以前、ぼくの尊敬する方が自裁された。世界に一つしかない自分の命を絶つなんて、とんでもないことだ、などと責める気にはなれない。人それぞれに事情があり、それこそ人生いろいろあるのだから自裁くらいするだろう。

 

ぼくでも自殺くらい、何度か考えたことがある。臆病だからか、生に未練があるからか、その両方か。いずれにせよ、まだ生きているのは、ぼくの独力によるものではなく、ひとえに周囲の人たちの支えがあるからだ。両親や妻がいなければ、ぼくはこの世に留まる意味の、その大半を失うだろう。

 

そんなことを考えているうちに、ふと次の言葉が脳裏に浮かんだ。それは「お前が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった明日」というものだ。もともとは韓国の「カシコギ」という作品の台詞らしい。作中では「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった人が、あれほど生きたいと願った明日」と語られているそうだ。

この台詞の意味はおそらく、真面目に生きろということだろう。そういう意味ならばとても含蓄のある言葉だが、当たり前の話だ。が、それを実際に生活において徹底することは不可能なほどに難しい。だから、夏目漱石ではないが、年に一度か二度は真剣に生きるのが精々だろう。それでも、それさえ難しい。

 

それにしても天の邪鬼なぼくから見れば、この台詞の言い回しはなんともお粗末に感じられてならない。まず、人と人とはまったく別の人生を歩んでいる。入れ替えもできなければ比較することさえ困難だ。比較できないものを強引に比べること自体が無意味だ。そもそも、昨日死んだ者がそれまでの人生において、一日たりとて無為に過ごさなかったとは言えまい。それを棚に上げて、死が迫りくるなかで他人の明日を羨んだところで、それこそ時間の無駄だろう。

 

同様に「生きたくても、生きられない人がいる」という言葉も無意味だ。言われたところで、それはそうだろう、だからなんだ。という答えしか帰ってこないだろう。要するに生きろと言いたいのだろうが、この論理が通用するなら、「死にたくても、死ねない人がいる」だから死ぬべきだということになる。屁理屈だと言われそうだが、これが屁理屈なら、もう一方も屁理屈である。

ぼくたちはいつ死ぬのかを知らない。確実な命日がわかっていれば、今日という日の重みも測れるだろう。もし百年生きられるのなら、人生は36,500日だ。五十年で寿命が尽きるなら18,250日しかない。自ずから一日の重みは、百年と五十年では二倍も違ってくるだろう。が、人生は単純に数字で測れるものではない。

 

なにより、今日を無駄で空しく過ごしたことが、将来の糧にならないとも限らない。無駄に過ごした過去という自覚があるならば、現在を活かそうという動機に繋がる。時間や金や言動から、一切の無駄を排除して、完全なる人生の効率化を図るのであれば、それは人間ではなく機械だろう。

 

もし仮に、自分の無駄な一日を誰か他の有益に使える人に譲渡できたとしたら、どうなるだろうか。おそらく一日では済まなくなるだろう。寿命そのものを「有益に使える人」に渡さなければならなくなるような圧力が、社会に蔓延するかもしれない。そういった社会は死ですら平等ではなくなるような、超格差社会になるだろう。

 

詰まるところ、一日の無意義か有意義かの判断は、各々の主観に委ねられ、さらに長い人生において巨視的な視点から観なければわからない問題であり、誰かが他人の一日だけを切り取って、無駄に過ごしただのと安易に口を挟んでいいものではない、という当たり前な答えに帰着する。