坊主が屏風に上手な坊主の絵を描いた♪

坊主が屏風に上手な坊主の絵を描いた♪

1、坊主です。
2、仏像修復もします。
3、料理もします
4、子だくさん
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今日は法華宗真門流の兵庫を除く近畿の総会でした。
その中で、っかちーん!ときたのですが・・・

大先輩曰く
「自分が布教師の時はできなかったけど、研鑽のため、大変な時代を乗り越えるため
布教師には勉強していただき、学習発表会のようなものを開いてほしい。」

言いたいことはわかるのですが、日々の忙しさの中で忙殺されながらも、僧侶であれば
一生勉強すべき。これは当然。
引っ掛かるのは、「良い法話=よく勉強してる人の話」という定義というか観念が見え隠れする所。
 法話を組み立てる際、しかも宗門の代表として信者さんの前でする話に勉強していかないバカはいないでしょう。
そういう観点からは、勉強は必須です。これはわかる!!!

 だけれども、「良い法話」とは絶対勉強量に比例しない。いや、してはいけない。
良い法話とは、その法話を聞いた聴衆に仏の教え、法華宗真門流の教えを誤解なく伝えること。
悩んでおられる方に一筋の光明を示すこと、周りの方に心から感謝できるよう促すこと、信仰の第一歩を踏み出せる後押しをすること。
これらは勉強だけでどうこうなるものではないし、勉強だけでどうこうなるなら僧侶はいらないと思う。
感応道交ありて、人のため仏法を解きたいと真摯に願い初めて「良い法話」になると私は思う。

その法話を、同じ僧侶に発表会?をしてなんになるのか?
私が話すその法話を違う僧侶が一文一句間違わず話したとて、同じ法話になることなどない。
法話は生き物で、聴衆や会場の荘厳さ等でいか様にも変わる。

それに物差しの様なものを当てて、力量を量ろうと言う・・・なんと愚かな

今日は少し僧侶が嫌いになりました。

現在人の平均寿命は、83歳と言われ日数にすると約3万日となります。
寿命と言えばグリム童話に面白いお話があります。それは神様が動物の寿命を決められる話で、ロバに三十歳の寿命をあげようとしましたが、ロバは家畜の生活を嫌ったので、十八年短くしました。同じく犬と猿にも三十歳の寿命を定めようとしましたが、長すぎるからとそれぞれ十二歳、十歳だけ短くしてあげました。
最後に人間にも三十歳の寿命を与えようとしましたが三十歳の寿命では短いと言い、困った神様はロバ・犬・猿から取った合計四十歳を人間に与えて、人間の寿命を七十歳としてくれました。しかしこれ以後、人は三十年の人間の生涯を楽しんだ後、十八年は荷物に苦しむロバの人生を送り、続く十二年は噛みつくには歯も抜けてしまった老犬の生活、後の十年は子供じみた猿の年を送ることになりました。というお話です。
日蓮聖人のお手紙にも『妙法尼御前御返事』の一部に。
〈人の命は無常であるから、賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、すべていつ死を迎えるか定めのないことである。そこでまず臨終のことをよくわきまえて、その後で他の事を考えるべきである〉とあります。
 日蓮聖人は命の尽きるとき「臨命終時」略して臨終ですが、これにこだわられました。
なぜなら、浄土宗の教えはほぼ、往生極楽のためのもので臨終行儀・勧念・来迎(死に際して念仏を唱える・念仏を勧める・阿弥陀仏が現れて浄土に迎え入れること)を説き、臨終の様相が往生を保証するとされていたからです。しかし日蓮聖人は浄土系教徒の臨終の悪相や狂乱を数多く知って疑惑を抱き追求したのです。そして善い臨終は死期に臨んで心乱れて邪念を起すことなく、平常心を持ち仏道成就を正しく念じつつ死を迎えることで【法華経信仰こそが臨終正念と死後の救済を約束するものであること】と顕わされました。
しかし、現在は人の寿命が延び、様々な病気も増えてきました。例えば認知症や遷延性意識障害などが挙げられます。そしてその病気は法華経信者であっても罹患してしまうものです。では、認知症や遷延性意識障害の方々に臨終正念は有り得るのでしょうか?
これを解くためには、仏教の見解の一つ唯識(ゆいしき)があります。これは個人の周りで起こる現象は識のみで成り立つ考えです。簡単にすると眼、耳、鼻、舌、身体、意の六識の情報が末那識(まなしき)という潜在意識を通り、阿頼耶識(あらやしき)という根本識に記憶され、その記憶が輪廻するということです。
まず、老化にともなって六識までの機能が低下しても阿頼耶識での記憶機能には変化を及ぼしません。よって老化にともなう認知症などの現象は、臨終に直接つながるものではないということになります。
 高齢者に見られる認知症は、脳細胞が変性もしくは破壊され、理解力や記憶力が低下するものです。つまり、見たり聞いたり味わうといった五感の入力機構、情報処理機構の変化によって起こってくる物質的現象でしかなく、末那識、阿頼耶識といった部分への影響は少ないと考えられます。
 たとえ植物状態になってお題目が唱えられなくなったとしても、認知症になって家族を忘れたとしても、そうなる前にしっかりとお題目で心を磨いておけば、霊山往詣の妨げではありません。よって今一度、元気で生かされてる時間の有難さに感謝し、大切にその時間をすごしていただきそして、今の自分の心を見つめなおし、日々の法華経の御修行に励まれることをお勧めいたします。
ひさびさで、いきなりですが
汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰んや。(立正安国論)
というお言葉があります。
私も含めこの世に生きてる人には
「三毒」という毒が存在します。
それは貧・瞋・癡(とん・じん・ち)という三つの煩悩のことを指します。
もう少し詳しく書くとですね~

貧(とん)とは好きのものがあれば欲しがるという欲が深いという毒。
瞋(じん)とは気に入らないことがあれば腹をたてるという毒。
癡(ち)とは自分の思い通りにならないことに愚痴を言うという毒。


つまり、限りない様々な欲望を持ち、怒りの心に支配されて、正しさが解らない心のことなんです。

 この「三毒」は私達の心に常に潜み、隙あらば心を乗っ取ってとやろうと絶えず企んでいます。
例えば必要のないものまで欲しくなったり、見栄を張ったり、他人を妬んだりと乗っ取られる機会はよくあります。
例えばですね
「自分探し」わずか半世紀程度の自分をやさがししても、何もいいものは出てきません残念ながら・・・出てくるのは三毒だけです。

 「三毒」を心から追い出すのは困難のように思えますが、此処で最初の言葉の出番なのです。「法華経は釈尊の真実の心が説かれた良いお経であるととかれ、その良いお経と共にいれば、筒の中の蛇が真っ直ぐになる様に、自然と自分の心も正しく真っ直ぐに、良い心に成っていくものである」と仰っています。
 素直な心で法華経を信仰し、一心に御題目を唱えることで「三毒」が住み難い心へと変えていくことが、心を改めることにつながる。

今年の大掃除は、お家のお掃除のまえに心のお掃除はいかがでしょうか。

彼岸も終わったので、家族みんなで映画を見てきました。

「アナと雪の女王」

子どもたちには雪だるまの「オラフ」がお気に入りだそうで大笑いしてました。

嫁は…なんだろもう臨月だからかボロボロボロボロボロボロ泣いてました。

3番目は拍手しながらオウオウ言ってました。

私は・・・すこ~し心の中で矛盾に突っ込みながら音楽と画像の良さに感心してました。


思わず帰りにサントラ買うぐらいお気に入りの音楽でした。

是非是非DVD化したら吹き替えではなく字幕で見たいです。


いままでのディズニーとはちょっと切り口が違い面白かったです。

まだの方は是非是非・・・


でも家族全員で5500円は高いよ^^;

今日は彼岸ですから、仏教的なお話をしましょう。

たまに

不妊治療の苦しさをわかってもらえない。

婚活って苦しいだけ・・

といった書き込みを掲示板等でお見かけします。

 中には、子供に恵まれないのに、子供の写真を用いた年賀状を届けるなんて無礼にも程があるとか

友達に高望みしてないのに妥協すべきと忠告されたとか、ねたみ僻みに近いものも見受けます。


 これらはなぜ生じるのか?なぜ苦しいのか?


答えはそれが「求不得苦(ぐふとくく)求めるものが得られない苦しみ」だからなのです。

この求不得苦(ぐふとくく)は四苦八苦の中に説かれる苦しみの一つで、欲しいものがあれば、それを手に入れることに躍起(やっき)になり、無理を通し、他を押しのけ、自分の思うようにならなければ、腹を立て、ねたみ、心が静まることがない苦しみの事で、愛すべきものと別れる苦しみ、憎らしい相手と会う苦しみ、自分の精神と身体を思い通りコントロールできない苦しみと共にある生きていく上で経験する苦しみの一つなのです。


私は幸せになりたいだけなのに、なぜ?と思う方が大半でしょう。


それは、あなたの思い描いているその「幸せ」が不自然だから苦しむのです。

世の中は、因縁(原因があるから結果がある)が理です。


ではどうすればいいか?

苦しみから逃れる方法は残念ながらありません。ただしその期間や度合は軽減することができます。それはみずからの行いを顧みて、人の為になる何かをし始めることです。

自分磨きだけに注力するのは愚の骨頂です。


その苦しみこじらせてませんか?