べきである。厳しい言い方かもしれないが、業界のことを思えばこそである。
高い安いは、あまり問題はない。ご遺族にとっては一回限り。どう同じ方向を向くことができるか。そこを値段という形で表すのであれば、常に研鑽あるべきだ。
値段=人件費を低く。これは当然のセオリーである。
であるならば、雑なことはしないでほしい。変えることは勇気、挑戦であり、時代をも動かせる。大手の葬儀社が、格安部門を増設する動きもある。葬儀社群雄割拠になる。また、葬儀社も多角的経営の中の一つとして葬祭部門を今以上に経営してくるだろう。やはり大手の広告費にかける予算は大きい。大手葬儀社が日本の葬儀を取り仕切る日はまだまだ続きそうだ。
僧侶側もどうなることか。不安より期待もある。
変えないこと大切さ。変えることの難しさと覚悟。中途半端が一番危ない。
5年後、10年後はどうなっているだろう。
南無阿弥陀仏