2024年5月22日 水曜日。

 

 この小説を読みました。

 

 

 遠藤周作さんの代表作「沈黙」

 読むのはこれで三度目になります。

 初めて読んだのは1994年。

 ちょうど三十年前になります。

 まだ洗礼を受ける前でした。

 キリスト教のことも良く知りませんでした。

 

 再読したのはマーティン・スコセッシ監督により映画化された2017年でした。

 この時猫町倶楽部で読書会があったようですが、私は参加していません。

 

 その時の書評はこちら。

 

「20数年ぶりに読んだ。もちろん映画になったから。映画は本当に原作に忠実に作られているのがよくわかる。遠藤周作さんのカトリックへの信仰がよく表れている作品。イエス様は殉教できない、転ばざるを得ない弱い人のためにこそ死んでくださったはずなのだから、発表当時は否定的にとらえられていたロドリゴの「棄教」は「棄教」ではなく、むしろ信仰を貫いたとみるべき。前読んだときはフェレイラ神父とキチジローは棄教したと思っていたが、実は信仰を貫いていたらしいことが分かったのもうれしかった。 」

 

 この感想は今も変わっていません。

 

 そして今回の感想です。

 

「読むのはこれで三度目。ある読書会に初めて参加するために読んだ。信徒が責め苦にあったり、ロドリゴ司祭に棄教を迫るシーンはやはり心が痛んだ。ロドリゴに棄教を迫る井上の発言にはうなずくところもあるものの、「違うだろ、200年の長い間信仰を守り通した潜伏キリシタンはどうなんだよ?」と言ってやりたくなった。日本のキリシタン弾圧はキリスト教史上最悪だったと言われている。遠藤さんはこの小説を通してその事を静かに告発したかったのかもしれない。 」 

 

 前回と少し視点が変わっています。

 猫町倶楽部でキリスト教、そして遠藤さんへの無理解に直面した経験ゆえです。

 「沈黙」発表当時日本を始め海外のカトリック教会の中でも反発の声があった事は聞いています。

 ですが、当時のクリスチャンでない日本人の中に遠藤さんに反感を抱くカトリック教会の信徒、そして遠藤さんに対して「いい気味だ」と言う感情を抱いていた人が多くいたのではないか、と言う疑問が頭をよぎる事があります。

 当時の事を伝える文芸評論家の書いている解説などを読むとそう感じる事があるのです。

 日本人の精神の中にはキリスト教が禁止されていた鎖国時代の精神がまだ残っていて、キリスト教に対する無理解から来る反感があったのだろうか、と感じる事があります。

 

 かつて参加していた読書会「猫町倶楽部」で遠藤さんの小説を「沈黙」以外にも「深い河」の読書会を行い、キリスト教徒と密接に関連する小説家であるドストエフスキーを課題本として取り上げたりしていたのですが、理解できた人はあまりいなかったように感じています。

 私が猫町倶楽部と決別したのはこれが理由の一つでした。

 あの忌まわしい「教養として読む聖書」読書会があのようになったのも仕方なかったのでしょうね。

 

 生前の遠藤さんを知っている人の話を聞く機会が最近増えています。

 前の所属教会でお世話になっていた方が遠藤さんの小説の原稿を取りに行っていたと聞きました。

 遠藤さんは本当に優しいお人柄だったそうです。

 それは同時に遠藤さんの小説に出てくる「弱虫」例えば鶏が泣く前に三度イエスを知らないと言ったペトロの弱さをも併せ持っていたと思います。

 だから遠藤さんは「沈黙」のような小説が書けた。

 でも遠藤さんはペトロのような「弱虫」が信じたイエス様を最後まで信じていた。

 

 その事を多くの人に理解してほしいと願っています。