2024年1月18日 木曜日
 
 夜8時から一時間ほど、マリアニスト修道会のカトリック入門講座を受講。
 今回は小田神父様のテキストでは「第Ⅲ部教会の歴史」の「第1章 古代から中世の教会」に入っています。
 現在のカトリック教会の聖職者 司教、司祭、助祭は教会発足当初はそれぞれ監督、長老、執事と呼ばれていた事、そして聖書、特に新約聖書はどのようにして成立したか、が講義内容でした。
 講義の中で神父様は「聖伝」について教会憲章(あるいはカテキズム)を引用して説明されました。
 以前から「聖伝」について気になる事があったので、講義終了後の質疑応答時間に質問しました。
 この講義では初めての質問となりました。
 「聖伝」にはこの本に書かれている司教たちの説教も入るのでしょうか、と尋ねました。
 
 
 もちろん入ります、ただしそれだけではなく、「聖伝」はもっと広い意味があります、との事であらためて「聖伝」の意味を説明されました。
 
 「聖伝」にはとても深い意味があったのですね。
 キリスト教の共同体の中で育まれた教え、伝承が「聖伝」との事。
 文章に表されたものだけではなく、もっと広いものとの事です。
 カテキズムも「聖伝」になるのでしょうか。
 司教たちが話し合って決めた事も聖伝だそうです。
 と言う事は公会議の決定事項も聖伝なのでしょうね。
 東方教会では聖書は聖伝の中に含まれる、と考えているそうです。
 小田神父様は東方教会の考え方はカトリック教会と同じことを言っている、と言われていました。
 
 参考までに女子パウロ会のサイトに掲載されているカテキズムにおける聖書と聖伝の関係についての記事を貼っておきます。
 
 
 としますと、プロテスタント教会の「聖書のみ」と言うのは納得しかねます。
 プロテスタント教会は宗教改革を唱えたマルティン・ルターがそれまでのカトリック教会の教義「聖書と聖伝」を否定して「聖書のみ」を唱え、「聖伝」の価値を否定しました。
 しかしこれによって困ったことが起こったのではないでしょうか。
 私の質問の後、もう一人の方がこのように発言されました。
 「町田教会にも何人かプロテスタントから転会された方がいます。その方に「聖伝」について質問した事があります。新約聖書が書かれるまでは文字に書かれない口伝、つまり伝承により教義を伝えていたはずです。これは「聖伝」と同じではないでしょうか。プロテスタントからの転会者にその事を聞いてみると彼らは答えられませんでした。」
 そうでしょうね。
 私もプロテスタントの「聖書のみ」は無理があり過ぎると感じています。
 キリスト教の考えでは私たち人間は過ちを犯してしまう弱い存在です。
 そんな弱い存在にすぎない私たち人間がいくら神様からの働きかけがあったとしても、イエス様のみ言葉、あるいは使徒たちのはたらきについての全てを文字にして「聖書」にまとめる事が出来るわけはない。

 聖書に記されず、伝承として残された後世に伝えるべき大事な教えも沢山あるだろうと思います。

 イエス様、あるいは使徒たちの教えのすべてが「聖書」に書かれている、と言う考えこそ人間の思い上がりではないか、と感じるのです。
 
 ここでキリスト教を離れて同じ神様を信じる他の宗教のことについても触れたいと思います。
 イスラム教はムハンマドが神様のみ言葉として伝えた「クルアーン」だけではなくてムハンマドの言葉を書き残した「ハディース」もクルアーンの次に重視しています。
 ユダヤ教も旧約聖書の「トーラー」(律法)のみでなく、「トーラー」を解釈した「タルムード」なども同じくらいに重視しています。
 キリスト教の「聖書と聖伝」の関係も同じようなものではないか、と思います。
 
 今回の講義であらためてカトリック教会の信仰がとても豊かなものであることが分かりました。
 小田神父様に感謝します。
 
 皆様に神様の恵みがありますように。