その中で、っかちーん!ときたのですが・・・
大先輩曰く
「自分が布教師の時はできなかったけど、研鑽のため、大変な時代を乗り越えるため
布教師には勉強していただき、学習発表会のようなものを開いてほしい。」
言いたいことはわかるのですが、日々の忙しさの中で忙殺されながらも、僧侶であれば
一生勉強すべき。これは当然。
引っ掛かるのは、「良い法話=よく勉強してる人の話」という定義というか観念が見え隠れする所。
法話を組み立てる際、しかも宗門の代表として信者さんの前でする話に勉強していかないバカはいないでしょう。
そういう観点からは、勉強は必須です。これはわかる!!!
だけれども、「良い法話」とは絶対勉強量に比例しない。いや、してはいけない。
良い法話とは、その法話を聞いた聴衆に仏の教え、法華宗真門流の教えを誤解なく伝えること。
悩んでおられる方に一筋の光明を示すこと、周りの方に心から感謝できるよう促すこと、信仰の第一歩を踏み出せる後押しをすること。
これらは勉強だけでどうこうなるものではないし、勉強だけでどうこうなるなら僧侶はいらないと思う。
感応道交ありて、人のため仏法を解きたいと真摯に願い初めて「良い法話」になると私は思う。
その法話を、同じ僧侶に発表会?をしてなんになるのか?
私が話すその法話を違う僧侶が一文一句間違わず話したとて、同じ法話になることなどない。
法話は生き物で、聴衆や会場の荘厳さ等でいか様にも変わる。
それに物差しの様なものを当てて、力量を量ろうと言う・・・なんと愚かな
今日は少し僧侶が嫌いになりました。
