前回の続きです。

 
 5.「教養として読む聖書」の課題本に「聖書」が選ばれた理由が不明。
 
 長編読書会の一環として行われた「教養として読む聖書」読書会。
 ではどうして長編読書会の課題本に猫町倶楽部主催者のタツヤさんこと山本多津也さんが「聖書」を選んだのか。
 …それは不明である。
 
 
 …いや、信じられないのですが、これは本当です。
 タツヤさんは読書会のサポを集めての準備会合でも「聖書」を選んだ理由を明らかにしませんでした。
 タツヤさんは一度だけ私と一対一でZoomで会いました。
 その時は一応猫町倶楽部でクラシック音楽を読書会の題材として取り上げるのでいわばその前振りとして「教養として読む聖書」読書会を考えました、とは言いました。
 しかし、どうもこじつけのように感じました。
 このために私はタツヤさんに対して不信感を抱き、不信感を込めたメールを送り、タツヤさんと決裂に至ります。
 他の猫町倶楽部のある参加者からはタツヤさんは文学や音楽に見られるクリスチャンの情熱はどこにあるか探りたかったので「教養として読む聖書」読書会を開いた、と言ってた、と聞きました。
 しかしこれも怪しいです。
 だってそれなら教会に行って自分がクリスチャンになってしまえば良いだけです。
 どうして教会に行く代わりに100人以上も巻き込んで自分でも良く分からない聖書を読ませなくてはいけなかったのか。
 
 色々考えましたが、恐らくタツヤさんが「教養として読む聖書」読書会の課題本として「聖書」を選んだのは、
「長編読書会が中断して猫町倶楽部が長編読書会ロスに陥るのを恐れて興味本位もあり、猫町倶楽部で有名な参加者が推していた聖書を選んだ」だけではないかと思います。
 「教養として読む聖書」読書会の開催発表前後の猫町ラウンジ内の「長編読書会」への熱気はすさまじいものがありました。
 もし「長編読書会」がなくなったら、猫町倶楽部は「長編読書会ロス」状態の空虚な空気が漂い、困ったことになるのではないか、と考えていた人は多かったはずです。
 そして「長編読書会ロス」による猫町倶楽部の沈滞はタツヤさんが当時一番懸念していた事ではないか、と思います。
 だから焦って強力な推しがあり、参加者の興味が集まった「聖書」を課題本に選んだのでしょう。
 
 トホホな話ですが、これが真相だと思っています。
 でなければタツヤさんが「教養として読む聖書」読書会終了後も沈黙を保ち続けた理由の説明がつかないのです。
 
 6.猫町倶楽部 オンライン「長編読書会」なるものの正体。
 さて、ここまで「教養として読む聖書」読書会を考察してきましたが、いよいよ「教養として読む聖書」読書会を含むコロナ禍の中で行われた猫町倶楽部のオンライン「長編読書会」の正体について書こうと思います。
 これについて私は一つの結論を出しています。
 それは「コロナ禍の閉塞感を打ち破りたいとの参加者の願望がもたらしたユーフォリア(多幸感)がもたらした読書会と言う名のイベント」ではなかったか。
 あるいは「Zoomと言う仮想空間がもたらした全能感に酔った読書会と言う名のイベント」ではなかったか。
 
 これはなんとなくお分かりいただけるかと思います。
 コロナ禍であっという間にZoomによるオンライン会議が広がり、オンライン会議で何でもできる、あるいはオンライン飲み会などのオンラインイベントへの過剰とも言える期待感はとても高まりました。
 猫町倶楽部でも同様です。
 猫町倶楽部のオンライン読書会が始まってみると参加者の皆さんの満足度は高く、期待も高まりました。
 ただ、オンライン読書会は猫町倶楽部に負の面ももたらしました。
 猫町倶楽部のオフライン時代の読書会は交通機関を利用して時間をかけて会場に行っていました。
 これが一種のハードルとして猫町倶楽部の読書会がカオス状態に陥るのををぎりぎり阻止していたのもまた事実だと思います。
 猫町倶楽部には以前からタツヤさんが認めていたように「ネタを求めて」読書会に来る参加者がいました。
 オフライン時代の読書会ではそのような参加者が跋扈するのがある程度防げていたと思います。
 しかし、オンライン読書会斯様な参加者に対するハードルがほとんどなくなり、その結果猫町倶楽部がカオス状態に陥ったのも確かです。
 そしてそのカオス状態がユーフォリア、あるいは全能感に拍車を掛けたのも確かなことです。
 そのユーフォリア、全能感が高揚したがゆえにお粗末な実態の長編読書会が盛り上がることになった。
 その「長編読書会」のさらなる成功体験を求めて「教養として読む聖書」読書会が開催された。
 しかし、「教養として読む聖書」読書会はあまりにもお粗末で無謀だった。
 ユダヤ教・キリスト教の聖典であり、信徒にも難しい聖書を舐めてかかっていた多数の無知で無理解な参加者。
 そんな彼らが良い講師も求めずに結果として「盲人が盲人を導く」読書会となった。
 それゆえに離脱者多数、聞くに堪えない感想が満ち満ちたひどい有様の読書会となり、その結果「教養として読む聖書」読書会は猫町倶楽部の黒歴史となった…。
 
 そう言う事なのだと思います。
 
 以上、長くなりましたが、ひとまずは「猫町俱楽部の黒歴史 長編読書会「教養として読む聖書」読書会を改めて考察する 」を締めさせていただきます。
 お粗末さまでした。
 拙い文章ですが、私の体験した「教養として読む聖書」読書会がいかにひどいものであったか、そしてどうして私がこのブログで「教養として読む聖書」読書会の書くに堪えない日記を書き綴り、削除に至ったかご理解いただければ幸いに存じます。
 
 なお、文中に引用しましたルカ福音書6章39節は
 「 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」
 に続き40節では
 「 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」となっています。
 
 「教養として読む聖書」読書会終了後私は自らの信仰の未熟さを思い知り、山本芳久先生のNHK文化センターのオンライン講座を受講し、そして所属教会の前の助任司祭様によるオンライン講座「キリスト教入門講座」 を受講しています。
 これはルカ福音書6章40節の実践と言えると思います。
 
 改めて猫町俱楽部主催者のタツヤさんこと山本多津也さん、そして「教養として読む聖書」読書会に参加された皆様にお伝えします。
 聖書とは信じる者にとってはこのように大変深い意味を持つのです。
 聖書は聖書に書かれた「み言葉」を実践してこそ意味があるのです。
 それが橋爪大三郎さんの言う「聖書は信仰の書として読まれるべきである」と言う事です。
 
 お分かりいただけましたでしょうか。
 
 皆様に神様の恵みがありますように。