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2016-08-24 01:15:22

ジュリアードで昼食を 9‐6.

テーマ:彼と彼これ40年
  「  彼と彼これ40年 ジュリアードで昼食を 9‐5. 」 から続く



   画像で辿る、  “  Juilliard Now & Then ”  



ジュリアードの  “  いまむかし  ”  は、ランと私の  “  いまむかし  ”  、そして又、愛するNYの  “  いまむかし  ”  であることに感動しつつ  ・・・ 。






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【  画面左から右へ、建物の前に芝生の庭を擁している横広の白いビルが、 “  今  ”  の  “  The Juilliard School  “ =
「  ジュリアート芸術院大学  」  。

この画像をよく見ると、ジュリアード・ビルの左下、四角い窓の列の下に、  小さく、  “  The Juilliard School  ”  のレリーフが写っている。


ジュリアードの元の正式校名は、 “ The Juilliard School of Music “  だったのだが、‘64年、リンカーン・センターの完成、即ちこの新校舎の落成を機に、現在の校名、 “  The Juilliard School  “  と改められたものと推察する。


これの日本語訳は、  「  ジュリアード音楽院大学  」  とされている場合もあるが、‘64年の新体制発足の時に   “  ダンス科  ”  と  “  演劇科  ” が加えられたことを考慮すれば、  「  ジュリアード芸術院大学  」  の方が正しい。

  
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Lincoln Centerの建てられた地域は、元はスラム街だった。

もし往時のスラム街しか見たことのない人がこの付近にやって来たとしたら、現在の豪勢な街並みにはさぞびっくりするだろう。   】







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【  “  昔  ”  、‘64年、Lincoln Center 完成時の撮影と思われる  “  Juilliard Building  ”  。  

この映像は、’71年入学して間もない頃に、  “  Juilliard  Bookstore  ”    (  ジュリアード・ブックストア購買部  )  で買って母に送った絵葉書の写真。

ジュリアード購買部は、何時頃からか  “  Juilliard  Bookstore  ”  を其の侭店名にして一般公開されるようになり、現在もNY旅行者対象のショッピング・スポットとして人気がある。

この写真に残る清々しい  「  空  」  は消えて、前の画像に見られるように、今のジュリアードを囲むのは、何時までも留まることなく建設され続けて行くデラックス・ビルの林になってしまったけれど ・・・ 。  】







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【  西55丁目に面したジュリアード正面玄関の大階段。   右下、謎めいた箱型の窪みは守衛の待機する受付。  休校日だったのか、この写真では空になっているが。  】    
 




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【  同じ位置にあった、  “  昔  ”  の大階段。

手元に写真が無いので、  
‘13年1月公開、  「  ジュリアードで昼食を 3.  」  
に使った私のイラストで間に合わせたが、
かなり正確な記憶に基づいて描けた筈。


✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩
  

真っ黒に光る総大理石張りの素晴らしいこの大階段を使って、私は、創作バレエ  「  空間  」  を自作自演した。


段の下には、階段と同じ材質の黒大理石で作られた
2メートル強位の高さのオブジェがあり、
私は階段上の中央に立って、 
そのオブジェと対峙するような気魄を込めて
  “  Opening Pose  ”  を取った。 


こうしてあの時を振り返るのは、
また同じ瞬間を  「  生きる  」  こと。 


自作自演の体感を味わうことは物理的に不可能だが、
全身全霊をかけて踊り切った充実感は、
私の魂の奥底に生き生きとよみがえる。  】







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【  上の2画像をオーバーラップして、  “  ジュリアード大階段いまむかし  ”  を合体した空想コラージュ。

  黒大理石の階段も、オブジェも無くなってしまった  
“  いま  ”  もなお  、
 バレエ、  「  空間  」  は、  
足の裏に踏んだなめらかな石の床の感触と共に、
私の思い出の中に息づいている。

そして “  いま  ”  の私が教える、
バレエ・クラスという  「  空間  」  の中にも、
この創作バレエ  「  空間  」  のスピリット
  (  =  精神  )  は躍動し続けているのだ。  】








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【   現在の  “  Juilliard Library  ”


「  図書館の書架の谷間のせせらぎで君と落ちあい拾いし言の葉  」  (  ある新聞に見た投稿句  )  

初々しい恋のしっくりと馴染む  「  図書館  」  は、何時の時代にも、世界中どこに行ってもあまり雰囲気の変わらない所。  】







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【  これも、‘71年、ジュリアード・ビルディングの絵葉書と一所に母に送ったもの。

開校前の撮影だろうか、全く人影が見えず、
「  静謐  」 に包まれたジュリアード図書館。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

ジュリアードは、
パフォーミング・アートの大学では軽視されがちな
Academics  (  アカデミックス  =  学課  )
も重んじていた。

その意気込みは、‘64年に完成した、当時には世界にも例を見ない、
超一流の大学図書館にも表れている。
  
2階吹き抜けのゆったりしたスペースには
座り心地満点のソファが幾つも用意してあり、
学生達は実技訓練の疲労を癒しながら、
知能を磨くことにもベストを尽くしていた。  】








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【  図書館の内装というものは
えてして無味乾燥になり易いものだが、
この図書館に華やかなイメージを与えているのは、
踊り場で折れ曲がって上がって行く、 
 「  動き  」  のあるデザインの階段。


西欧の建築様式に良く見られる、
屋内に造るらせん階段の機能を活かした
設計と考えられる。  

この魅力的な階段を上がった中二階には
試聴室の付いた
レコード閲覧室が完備していた。

無論CDならぬ、33回転のLPレコード全盛の時代。

フロア狭しと立ち並ぶ棚を
びっしりと埋め尽くすLPコレクションは、
銀座の山野楽器店など
一流レコード店の規模をはるかに凌ぐ、
チョー豪華版のものだった。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

ダンス科には、
「  ダンス評論術  」  、  
「  ダンス史 」  、  
「  ダンサーの為の解剖学  」  、  
「  ダンス筆記術  」  、  
「  リハビリ術  」  など、
ダンスと直接関係のある科目に加えて、  
“  L&M  ”  
(  “  Literature 
& Material  ”  の略  )  
という、アメリカ人にも意味の分かりにくい科目名の、
音楽理論の学課があった。

4年間この  “  L & M  ”  の講義を受けて、
私は、「  音楽  」  の世界が
いかに層の厚いものかを学んだ。

教授に指定された作曲家の曲を何曲も聴いて
論文をまとめる課題は楽しかったが、
シビアな実技訓練の傍ら
これをこなすのは又キツい作業だった。

時々、セカンド・ランゲージの英語に
足を取られて難航すると、
いつもランの助け舟で切り抜けたもの。

ちょうど上の空想コラージュのように ・・・。   】




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多民族国家のアメリカでは、「  人種差別  」  の問題は外から見ただけでは想像もつかないほど根深い。

黒人、ヒスパニック、アジア系  (  私達日本人は無論ここに入る。  )  、その他、  「  マイノリティー  」  に属する人達の抱えるデメリットは大きく、何をするのにも、いわゆる  「  白人  」  とは比べものにならない高さのハードルを跳び越えなければ進むことが出来ない社会。

それは余りにも重大な問題なので他の機会に譲るとして、私のジュリアードでの学生生活中にも、少なからずその苦汁を嘗めさせられた経験もかなりあったことは否めない。

しかしその反面、私が外国人/日本人であった為のメリットも忘れてはならない。

実技面では、クラスでもパフォーマンスでも、  “  同情票  ”によって引き立てて貰うことが多かった。

それは学課についても言えることで、アメリカ人学生でさえ難しいとこぼすような高度の内容に付いて行くのに、私が第二国語の英語で四苦八苦しているのを知って、教授達はいつもAプラスを出して呉れていた。


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上記の  「  Aプラス  」  について、
米国では成績評価の段階を以下のように分ける。
 
A  :  Excellent  (  エクセレント    ) = 優  
B  :  Good  (  グッド  )  =  良
C  :  Fair,Passing,Satisfactory, Average  (  フェア、パッシング、サティスファクトリー、アベリッジ  =  まあまあ平均並みの及第値という所か ・・・  )  =  可
D  :  Below Average  (  ビロウ・アベリッジ    
= 平均より低い  )  =  可
 
F  :  Failing, Failure  (  フェイリング、フェイリュアー  =  失敗、失格、落第  ) = 不可
 
但し、評価の基準は州により大きく異なり、またこの他に、  “  E  :  Conditionally  Passed  (  コンディショナリー・パスド  )      =  条件付き合格  ”  を設ける大学もかなり多い。 

 
上のリストで、  “  E  ”  を飛ばして、  “  D  ”  の次が  “  F  ”  となっているのはその為。  

    
また、  “  プラス  ”  や、  “  マイナス  ” を付け足して、各等級の中を更に細かくランク付けすることも多い。

私の  “  A  ”  に付けて貰った  “  プラス  ”  は、多分  “  おまけ  ”  だったのだろう。    


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私の 「  Aプラス  」  は 、英語力のハンデを100パーセントの出席率でカバーしようと、全科目、何が何でも講義だけは欠席しないように歯を食いしばっていた私の  “  ガンバリ  ”  に報いる  「  敢闘賞  」 のようなもので、一面、他の学生達に対する  “  示し  ”  の意味も含んでいたのではなかろうか。


また、論文提出の形式は書面とは限らず、教室でのスピーチという形を取ることもあったが、舞台度胸のある私にはこれはむしろ歓迎するものだった。 


私にとっては母国語ならぬ英語で、表情たっぷりに一生懸命意思を伝えようと努める、熱のこもったスピーチは、アクセント交じりのたどたどしさがあるだけに一層、教授達は私を贔屓(ひいき)して応援して呉れるのだった。


いずれにしても、私がジュリアードを4年連続  「  Aプラス・スチューデント  」  として卒業することが出来たのは、 そういった同情心ある教授達のサポートによる他なかったのである。


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三日前、NY時間の8月24日  (  日本では8月25日  )  、私達は41回目の結婚記念日を迎えた。


(  ’11年8月26日から同年10月11日にかけて、8回にわたって公開した、  「  くちなし薫る雨  」  に詳しい。  )


ジュリアード入学から卒業までにかかったのと丁度同じ4年間をかけて書いて来た「  ジュリアードで昼食を  」 の完結稿が、結婚記念日の数日後にぶつかったとは不思議。


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8月24日の朝、毎年必ずランが用意して呉れる、  “  Anniversary Bouquet  (    アニバーサリー・ブーケ  = 結婚記念祝いの花束  ”  が届いた。


ずっしりと重い、4本の   “  Orchid  =  オーキッド  :  日本名   「  蘭  」  ”  。  


直径8~10センチもの大輪の蘭の花が、厚みのある花びらを一杯に広げて、長さ80センチ前後、太さ2センチ前後もあるガッチリした茎の一本一本に、夫々、15~20輪も、鈴なりに咲いている。

4本の蘭は全部色違いで、黄、薄緑、臙脂と紫の中間のような色、そして純白と、10年、また10年と節を刻みながら、40年余のここまでやって来た私達の結婚の歩みを象徴するかのよう。

この大振りの蘭はどちらかといえば男性的で、  「  豪放  」  の二字の似合う花。

薫りの無いのはイマイチかもネ ・・・ ?

いつか、私の姉がランのフルネーム  “  Ronald  (  ラノルド  )  に付けてくれた漢字名が  「  蘭能留土  」  だったので、    「  蘭  」  は  “  Ron  ”  という楽しい偶然  !!

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私達にとって  「  結婚  」  に繋がる出会いの場となった、ジュリアードを舞台とした回想記は、じっくり書きたいとは思っていたが、
‘12年9月27日に第1回を公開してから、今回を最後に、ほぼ4年がかり  (  多忙の為、間が空いた時期もあったので  )  、更新回数15回にもわたる長さのブログになってしまうとは予想もしなかった。

古い出来事やその時の感想を、考古学者さながら丹念に掘り起こすような作業も終わりを迎えて、その過ぎ去った40余年の間に物事は大きく変化して来たようでありながら、反面、全然変わらない部分も意外なほど多いという事実を、新鮮な驚きをもって見つめ直している。

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周囲の変化だけではなく、私の内面が大きく変化して来ていることにも驚いた。

例えば、前号に載せた、  「  音楽新聞  」  の掲載記事。

私から村松道弥氏に宛てた手紙を読み返してみると、  “  いま  ”  の私の考え方はあの当時とはまるで別人のように変わっていることが判る。

NYのバレエ界で、40年以上もプロの道を歩いて来た私が、  “  いま  ”  あの時の村松氏に当たる人に手紙を書くとしたら、あのような内容にはならないだろう。

あの手紙を書いた私は、  「  アメリカの世間知らず  」  で、ひどく独りよがりな意見に凝り固まっていた。

その信念が純粋であっただけに、今読み返してみると涙ぐましいやら、赤面するやら、若かりし我と我が身に同情しながら、穴でもあったら逃げ込みたい気分。

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逆の例もある。

それは、先にも画像を上げて触れた、創作バレエ  「  空間  」  。

もし、あの黒大理石の大階段が元のままに造り直されてあの作品をリバイバルすることになったとしたら、私は、  「  空間  」  を、あの時と寸分違わずに復刻振り付けするに違いないと思う。

一か所も変える必要はなく、また、変えてもならない。

  「  ジュリアードで昼食を 3.  」  に詳しく記述した創作バレエ  「  空間  」   は、一年余前に即興で踊った一連のバレエの動きをそっくりそのまま一作品に定めて、題名を付けて一般公開したものだった。  

実は、この公演の企画が持ち上がって、一年以上も前に踊った動きを思い出して見るよう求められた時、私は即座に、6~7分の即興で作った動きを一か所も漏らさずよどみなく踊って見せた。

その時の私のMuscle Memory  (  マッスル・メモリー  =  筋肉による記憶力  ) には、即興バレエのクラスを担当していた、Doris Rudko ( ドリス・ラドゥコ  :  2008年に90才で逝去  )  教授やクラス・メイト達もびっくり仰天。

それに付けても言えるのは、自慢の意味ではなく、この  「  マッスル・メモリー  」  は、パフォーミング・アーチストには不可欠の能力だということだ。

特に、楽譜を使わずに、記憶した動きを一瞬一瞬身体の動きで表現し続けて行くダンサーにとっては、プロポーションの良さに匹敵する、何にも優先して要求される資質と言える。

とまれ、「  空間  」  の振り付けが完璧なものだった故に、あれほど正確にムーブメントの一つ一つが残らず私の筋肉に刻み付けられたのであり、バレエに限らず、私達の住む世界には、  「  変えてはならない  」  ものも存在するということを、私自身もあの体験によって学ばせられたのだった。

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たしかに、周囲の事情の変化によって、愛着のあったものが失われれば寂しい。

しかし、「  進歩  」 の為には変えた方が良い、或いは、変えなければならなかった理由を理解して納得すれば、受け止め方も違って来る。

近親者との死別というような、耐えがたいほど悲しい  「  変化  」  でさえも ・・・。

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古い細胞が死んでは、その代わりに新しい細胞が生まれるように、  「  変わる  」  ことは  「  生  」  の証し。

“  いま  ”  を  “  生きる  ”  ことは、様々な  “  変化  ”  を自分の糧として前向きに進み続けることに他ならない。

価値あるもの、無駄なもの、捨てるべきもの、失ってはならないもの。

人生は取捨選択の連続。

一筋の道を貫く生き方は、同じ状況を固持し続けるだけでは得られず、“  変える  ”  べきは、無益な抵抗をせずに変え得る柔軟性も必要。

その柔らかさによって、最も重要な  “  一筋  ”  の部分をより強く貫くことも可能になるのではないだろうか。


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ランと私のタイアップは、‘72年6月の出会いの後すぐに  (  卒業や結婚よりも3年も前のこと  )  始まっているので、もう44年になる。


無論、かつては私自身が踊り手としてランの伴奏で踊った。


“  いま  ”   私がランとのチームワークで教えるクラスは、彼のピアノ伴奏には変わりないのだが、私の方は、教師として、また振付家としての立場からムーブメントを示すだけに留めて、自分自身100パーセント踊るということをしなくなっている。


しかし、私の三分の一くらいの年令のダンサー達の若く強靭な身体を思う存分に踊らせるのには、やはり自分自身が動いて、見せることによって伝えるという基本には変わりない。


バレエ教師にとって、クラスは教壇であっても、  「  教科書  」  や  「  楽譜  」  は無いのだから、そこで使う  「  例題  」  は、その場で自分自身の身体から引き出して、創り上げる以外にない。


優れた  「  例題  」  を呈示することによって、才能のあるダンサー達に刺激を与え、説得力をもって導くことが出来なければ、私のクラスは成功したとは言えないのだから、コワイ。


そのチャレンジが、私を現役のダンサーとして、  “  いま  ”  もなお日々前進させる原動力になっている。





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 【  ランと私の所属する  “  Peridance Center  ”  という総合アートセンターでは、定期的に  “  Faculty  Showcase  ”  
(  ファカルティー・ショーケース  =  講師発表会  )
が開かれる。


私は、昨年度、ドボルザークによる  「  弦楽四重奏曲第12番  」  の2楽章を使って、
   “ One More Time “  
(  ワン・モア・タイム  =  もう一度  )
という題の8分弱のバレエ作品を発表した。


上の画像は、本番後、出演者達との記念写真。


ダンサー達の持っているのは、アメリカのダンス界の習わしで、振付家が出演ダンサー達にめいめい一輪ずつ贈るバラの花。

逆にダンサー達から贈られた花束を抱えた私の真後ろにランが、
そして、向かって右、私から一人置いて縞のシャツを着ている男性が、このセンターのオーナーで、自身も振付家、バレエ教師として
活躍しているIgal Perry  
(  イガール・ペリー  )さん。  】






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 【   出演者9名全員が私のクラスの生徒さん。

前に膝まずいているのはLidsay (  リンゼイ  )

中列左から、Lauren,Mariah,Jenny,
Hanna,Paula, Cat 
 (  ローレン、マライア、ジェニー、ハンナ、ポーラ、キャット  )

後列左から、Conrad,Clare  
(  コンラッド、クレア  )

NYの厳冬、12月から1月にかけて約8週間、
無報酬で頑張ってくれた皆に、感謝を込めて拍手。  】
 





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 【 花束と、拍手と笑顔に囲まれて、
私達の  “  いま  ”  。  】  



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東京からは一万キロ以上も離れ、結婚当初は、新居を構えなければならなかったLong Beachから片道2時間半もかけてマンハッタンまで通っていた私達は、  “  いま  ”  、ジュリアードまで徒歩15分ほどの、ミッドタウン西に住んでいる。

そのように恵まれた  “  いま  ”  を生きるランと私は、改訂に改訂を重ねて書き上げて来たドラマの  「  最新版  」  を、今日も1ページ、お互いの気合もぴたりと合わせて、また再びめくるのだ。 

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

先に載せた、‘75年6月にジェーンのアパートから引き払って来た時の写真をしげしげと眺めていたランがポツリと漏らした感想は、 ・・・  

“  Do you know what I notice looking at that picture ?  ”     「  あの写真見て僕の気が付いたこと、君、分かる ?  」

“  We are exactly the same.  ”
「  (  写真の僕たちと今の  )  僕たちは全く同じ  (  で、変わってない  ) っていうことナンダ。  」  、

そ、そ。  そう来なくっちゃネ~~~~っ  !!

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

ある俳人の投稿句は抜群にイイ。

「  老いてなほ積乱雲のごと句作  」  。  

この句を第一席に選ばれた、選者の長谷川櫂氏の選評も、またイイ。

「  『  積乱雲のごと  』  の表現が力強い。  命の湧きあがるままに。  」

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

19才からバレエを教え続けて来て、私の教師生活も今年55周年を迎えた。

そのバレエ・クラスを題にしてひねった私の句はこんな感じに ・・・ ?

「  バレエ路(じ)や積乱雲のごとクラス  」

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

「  九ちゃん  」  こと、坂本九さんの  「  上を向いて歩こう  」  は、先頃、  (  七月七日タナバタの日に、  )  83才で亡くなった永六輔さんの作詞。

‘61年に発表されるや、たちまち大ヒット。

折しも  「  日本ブーム  」  に沸き始めていたアメリカでも、  “  SUKIYAKI SONG “ のタイトルでトップランクの人気を博した。

因みに、死刑反対論者としても知られる永さんは、生涯  「  平和  」  を叫び続けて逝かれたが、まだしばらくは頑張って頂きたかったものを ・・・ 。

またもう1人、日本にとってかけがえのない  「  平和の旗手  」  を失ってしまったことを惜しみつつ、心から永六輔さんのご冥福をお祈りする。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

「  幸せ  」  は、  「  上を向いて  」  凱歌を上げる。

卒業キャップ・スローイングも、Juilliardの楽器スローイングも、胴上げも、積乱雲も、みんな  「  上を向いて  」   勢いよく躍り上がる。

また一日、  “  いま  ”  を生き切る  “  歓び  ”  を勝ち取った  「  勝どき  」  の声も ・・・。

“  Hip,Hip, Hooray  !  ”

「  エイ、エイ、オーーッ !  」





✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩



「  ジュリアードで昼食を 1 ~ 9―6.   」  完

AD
2016-08-23 04:40:59

ジュリアードで昼食を 9‐5.

テーマ:彼と彼これ40年

 「  彼と彼これ40年 ジュリアードで昼食を 9‐4. 」 から続く







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 【  Ron: Hooray Juilliard !!

(  ホゥレ~イ  =  バンザ~イ (/・ω・)/  ジュリアード !!   )

This is great.

It’s an “  Instrument Throwing, “ instead of a “ Cap Throwing, just for Juilliard. “

 

(  こいつはスゴイ。  

 「  キャップ・スローイング  」  ならぬ、  「  楽器スローイング  」  とは、まさにジュリアード向きだ。  )

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

アメリカの大学における卒業キャップ・スローイングについては、  「  ジュリアードで昼食を 9-1.  」  を参照。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

私:  まー、色んな楽器が飛んでるネ~。

楽器って形もすごく綺麗で、其の侭 「  絵  」  に。 

Ron:  The audience enjoys not only to listen to the music, but also to look at the musicians who play their beautiful instruments.

(  観衆は、音楽を聴くだけではなく、音楽家が美しい形をした楽器を演奏する姿を観ることも楽しむ。  )

私:  楽譜も飛んでるけど、・・・ ?

Ron:  (。´・ω・)?  Well, that’s a voice, isn’t that ?

(  う~ん、  あれ、  「  声  」  じゃないのかナ ?  )

私:  だよネ !!

目には見えないけれど、画面一杯に響き渡っている素晴らしい  「  声  」  。

その力強い  「  声  」  を奏で出す声楽家の楽器は、放り上げることも絵に描くことも出来ない 《  声帯  》  そのものなんだネ ・・・ 。

Ron:  But, you are throwing yourself in this picture !

(  けど、この絵では、君も自分を放り上げてるジャン !  )

私: まーネ、空想画だから、  「  不可能も可能になる  」  。

ダンサーの楽器は、  《  体  》  そのもの。   

だから自分で自分を放り上げなきゃならない。  

で、思いっ切り開いたグラン・ジュッテのジャンプを使って、一番高い所まで飛び上がって見たワケ。  ✌(‘ω’✌ )三✌(‘ω’)✌三( ✌’ω’)✌  

こんなに沢山の魅力的な楽器に引き立てられて、私もノリノリ (((o(*゚▽゚*)o)))

Ron:  Even higher than my piano ! Hooray, Juilliard Dancer !!

(  僕のピアノより高く跳んでるネ !  ホゥレーイ、ジュリアード・ダンサー !!  )

私:  (o^―^o)  

Ron:  Much higher than other instruments.  Otherwise nobody sees you.

(  他の楽器をズンと引き離した高さまで。  じゃなきゃ、誰にも見て貰えない。  )

私:  宇宙の果てまで、どこまでも  !!!  】  








✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

2人の対話はとめどなく続く。

出会いの’72年から44年、2016年の今日までも、川の流れのように、 ・・・。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

私: この絵のみんなは、口の開け方からして、  “  Yay  =  イェ~イ  ”    じゃなく、どうも、 “  ホゥレ~イ  ”  って叫んでるみたいネ。  

他にも“ Hurray “ とか “ Hurrah “  って綴ることもあるそうだけど。

Ron:  Right.   They are all expressions of Joy and Approval.

(  そう。  ぜんぶ歓喜や称賛を表す掛け声だね。  )

“ Yay ! “ or “ Yea ! “ came from “ Yes “ .

(  “  Yay !  ”  と  “  Yea !  ”  の方は ⦅   共にイェーイの発音  〙 両方とも  “  Yes  ”  から生まれて来てる。  )

私:  “ No ! “  の場合もあるの?
 
Ron:   Naturally.   We shout “ Nay ! ,“ at the top of our lung.

(  当然。  「  ネーイ !  」  と、声を限りに叫ぶ。  

―  訳注  :  直訳は、  「  肺のてっぺんから叫ぶ  」  。  ―   )

By the way,  “ Hooray “ is sometimes used for encouragement.

(  ところで、  「  ホゥレーイ  」  は、時として激励に使われることもあるんだ。  )

私:  あ、ワタシ、聴いたことあるョ。

“ Hip, hip, hooray ! “ (  「  ヒップ、ヒップ、 ホゥレーイ !  」  =  「  行け、行け、頑張れ~ !  」  )  って、あれネ。 

Ron:  I’ve also heard that it means “ Good Bye. “ in Australia and New Zealand.

(  豪州やニュージーランドでは、  「  サヨナラ  」  を意味するんだとか。  )

私:  じゃ、ヤッパ、卒業式にはぴったり。  

「  卒業  」  って、一つの  「  別れ  」  だもん ・・・。

ところで、日本で応援する時の  「  フレー、フレー  」  も、実は、この  “  Hooray  ”  が語原らしいのョ。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

「  しりあがり寿  」  という、ペンネームからしてひどくひょうきんな作家の4コマ漫画が朝日新聞に連載されている。

『  地球防衛家の
ヒトビト   』 と、これまた独創的なネーミングのこの漫画は、一風変わったルックスの登場人物達によって繰り広げられる、ごくフツーの日常生活が題材。

しかし、豊富な知識に裏打ちされた鋭い批判精神とグローバルな視野に立って、ごく平凡な出来事から、時としては深刻な時事問題に至るまで、ユーモア溢れるタッチで焦点を当てる。

作者の暖かな人間味の伝わって来る、ごくオトナ向きのユニークな味わいだ。

著作権の関係上、写しを載せる訳には行かないが、セリフだけだったら許されるのでは ・・・ ?

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

1コマ目  『 オレ、高校の時 応援団で甲子園に行ったんだ  』  『  キャー スゴイ !!  』  『  フレーッ フレーッ ってやつね  』

 2コマ目  『  一回戦で 負けちゃったけどね  』  『  あの フレー フレー って どういう意味 ?  』  『  バット 振れーって こと?  』  

3コマ目  『  えー たしか 外国の言葉が 元だったような  』  『  わからないんだ ?  』  『  わからないで 応援してたんだ ・・・  』

4コマ目  『  
それで すぐ 負けちゃった ・・・ ・・・ のかな ? 
   』  『  
やめてくれ~~~ !!
  』    


✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩




~   Juilliardの楽器スローイングに戻って・・・  ~



私:  当てっこしてみない?  誰がどの楽器を放っているのか。

Ron:  Well, that’s almost impossible.

(  う~ん、それ、ちょっと難題だナ~。  )

私: んだね。 卒業記念写真も全員手ぶらで、スマイルだけはみんなスッキリと爽やか (#^.^#) (⌒∇⌒)。  

バイオリンとかフルートとか、あまりかさばらない楽器だったら持とうと思えば持てるんでしょうけど、誰も楽器持ってない。

ここに写ってるどの一人を取っても、一見しただけではその人が音楽家かどうかさえ分からない。

まして、それぞれの専門楽器を想像して見るなんて、先ず無理な注文よネ。

Ron:  Anyway, all heavy instruments are flying in this picture.

Trombone, Saxophone, Tubas, Cellos, A Double Bass, and even A Drum Set.  

(  それにしてもサ、この絵ではかなり大物の楽器がみんな飛んでるヨネ。

トロンボーン、サキソホン、チューバ、チェロ、ダブルベース  〔  又はコントラバス  〕  、ドラムセットまで。  )

私:  チューバは金管楽器でも、20キロもあって、トランペットなんかと比較して随分大きい。  

ブラスバンドでも、何人ものチューバ奏者が足並み揃えて堂々と行進して行く様子はホントに勇壮。

Ron:  In general, tuba players are big men, just like my grandpa.

(  チューバ奏者は概して身体の大きい男性だョ、僕の祖父みたいに。  )

私:  おジイ様は、Musicus (  ミュージカス  )  という名字のとおり、チューバもバイオリンも弾きこなす優れたミュージシャンで、同時に、その繊細さ以上の大変な豪傑だったそうネ。  

ロシアでユダヤ人に対しての迫害が起こった時のこと。

一人のユダヤ人が何人ものロシア兵に囲まれて暴行されている所に差し掛かって、ご自分も同じユダヤ人のおジイ様は、危険も顧みず止めようとなさった。

ロシア兵達がおジイ様に矛先を向けて来たのは当然の成り行きだったんだけれど、多勢に無勢をものともせず、丸太で立ち向かって、全員起き上がれない程にやっつけちゃったっていう話、よく覚えてる。

Ron:  Well, that was why he had to leave Russia.

(  まあ、だからロシアを離れなければならなくなっちゃったんだヨネ。  )

私:  でも、何事も起こらなくて、おジイ様がその侭ロシアに留まっていらっしゃったとしたら、ワタシはアナタに出会えなかった。

Ron:  The Russian soldiers must’ve been our match-makers.

(  ロシア兵が僕たちの縁結びをしてくれたとはネ~。  )

私:  あ、重い楽器の話に戻るけど、Timpani  (  ティンパニー  )  は重さだけじゃなく、場所取り過ぎるから入れなかった。

直径60センチ前後のティンパニーを最低2個並べて叩き分けるんだから、少なくとも1メートル半位の幅を取る。  

Ron:  Timpani evolved from military drums to become a staple of the classical orchestra by the last third of the 18th century.

For many years, a set of two timpani were played, but today, there are
four to five, sometimes even six of them are used in orchestras.

(  ティンパニーは、軍用の太鼓から進化して、18世紀末30年ぐらいの間にクラシック・オーケストラの主要な楽器になった。

長い間大小2個のティンパニーだったのが、最近は、4、5個、時には6個も大中小のサイズを取り合わせて、高低の変化に富んだ音色を出すようにしているそうだ。  )

私:  原語がイタリア語の “  Timpano  ”  だから、複数形では  “  Timpani  ”  になるのネ。  

6個も並べると、それこそ壮観で、この頃は、クラシック畑だけじゃなく、ロックバンドなんかでも使う時があるんですって。

それはそうと、大型楽器では、Harp (  竪琴  :  重量40キロ前後  )  なんかも姿が綺麗で、ホントは入れたかったんだけど、もう画面が一杯になっちゃって ・・・ 。

Ron: Is that instrument, shaped like a table under the cello on top left, a marimba? 

( 左上のチェロの下にある、テーブルみたいな形の楽器はマリンバかな? )

私:  そ。  重いよ。  木琴なんだけれど、がっしりした金属製の共鳴管が一つずつの琴に全部付いてるんだから、全体は85キロぐらいあるんですって。  

Ron: But, Pianos are definitely “ the heavy weight champions “ of all the music instruments.

A large piano weighs 500 kilograms, half a ton.

There are no other instruments, heavier than Pianos.

(  けどサ、ありとあらゆる楽器中の  「  ヘビー級チャンピオン  」  は、ヤッパ、ピアノだネ。

大きいピアノは500キロ、つまり半トンもある。

ピアノ以上に重い楽器は無い。  )

私:  それはそうと、ロシア出身の歴史的ピアニスト、ウラジミール・ホロビッツが何かの政変に巻き込まれた時に、グランド・ピアノを、暴虐な兵卒達に2階の窓から道路に放り落されたっていう体験談、覚えてる?

ピアニストの魂ともいえるピアノを窓から投げ出すなんて、これ以上の乱暴狼藉は考えられない。

Ron:  What a great job !

The damage on the road and the cost to repair it must have been enormous.

(  全くご苦労なこった!  道路のダメージも、修理代も、桁外れだったことだろう。  )

私:   半トンのピアノが道路を直撃なんて、マー、おっそろし~い (≧∇≦)

Ron:  Horowitz was lucky, that they didn’t throw him out of the window.

(  奴らが彼自身を窓から放り出さなかっただけ、ホロビッツは幸運だった。  )

私:   命あっての物種だもんネ (”^ω^)・・・ 。

まー、ピアノが身代わりになってくれたともいえるし、国家功労者級の大ピアニストの前には、暴徒もさすがにひるんだんじゃないかしら  ? 

Ron:  I guess so.

(  マーネ。  )

私:   そーいえば、私も一度、放り上げられたことあるんだョ。

Ron:  Wow! In a dance ?

(  ワオ !  踊りで ?  )

私:   ノー。  「  胴上げ  」  されたの。

あれは、ワタシの生涯で、後にも先にもたった一回だけの  「  胴上げ  」  だった。

Ron:  It must have been fantastic to be thrown.

But, it was a risky experience for you, because there have been quite a few serious accidents by “ Do-Age . “

(  放り上げられるのは最高だったろうナ。

しかし、  「  胴上げ  」  って、失敗して酷い事故になることも多いそうだから、君にとっては危ない所だったんだョ。  )  

  

私:   コワイ !  Σ(゚∀゚ノ)ノ

でも、彼達はある文化団体の中学生の男の子達でね、  「  胴上げ  」  も良く訓練されていたらしく、ぴったりと呼吸を合わせてしっかりと受け止めて呉れたのは感動的だった。

Ron:  Dancing must have been a new experience to many of them.

(  彼等にとっては、ダンスなんて初めての経験だったろう。  )

私:   そ。  ヒップホップが体育の一環に加えられている、  “  今どき  ”  とは大いに違ってね。 

1970年の5月頃だったか、私の発案した  “  群舞隊  ”  というグループ名でスタート。

なにせ中学生の反抗期だし、最初は照れたり拒絶反応を示したりしていたけれど、私は、内心踊りたくてうずうずしてる彼等のホンネをはっきりと見抜いていた。

それを実証したのは、振り付け指導を開始するや、全員の態度が  「  ナットク  !  」  と、180度転換したこと。

一人一人が、残らずグングンとダンスの磁力に引き付けられて行って、見る見るステキな若いダンサーに変身して行く手応えを味わいながら指導する、実にやりがいのある仕事だった。

私は、丁度NY渡航に向けての旅支度の最中だったんだけど、出発間際に迎える本番を、日本のバレエ界に残して行く  「  置き土産  」  とも考えて、猛暑もすっかり忘れて、振り付けと指導に熱中して過ごした7,8月だったのョ。

“  群舞隊  ”  というカッコイイ呼び名も、この文化団体には気に入って貰えたようで、50年近く過ぎた現在も、其の侭変えずに使っているらしい。

Ron:  Young boys must have wanted to show their appreciation and affection to you by giving you a traditional “ Doh-Age ,“ which seems to be very common in Japan.

(  日本では良く見られる、伝統的な  「  胴上げ  」  なんだが、少年達は、君を胴上げすることによって、彼等の君に対する感謝と、ほのかな慕情を示したかったに違いないナ。  )

私:   カモ。  皆、そろそろ  「  オトナ  =  オトコ  」  に育って行く年頃だったから ・・・。  

和製語では、 「  スキンシップ  」  って言うけど、肌で触れ合うことは、人間関係の潤滑油。

Ron:  “ Skin ship “ in Japanese English could be replaced with “ Physical Contact “ in English. “

( 和製語でいう  「  スキンシップ  」  は、英語だと、  「  フィジカル・コンタクト  =  身体的な接触  」  って言い換えられるかな。   )

私:   常に ”  スマイル  ”  とのセットにして ・・・ (⌒∇⌒)

Ron:  Handshake, hug, and kiss, and “ Do-Age .

(  握手、ハグ、キス、そして  「  胴上げ  」  。  ) 

私:   それでこの絵のアナタも、愛器のピアノを  「  胴上げ  」  。

500Kgの怪物を絵のてっぺんまで、しかもたった一人で  !  

わりかし腕力あんだナ~ (^▽^)/

Ron:  (o^―^o)  
I got extra energy as soon as I thought of it’s price.

(  ハハ、お値段の方を思い出した途端、超能力がモリモリ沸いちゃってネ。  )

私: このコラージュなら、ピアノ、落っこちて来る心配はないしネ。
  
Ron:    ( ̄∇ ̄;)ハッハッハ 

私: で、マジ、幾らぐらいするの?

Ron:  Steinway D274 is priced $161,300 as of now, and the price goes up 4 % each year.

(  スタインウェイ社製、D274  ⦅ 全長274センチを示す品名のグランド・ピアノ  ⦆  は現価格161,300ドル  《    2016年7月27日現在の換算レートで、16,980,374円  》  で、毎年4%値上げするシステムを取っている。  )

私:   (≧∇≦)  長さ3メートルとはチョー・デカ物だけど、値段も2千万円近くもするとはネ~、ちょっとした家なら、一軒買えるくらいジャン。  

なんでそんなに高いのカナ~ ・・・。

Ron:  Because it demands the best material, technique and the time to build.

It takes 12 months to complete a piano.

(  それはネ、最高の材料、最高の技術、そして、かなりの  「  時間  」  が要求されるからなんだ。

一台のピアノを完成させるのに12カ月かかる。  )  

私:   ナンカ怖くなって来た。

Ron:  You don’t have to be scared.  There is no comparison between the time to build a piano and the time that you have taken to finish your work to become a professional dancer.

(  君が怖がることなんか無いよ。  ピアノ一台を造るのに必要な時間なんて、プロのダンサーになる為に、君が今まで費やして来た時間の比じゃない。  )

私:   そういえば、確かにそうダネ。  

私も、アナタがピアノを習い始めたのと同じ5才の時からずっとバレエを踊り続けた挙句の果てに、とうとうこのNYまで紛れ込んで来ちゃった。

そして、ジュリアードで4年間もみっちり絞り上げられて、卒業してから、ん十年も経った今の今になっても、毎日、  「  まだまだ  」  って自分に言い聞かせながら勉強し直し続けている。

Ron:  All the Juilliard graduates must have started their study when they were very young, just like us.
  
(  ジュリアードの卒業生も、皆僕たちのように、随分小さい時から習い始めているんだもんナ。  )

私:   そう考えると、一見面白い発想のこの絵にも、一つ疑問が湧く。

Ron:  Question ?

(  疑問 ?  )

私:   子供の頃からずっと抱え続けて来た大切な楽器を放り上げることなんか、出来ないんじゃないかな~?  

放るってことは、自分の手から放すこと。  放してしまった後では、その楽器に自分の手は届かない。

どこかに落ちて壊れてしまっても。

Ron:  What you are saying is very true.

(  君の言ってること、本当だね。  )

私:   「  放る  」  っていう行為は、時として、  「  後はどうとでもなれ  」  とばかり、腹立ちまぎれにやってのけてしまうもので、ひどく破壊的な一面を持っている。

動作自体は同じでも、歓びや祝いの気持ちで放る時とは正反対に。

Ron:  Just like little babies start throwing things, when they lose their temper.

(  丁度、機嫌を損ねた幼児が、そこいら辺の物を放り散らすように。  )

私:   限りなく自分の芸術を愛しているアーチストにだって、やけっぱちに全てを放り出して何処かに隠れてしまいたくなる気持ちに駆られる時だってある。

Ron:  There is a funny story about the great cellist, Pablo Casals.

He was so happy that he didn’t have to touch his cello any more when he hurt his hand by accident.

(  偉大なチェロ奏者のパブロ・カサルスにも面白い話があるんだョ。

彼が事故で手に大怪我をした時、もう二度とチェロに触らないで済むんだって、大喜びしたんだって。

私:   ハハ、判るネ~ !(^^)!

どんなに傑出した人物でも、人間である限り、凡人と少しも差のない  「 心の弱さ 」  を持っている。  

だからこそ克己心を奮い立たせて、一旦選んだアーチストの道を貫き通した時に、その一筋の道が輝くのネ。


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大学生活4年間の緊張から一気に解放される卒業式が、日本では3月下旬、アメリカでは5月下旬と、少しずれているのは興味深い。

日本の3月下旬というと、早咲きの桜ならもう五分咲きの、温暖な  「  春  」  の気候。  

所がアメリカでは、その頃はまだ冬の気配が残っていて、分厚いコートを必要とする日も少なくない。

大陸気候のこの国では、 日本の  「  春  」  に当たる期間は短く、やっと「  冬  」  から抜けたかと思う4月を過ぎるや、あっという間に  「  夏  (  初夏  ?  )  」  にどんでん返しする。

大学生活4年間の緊張から一気に解放される晴れ晴れしい  「  卒業式  」  が、日米の二国共に、寒さから脱し切って本格的に温かさを迎える時期に開かれるというのも、自然のリズムにちゃんと沿っている。

長い年月をかけて定まって来る習わしというものは、合理的だ。

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卒業の解放感もさめやらぬ8月6日、私は、当時日本の音楽・舞踊の専門紙として重要な役割を果たしていた、  “  音楽新聞  ”  の社主、音楽舞踊評論家の村松道弥氏宛に手紙を出している。  

日本のバレエ界は、私が育った一つの家庭のようなものだった。  

そして、バレエを始めた5才の頃からプロのバレエ・ダンサーとして独り歩きして行くまで、私の成長の過程を逐一見守っていた、村松氏をはじめとする評論家や、バレエ界の先輩達は、私にとっては皆親しい  「  オバサン  」  、 「  オジサン  」  のような存在だった。

‘70年渡米の4カ月前に、私は、東京新聞主催のバレエ・コンクールで大勝しているが、コンクール初出場の私をこの勝利に導いたのは、審査員の内の2人が、その持ち票を全部私の作品に投じたことによる。

その1人は、昨年94才で亡くなられた、日本バレエ界では知らぬ人のない、谷桃子さん。  そして、もう1人が、村松道弥氏だったという。

私の出場作品は、ラベルの  「  ボレロ  」  を制限時間の7分に短縮編曲して、少しモダン・ダンスの手法も取り入れて振り付けた、  「  闘牛士  」  という新作で、それまでのこのバレエ・コンクールには見られたことのない作風のバレエだったと思う。

因みに、かつての恩師橘秋子先生は、重病  (  翌‘71年5月にご逝去  )  をおしてのご出席だったが、なぜか、私の作品には1票も投じて下さらなかったと、後で知らされた。





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【  私から村松氏に宛てた手紙は、殆どカットなしで‘70年9月14日付、  “  音楽新聞  ”  に掲載された。

“  アメリカに根を下ろす  ”  「  バレエの佐々木弥栄子からの便り  」 という2行の大見出しに、  「  ジュリアード大学課程を卒業8月末に結婚  」  の小見出しと、  写真にも、  「  ロングビーチにて、佐々木弥栄子とラノルド・ミュージカス  」  とのキャプションが加えてある。 

数年間にわたる無沙汰の詫びと報告を兼ねての個人的な書簡だったので、記事としてこれ程大きく取り上げて頂こうとは思いもかけなかった。

添付した写真まで掲載して下さった村松氏の暖かい激励を、私は一生忘れることがないであろう。 

下の画像は、掲載写真のオリジナル。  キャプションに  “  Yaeko & Ron, June,‘ 75  ”  とあるとおり、前記事、  「  ジュリアードで昼食を  9-3.  で触れた、元ルームメイト、ジェーンのアパートを引き払って来た日、それからしばらく住むことになる、ロングビーチの彼の実家前で撮ったもの。  引き取って来た家具に囲まれているが、私が右手を置いている、車のボンネットに括りつけて来たらしいタイ製の衝立と、ランの座っている中国製の籐椅子は、40年以上も過ぎた今もさほど古びずに、健気に頑張ってくれている。  】






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(  掲載記事を、ごく一部のみ下記する。  )

『  バレエの佐々木弥栄子は幼いころから橘バレエ学校に学び、大原永子、岡本佳津子らとともに将来を嘱望されていたが、 途中高橋彪の20世紀バレエ団に移り、5年前渡米して、ジュリアード音楽院に学び、今回同校の大学課程を卒業し久し振りで便りがあった。 

「  村松先生おげんきでいらっしゃいますか。  5年もの間、すっかりご無沙汰してしまい、申し訳ありませんでした。  決して日本の舞踊界をないがしろにする積りでは無かったのです。  渡米して、ニューヨークの地を踏んだ瞬間から、自分の殻をこわすことに専念し、それをアメリカ・ダンスを学ぶ基本の姿勢にしていたため、エネルギーの全てをこちらの生活のリズムに集中させておりました。  読み書きも、英語に上達するためには日本語で読むこと、書くことを制限して参りました。  5年前に  「  ゼロから出発する  」  という思いで日本を離れて来た私にとってはこの態度より他には無かったのです。  しかしそれだけ堅固な基礎を固めることが出来たと自負しております。  (  略  ) 

お送りした写真のように、ジュリアードで4年の大学課程も無事終えることが出来、いよいよこれから活躍の時と決意しております。  (  略  ) 

私は8月24日にラノルド・ミュージカスと結婚をします。  ラノルドは姓にミュージックという言葉が這入っている通り、親戚にも音楽家が大変多いとは興味のあることですが、彼自身もジュリアード修士課程卒業のピアニストです。  (  略  )    

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「  結婚  」  の二字には重みがある。

その重量感のためだったのかどうか、いわゆる  「  適齢期  」  を越した20代後半から30代に入って行く頃の私は、生活の中心を占める  「  バレエ  」  の横に、  「  結婚  」  というものを二義的な問題として押しのけて置くような傾向があった。

しかし、ランとの関わりは、それまで私の内面で離れた存在としてお互いを牽制し合っていたような  「  結婚  」  と  「  バレエ  」  の二者を融合させて、無理なく一体化してしまうような大きさを私の生活にもたらした。

私は 「  バレエ  」  を、常に  「  音楽  」  の一部に位置する芸術として捉えていたが、 「  音楽  」  という世界の持つ大きさがランその人の大きさなのだった。

ある哲人が言った。  「  愛するとは、お互いを見つめ合うことではない。  真実の愛は、その両人が肩を並べて、共に同じ方向を見つめ合う所にのみ存在する。  」

そしてランと私は、確かにその  「  同じ方向  」  を向いて立っていたのだ。

実は、ランとの  「  結婚  」  イコール  「  アメリカに移住  」  という進展は、ジュリアード卒業に伴う学生ビザの失効によって、NYでの居住権をも失うことになった為に浮上したものだったのだが、そのように深刻な決断にも拘らず全くためらわなかったのは、彼と知り合って間もない頃からずっと、私は、二人が  「  同じ方向  」  に向かって進んでいることを信じたからなのである。

こうして、新カップル、Mr.& Mrs.Ronald Musicus   (  ミスター・アンド・ミセス・ラノルド・ミュージカス  )  は誕生した。    

英語で夫婦二人を並び称する場合には、敬称のMr.& Mrs.を付した後は夫の名前のみで妻の名前は入れないので、  その  “  Mrs.  ”  が  “  Yaeko  ”  であることは、字面(じづら)では分からない。   

日本では、「  田中一郎、花子  」  のように、田中夫人は  「  花子  」  という女性であることが一目で見て取れるのに反して。    

しかし、  私一人だけの名前を書く場合には、 “  Mrs.Yaeko Musicus  ”  となるので、私が日本人であることもはっきりする。

いずれにしても私は、  “  Musicus  (  ミュージカス  )  ”  という、  見ただけで何処かから  「  音楽  」  が聞こえて来るような名字を持って、ランとの新生活をスタートすることになった。




続く: 「 彼と彼これ40年 ジュリアードで昼食を 9‐6.」へ 










AD
2016-08-08 09:54:43

ジュリアードで昼食を 9‐4.

テーマ:彼と彼これ40年
「  彼と彼これ40年 ジュリアードで昼食を 9‐3. 」 から続く 




裸一貫に戻っての再出発を恐れる気持ちはさらさら無かった。

何故なら、  「  裸  」  になったのは主に  「  収入  」  についてのみ。

ごく一時的な現象に過ぎず、解決の方法はいくらでも考えられる。

また、全体観からすれば、生まれてからこの方、私の人生はいつもゼロからの出発の繰り返しだったとも言えるのだし、自分自身の境涯そのものは新たな  “  ゼロ  ”  地点に立つ都度に高まり、人物としてもその前とは一回りも二回りも器が大きくなって行っていたことに気付く。

それは、双六で振り出しに戻ってしまうのとは全然違っていた。

一レースを完走するや、またすぐ次のレースの新しいスタート点に向かって行く走者にも似て、次々と新しい目標を自分に与えてはその達成に努力し、一つ、また一つとクリアすることによって究極の目的地を目指し続けて行くのが私流の進み方だった。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩


〔  ジュリアード卒業までの私の年譜  :  一部省略
  


  ―  私の半生を客観視する為の一助として。  ― 




1942年  (  S 17  )  6月    出生。  

於:中国北京市  (  旧日本国領、満州国  )
          
父:佐々木雄哉  (  満鉄理事の職務で中国在住  )  
母:千恵子

1945年  (  S 20  )  8月  3才  

終戦。  (  日本の敗戦。  )  於:中国撫順市

1946年(  S 21  )  8月~10月  4才  
父母と兄の4人家族、着の身着のままで中国より引き揚げ帰国。  

〔  記  :  8月12日、撫順市出発。  出発時の約1600人中、20%近い300人の死亡者を出したという、2ヶ月近い過酷な旅の後、10月10日、長崎県佐世保港上陸を経て、品川駅到着。  

引き続き、中央線 西荻窪駅に向かい、武蔵野市吉祥寺の母方祖母宅に落ち着く。  

祖母宅は、近所に教会があったせいか戦火を免れていた。  〕

1947年  (  S  22  )  11月頃  5才  

新宿、二葉幼稚園でバレエ研究所を再開していた橘秋子の元でバレエを始める。

1948年  (  S 23  )  8月頃? 6才  

母は、浅草橋の橋際、3坪程の土地に住まいを兼ねた洋裁店を開き、父母、兄、私の4人家族に父違いの姉2人を加えて、6人家族の新生活が始まった。

〔  記  :  ここ浅草橋、橋台地の空き地は中央区の引揚者復帰援助政策の一環として私達一家を含む数所帯の引揚者家族に一時貸し出された。

選ばれた引揚者達は狭い敷地内に住居兼店舗を構え、肩を寄せ合うようにして日本での再起のスタートを切ったのである。

その後、ここの住人達は夫々の分野での目覚ましい社会復帰を成し遂げ、この土地も中央区に返還された。

現在は、元の空き地に戻り、小公園になっている。  

当時の住所は  「  中央区日本橋馬喰町4丁目5番地  」  とされたが、当然ながら、この地名は現存しない。  〕


1950年  (  S 25  )  4月   7才      

中央区立久松小学校入学。

1953年  (  S 28  )  3月  10才     

学校法人橘バレエ学校第一号卒業生として卒業。 
(  久松小4年生の終わり。  )

日比谷公会堂の舞台上に於いて、当時の後援会長、武者小路実篤より卒業証書を手渡される。

1955年  (  S 30  ) 

4月  12才  

中央区立久松中学校入学。

同年10月~11月  13才     

歴史的名バレリーナ、Alexandra Danilovaの来日に際し、西日本全域ダニロバ公演にソリストとして選ばれ、全10公演に随行して、大阪、名古屋、広島、熊本等の各地を巡演。

久松中1年生の2学期中、約2ヶ月間にわたる特別休学許可を得て、日本バレエ史上に大きな足跡を残した意義あるダニロバ公演に参加した。  
        
1956年   (  S 31  )   11月  14才  

橘バレエ学校を母体として、  「  牧阿佐美バレエ団  」  が、結成される。  

私は、高校進学と重なるなどの諸事情に阻まれ、自分自身の希望と橘先生の期待にも反して入団を辞退。

1957年  (  S 32  )   14~15才

バレエを一時断念、高校入試準備に専念する。

1958年  (  S 33  )  4月  15才

青山学院高等部入学。

1961年  (  S 36  )  

18才  3月  青山学院高等部卒業。

4月  桑沢デザイン研究所 ( 現  「  造形大学  」 )入学。     

1962年  (  S 37  )  

3月?  19才    

桑沢デザイン研究所中退。

〔  記  :  一旦は切り捨てた積りだったバレエへの愛着は強まるばかりだった。

桑沢でデッサンの指導を受けていた彫刻の大家、佐藤忠良先生にバレエ復帰の希望についてご相談した所、自身の信念に従う生き方に賛同して下さり、一学期を終えたばかりにも拘らず敢えてデザイン研究所を中退することへの決意が固まった。  〕

(  2011年7月5日-6日公開、テーマ:そのとき、その人 「  さようなら忠良先生 1.- 2.  」  参照  )

同年4月頃?  

橘秋子先生の許に戻り、改めて牧阿佐美バレエ団に入団。

同年5月頃?  

JR1-浅草橋駅近くの  “  マイケル・ピアノ  ”  (  姉の嫁ぎ先の義兄が経営していた音楽教室  )  の教師として迎えられ、牧バレエ団員としての活動費を支える為、子供クラスを教え始める。

現在に至る、バレエ教師生活の事実上のスタートだった。  (  当ブログ - 初期記事、 ”バレエのお城 ”  参照  )

同年12月頃?  20才    

牧阿佐美バレエ団を、再び辞める。

〔  記  :  1956年に橘/牧という一つの砦を去って以来、 この時カムバックするまでの5年間というブランクは長く、その間に自分がもと居た場所はもう失われてしまっているという厳しい事実を、痛い程に思い知らされた。

加えて、かつては橘バレエ学校の有力な後援者であった父母の経済状況も、この時点では以前とは全く異なったレベルになっており、人並み以上に資力のバックアップを要求される牧バレエ団に在籍することは不可能だった。  〕

1963年  (  S 38  )  春頃?  

高橋彪主宰、小編成バレエ団 「 バレエ・ドゥ・ブルー 」入団。

1964年  (  S 39  )  4~10月 21~22才  

ニューヨーク世界博  「  日本館  」  の従業員公募に応募、数百倍の競争率を突破して採用される。

NYクィーンズ区に6か月間滞在、  “  New York  World‘s  Fair  ”  “  Japan  Pavilion  ”  の花形として活躍。

〔  記  :  余程裕福でない限り海外旅行など望むことさえ出来なかった時代に、突然降って湧いた私にとって初のNY滞在。  

この幸運の女神の贈り物は、6年後の本格的留学に繋がる遠因でも
あった。  〕

1965年  (  S 40  ) 4月  22才  

富士製鉄輸出部入社。

〔  記  :  生活の安定と共に、バレエ活動の資金を得る為
でもあったので、会社勤務の傍ら、  「  バレエ・ドゥ・ブルー  」  のバレエ・ミストレス、各種バレエ団公演への出演等々、プロフェッショナル・ダンサーの活動を積極的に続けた。  一日平均睡眠時間が2時間などというスケジュールも無理とは思わない、“  若さ  ”  が武器だった。  〕
 
1968年  (  S 43  )  1月?  25才       

富士製鉄退社

〔  同年4月頃? 佐々木弥栄子バレエスタジオ開設。  

浅草橋本部を中心に、旗の台と幡ヶ谷の幼稚園のホールを借りて2支部を増設。  3か所のスタジオにわたってバレエの指導活動にピッチを上げた。  〕

1969年  (  S 44  )  春頃?  26才  

門下生、小島理恵子  (  仮  )  の母親、小島よし子  (  仮  )  氏によって、江東区北砂にバレエの稽古場が建設され、私のバレエスタジオ活動の本拠として提供される。


〔  記  :  新しい稽古場を得て、  「  佐々木弥栄子バレエスタジオ  」  は  「  希望バレエスタジオ  」  の新しい名前でスタートする。


私は、  「  希望バレエスタジオ  」  の活動に専心する為、初めて父母の元を離れ、4歳から22年間を過ごした中央区日本橋を後にして、新築成った北砂のバレエスタジオに移転した。  〕

同年8月30日  27才    希望バレエスタジオ第一回発表会

於:新宿厚生年金会館 

この発表会の大成功を受けて、母の勧めもあり、私は突然のようにNYへの留学を思い立った。  この時点では、バレエスタジオの活動にも差し支えのないよう、3か月で帰国する予定だった。  〕

1970年  (  S 45  )  4月  27才   

東京新聞社主催、全国舞踊コンクールバレエ部門初出場。

於:日比谷公会堂  ラベル曲  「  ボレロ  」  に、門下生5名による新作  「  闘牛士  」  を振り付け、発表。

上位入賞及び、私の為に特別に用意されたという  「  指導賞  」 を受賞。
 
同年8月20日  28才  NY留学の為、羽田空港を発ち、NY時間の同日、JFK空港到着。

西51丁目 YWCA など数か所の仮住まいを経た後、 205 East 77th St.  “  Dover House  ”   # 14F  に住居を定める。

              
同年9月下旬       マーサ・グラーム・スクール入学。
        
1971年  (  S 46  )  

5月   28才   

 マーサ・グラーム・スクール上級過程修了

同年9月  29才

ジュリアード芸術院大学・ダンス科入学。



1975年  (  S 50  )  5月30日 32才  

ジュリアード芸術院大学・ダンス科卒業。



  ―  ジュリアード在学中の更に詳しい回想については、2012年9月27日を第一稿として本稿までの13回にわたって公開して来た  「  ジュリアードで昼食を 1.~ 9.  」  に記述した。  ―  





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私の人生は、大ざっぱに、  「  東京  」  と  “  NY  ”  の二幕に分けられる一つのドラマだ。

‘70年8月、第一幕  「  東京  」  のラストシーン、羽田空港からの離陸でいったん幕が下り、再び幕が上がると、 いよいよ待望の  “  Second Act  ”  (  セカンド・アクト  =  第二幕  )  。  

ステージから飛び出さんばかりのパワフルな  “  NY  ”  の舞台装置に目を奪われる。







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【 人類にとって最も大切な、  “  Freedom  ”  (  フリーダム  =  自由  )  を、全世界に向かって、呼びかけている、 “ Statue of Liberty “  「  自由の女神  」 の聳える “  New  York  ”  】        





 ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

そして、

去って行く私の後ろ姿を見送ってくれた ・・・

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ 






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   【  Buildingなどの存在しなかった遠い遠い時空を超えて、厳然とそこに聳え立っている世界一の秀麗、「  富士  」  をバックにする  『  東京  』  】 

  



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東京とNY。  

見分けが付かないほど似通った、
ひしめく高層ビルの群れ。

しかし、上の2画像の間にある違いは
やはり大きい。 







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【  一目瞭然。

鮮やかな対照をなす、

「  東京  」  と  “  NY  ”  
         に生きる人々。     】




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“  Second Act  ”  が始まり、主人公の私を囲んで次々と現れる共演者達。

その人達は一人残らず  “  New Yorker  ”  なのだった。

セリフはモチ、全てin Englishなのは当たり前。  

考え方も物事のやり方も、日常茶飯事の隅々まで徹底的にアメリカ流、というか、New York Wayなのだ。  

気前のいい人がいた。  利己的な人がいた。  いたわりのある人がいた。  繊細なひと。  鈍感な人。  悲しい時に楽しく笑わせてくれる人 ・・・。    

様々な性格の相手役と組んで、私も自分の場面を一生懸命演じていた。

しかし、こうした大勢のNew Yorker達との触れ合いを通して私が学んだのは、一人一人の中身をじっくりと見直してみると、千差万別の異なり方で外側に顕れている性格的な相違点は、一人ずつの人間がそれぞれの内側に全て併せ持っているという真理だった。

それは、  「  東京  」  でも  “  NY  ”  でもない、又、他の何処か特定の都市でもない、  『  世界  』  という最大限の囲みの中で、言語、習慣、文化などの相違を超えて、 「  人間  」  という生命体に備わっている普遍的な性格そのものが、いつ、どこで、どのような条件に反応して現われるかによって、それぞれに、お互い同士とは全く違った表情を見せるのだということでもあった。


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“  NY  ”  でのアメリカ人との数多い出会いの中から一人、短期ではあったが寝食を共にした “  Jane  ”  を選んで本稿に取り上げてみたい。






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【  ’75年6月、ジェーンと、彼女ご自慢の  “  Porch  ”  で。 (    「  ポーチ  」  とは日本で言うベランダのことだが、NYではこの呼び方が一般的。  )

ジュリアード卒業後、当分マンハッタンに住む予定はなくなった。

世話になったジェーンともしばしのお別れ。

アメリカでもうら若い女子学生の一人暮らしは奨励されていなかったようで、  ジェーンも、ルームメイトとシェア出来るように、  “  Brownstone ”  (  ブラウンストーン  )  と呼ばれる一戸建てのタウンハウスの2階に、二間続きのApartmentを借りていた。  】 







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【  NY周辺のどの街角にも見かけられる、  “  Brownstone ”  の家並み。

比較的古い時代からの様式で、古株では200年以上も前の建造物も残っているが、よほど建築技術が優れているのであろう、内装のみを近代化して、十分に現役で活用されているのには感心する。

元々は、正面の建築材料に使用した  “  Brownstone  ”  (  褐色砂岩  )  をその侭呼び名にしていたらしいが、レンガその他の材料を使っている場合でも、何時頃からか、こういうスタイルの建物の総称としてこの言葉が定着した。  】





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初めて、アメリカ人女子学生との同居。  しかも、一回りも年下のダンサー(ジュリアード・ダンス科では一年下級生)との共同生活。

しかし、それをためらう余地は残されていなかった。

私は、‘73年の夏期休暇での日本帰国から戻った後、マンハッタンまでは片道で2時間余もかかる、ロングビーチという郊外の町にあるランの実家に一時寄留したり、その頃、学生中心のユースホステルのチェーンで流行っていたYMCAの部屋を借りたりと、NYでの住居が中々定まらなかった。

YMCAの小部屋はベッドとタンスだけで一杯という狭さ。

NYの厳しい冬が深まって来る11月から12月にかけての、自炊はおろか、入浴さえも満足に出来ない生活は、私のコンディションに響き始めていた。

ジェーンの方から、ルームメイトになって貰えないかという話を持ちかけられたのは丁度そんな時だった。

正しく、  「  渡りに舟  」  のGood Timingだったのだ。

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「  朝日  」  の次に私が愛読している  「  日経  」  は、単なる経済紙の枠を大幅に超えて、NYの  “  Wall Street Journal  ”  にも匹敵する、 文化的にも素晴らしいクォリティーの新聞だ。

私が楽しみにしているのは主に日曜版で、36ページ全体の真ん中の見開き2ページを割いて掲載してある美術欄、俳壇/歌壇、最終面の文化欄などだが、その文化欄に連載されている 「  私の履歴書  」  というコラムの面白さは他に類を見ない。

1956年  (  S  31  )にスタートした  「  私の履歴書  」  は、読者からの反響の良さを受けて1987年  (  S 62    )からは、毎月1か月間  ( 1日から末日  )    に亘って1人を取り上げるスタイルが定着した。

執筆者の顔ぶれも実に色彩豊かで、各界のトップの競演さながらのこの人気コラムを原作とした作品の多くがTVやラジオなどにも取り上げられているという。

アイドル・スター市川染五郎時代からの人気が、重鎮として歌舞伎界を担う現在も一向に衰えることの無い、松本幸四郎さんによる中身の濃い体験記や、昭和美少女中の美少女スターとして鳴らした、浅丘ルリ子さんの、才色兼備のお手本のように高水準の筆致などにはすっかり脱帽。

余談になるが、歌舞伎界をはじめとする日本伝統芸能の世界では、何時の頃からか、子弟の多くをカトリック系男子校の名門、  「  暁星学園  」で学ばせているようで、私と同年生まれの幸四郎さんも、小3から高校まで  ここの一貫教育を受けられた。

「  暁星学園  」  の最寄り駅は中央・総武線の  「  飯田橋駅  」  なのだが、日本橋地区に住む私や友人達もやはり中央・総武線を利用することが多かったので、  「  飯田橋駅  」  のホームに幸四郎さんのお姿をお見かけする機会がたまにあった。

ご存じの読者もあるかと思うが、  「  暁星学園  」  の制服というのが、  “  マジ  ”  カッコイイ制服で、私など中学~高校生の  「  年頃の女の子  」  達は、その制服に身を固めた凛々しい貴公子さながらの  「  染五郎  」  を見かけた後の数日間というものは、その話題だけで持ち切りになってしまったもの。

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キリンビール元社長、荒蒔康一郎 (  あらまきこういちろう  )
という実業家を知ったのは昨年秋のことだった。

母親ゆずりの下戸で、ビールなどを飲んだことは数える程しかなく、お金儲けもあまり得意でない私と、世界的  “  KIRIN “  の元経営者として功績あるビジネスマン、荒蒔氏との接点は、日経2015年9月20日号に掲載されていた、 「  私の履歴書  」 の  『  大学院生活  』  という小見出しにあった。 

私は、ジュリアードの学生ではあっても、年令だけではなく、自分の実力と経験において、高校から真っ直ぐ、或いは大学の1,2年生から編入して来ていた級友とは当然一線を画していることを自覚していた。

ジュリアードにはダンス科の大学院過程が無かった為、学士過程に入学する他なかったが、私の実質的なレベルは、  「  大学院  」  コースに匹敵し、他の学生達を大きく引き離すものだったのである。。

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私は丁度ジェーンの話に取りかかり始めた所で、荒蒔氏が、研究に必要な実験器具の争奪戦を避ける為に、  「  ~私より十歳も若い学生が帰った後に~  」  と書かれている所などは、まるで自分自身の思い出と二重写しになって目に浮かぶのだった。

もっとも、ジュリアードでの私にとっての  “  実験器具  ”  に相当するのは、振り付けやリハーサルに絶対不可欠のスタジオのスペースで、毎朝、誰よりも早くダンス科のオフィスの前に陣取っては、その日のスケジュール表が貼り出されるや、待ちかねたように、空きスペースのある欄に自分の名前をサインして確保するのが最重要の日課になっていた。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

会社を代表しての特別任務を帯びて、家族ぐるみで渡米された荒蒔氏の住居や、その他、生活に必要なものは全て天下の  “  キリン  ”  によって支給されていたことと推察する。

2年間の滞米だったそうだが、そのように優雅な  (  !!  失礼  !!  )  『  大学院生活  』  には比べるべくもなく、私は、門下生を一人  “  お荷物  ”  として連れて来ている  (  先記事、  「  ジュリアード  ~  9-3.  」  参照。  )  以外には、何の後ろ盾もない、天涯の単身留学。

荒蒔氏が、キリンビールから派遣されて、大学院での研修を積まれたのに比して、私は、自ら率先して自分自身をNYのダンス界に送り込んだのだから、賄いは全て自前なのに決まっている。

ジェーンにルームメイトとして受け入れて貰った有難さはひとしおだった。

まして、慎重なジェーンが、最終的にこの約束を交わすに当たって、  “  Mom  ”  (  マーム  =  お母さん  )  を私に会わせて、自分が新しいルームメイトの候補として選んだ人物を検分させることも忘れなかったことなどを思い合わせてみても、  ・・・  。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

引っ越しの慌ただしさが治まった後で彼女に打ち明けられたのは、実は前のルームメイト、同級生のスーザンと仲たがいして、もう一所には住めないと思い詰めた末に決断したといういきさつ。

どうも、アパートの契約が自分名義であることを強みにして、新しい同居人(私)を決めて置いてからスーザンに立ち退きを言い渡したらしい。

さて一方的に追い出されてしまったスーザンの方は、しばらくするとクローゼットに残したままになっていた衣類や身の回り品を引き取りに来たが、知らない内にかつての自室を占拠してしまっている私に対しては普段のままの親しい態度を崩さず、さっさと荷物だけを手早くまとめると、顔色一つ変えずに立ち去って行った。

ジェーンの周到さといい、スーザンのあっさり割り切った反応といい、また再びアメリカ人の若者の特徴を興味深く観察させられる、  (  そして、何となく爽やかな後味の残る  )  貴重な体験だった。

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

アメリカ人は色々な意味で早熟。

といっても、  「  ませている  」  とか  「  すれている  」
という否定的な意味ではない。

この国の若者達の大部分が驚くほどに  「  大人  」  の感覚を身に付けているという点では、我が日本はまだまだ見習う余地がある。

私がここで言う   『   「  大人  」  の感覚  』  を英語に置き換えると一番近いのは  “  Open  ”  かも知れない。

ランダムハウス英語辞典によると、――

【20】〈人・心などが〉(思想・提案などを)受け入れやすい;(情に)流されやすい{to…};〈社会などが〉(変化に)寛容な,開放的な,進歩的な:

【22】〈人が〉(…について)隠し立てをしない,開けっ広げな,あからさまな{about…};〈人・言葉・顔つきなどが〉(人に対して)率直な,腹蔵のない,胸襟を開いた{with…} ;(人種・宗教などの)差別[偏見]がない

【23】〈人が〉寛大な,気前のよい:  

等々と列記され、私がもしこの辞典の編集担当だったら、【24】として、<人が>  「  練れている  」    「  出来ている  」  なども加えられるのではと思うのだが、百聞は一見に如かず、一度でもいいからJaneのようなアメリカ人のYoungギャルに直接会ってみれば、この語感は一発で分かるのでは ・・・。

いずれにしても、実際にJaneと暮らしてみて、彼女の物分かりの良さとさばけた生活態度、年長者  (  私  )  に対してそれとなく譲る如才無さなどにも、単に大人っぽいという表現で片付けてしまう訳には行かない、一社会人としての完成度の高さが示されていて、私はしばしば感服させられるのだった。

一つだけしかない別室を私に使わせてくれたこともその一例。

私とランの親しさは、彼女と住み始めた頃にはジュリアードのダンス科では知らない者は無かったので、そんな所にも気配りをしてくれたのであろう。

そして、ランが訪ねて来る時にはいつも、それとなく何処かに出かけて行って呉れるのだった。







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【  ジュリアード卒業のラストスパートを疾走する私の足の下で、
しっかりと安定感のある  「  地面  」  
の役割を果たしてくれた、
Janeのアパートとのお別れ。

裏庭を覆うように生い茂る大木の枝から滴り落ちる、
初夏の豊かな緑をバックに、
感謝を込めて、Ronとのパ・ド・ドゥを
この住まいのオーナー、Janeに捧げる ・・・。  

✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

1ブロックの四辺を囲む通りの外側を向いて、背中合わせに並んでいる “  Brownstone  ”  には、夫々一戸ずつに  「  裏庭  」  が付いていることも多く、街中にいることをしばし忘れさせて呉れるこのスペースは、住人達がご近所さん達と交流したり、都会の喧騒に疲れた心身を癒す場として活躍する。

‘54年公開、巨匠アルフレッド・ヒッチコックの監督したスリラー映画  「  裏窓  」  も、撮影の仕事中に大怪我をしたカメラマンが、自宅でのリハビリの退屈まぎれに望遠レンズで裏庭越しに近所の人達の生活振りを覗き見している内に、見てはならないものを見てしまうというプロット。

主演のジェームズ・スチュアートが素敵。  相手の恋人役を演じた故モナコ王妃、グレース・ケリーの、クール、かつセクシーな魅力も見ものだが、妻殺しの悪玉を演じた、レイモンド・バー  (  日本では‘60年代の人気TVシリーズ  「  ペリー・メイスン  」  のメイスン弁護士役でお馴染み。  )  がクライマックスでスチュアートに襲いかかる場面の迫力はスゴイ。
  
ジェーンも、2階から裏庭を見下ろす感じに作られた6畳ほどのこのポーチで、カセットテープの音楽を流しながら、まるで  「  裏窓  」  のスクリーンから抜け出したようなポーズで日光浴を楽しんだり宿題を片付けたりしていた。  】
 





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【  面白い写真。  私はソファーの真ん中に、多分私からのギフトと見受けられる小箱を手にしたジェーンは端っこに、2人ともめいめい勝手な場所に座っている。  

スモーカーだった彼女が、灰皿の置ける位置を選んだのは分かるのだが、それまで一度も一所に写真を撮ったことのない私達にとっては、せっかく最初で最後の記念撮影だというのに、だからといって、わざわざ私の傍まで寄って来ようともしなかった所がユーモラス。 

アラサーの私とハタチ前後のジェーン  ・・・。  

彼女はダンス一本に転向する前はフィギュアスケートの名手で、コンクールの上位入賞者だったそうだが、お互いに  「  ど根性  」  では一歩も譲らない、チョー個性派  “  Dancer  ”  の私とジェーンだった。

ラン写すレンズの捉えたこの微妙な距離こそが、実は、ルームメイト同士として旨く行っていた私達二人の秘訣だったのかも  ・・・ ?  】





✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩ ✩

さてこの  “  人生ドラマ  ”  も、ここいら辺でランの出番にスポットを ・・・。

私の相手役、即ち、このドラマのもう一人の主人公、ランが登場したのは、ジュリアード一年生の学年末、 ’72年5月  だったが、これは、‘70年8月20日に私がJFK空港に到着した瞬間に開いた、第二幕、“  NY  ”  の開幕20カ月後に当たり、比較的早い出番と言える。

私は当初、NY留学を3年間で終えて、‘73年の夏には永久帰国する予定だったので、  “  NY  ”  の幕はその帰国を区切りとして一応閉じ、また再び  「  東京  」  のシーンに戻って第三幕を続けて行く筈だった。

が、私が計画していた3年間の留学を36ヶ月のマラソンとするなら、18ヶ月の往路を快走し終って折り返し点を回り、いよいよゴールへ向かって復路にピッチを上げ始めた頃に、あるハプニングが起こったのである。

突然飛び込みでこのレースに加わったその一人の男は、私が気付いた時にはもう既に私と肩を並べて、私のペースにぴったり合った走法で走り始めていたのだ。

その男がランだった。

この出来事によって、  私の人生ドラマ、  “  NY  ”  の幕はシナリオを大幅に書き直さなければならなくなる。







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【  ランは私と同窓のジュリアード卒業生。    

上の画像は、  “  1969 GURADUATING CLASS  JUILLIARD SCHOOL OF MUSIC  MAY 29, 1969 “ とプリントされているように、’75年の私の卒業に6年先立って、彼がピアノ科を卒業した時の記念写真だ。






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NY―東京間の距離は6,737 マイル  =    10841.8541キロメートル。   

ランのジュリアード卒業と丁度同じ ’69年の五月末頃の私は、一万キロ以上も遠く離れた東京の北砂で、数年前に立ち上げていたバレエスタジオの第一回発表会を八月に控えて、その最終仕上げにわき目もふらず汗を流していた。  

海外に出るなどはもっての外。  

’69年の私は、東京でのバレエ生活に人生の  『  全て  』  を燃焼させていたのだから、一年後の‘70年に突如踏み切ったNY行きが、50年近くにもなる現在の、 アメリカ人ピアニストを夫とする   『  結婚生活  』  に繋がるとは予測の出来る筈もなかった。  】





続く: 「 彼と彼これ40年 ジュリアードで昼食を 9‐5.」へ 







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