バガヴァッド・ギーターを学びその教えを確信して、迷わず実践し没頭する世界となれば、その時の心境は、悟りの境地とし無欲、無恐怖、無執着の三無の境地になります。

そして、この三無
のなかの無恐怖については、2月1日のブログで、無恐怖と言う本質は、どんな状況になろうとも、クリシュナが全てを最善の道に導いてくれるという絶対なる確信であり、これこそが無恐怖と言うものである、と説いております。

また無執着の真意については、2月17日のブログで、精神的発展の大障害となる、肉体における欲望や人間としての欲望を、捨て去る事が大事であり、放棄こそが無執着の本質である、とも説いてきました。

今日は残りの無欲について、その真意はどんな事なのかを書きたいと思います。

無欲とは、一般的には欲を持たないとか、欲をなくすと言った様な意味に思われていると思います。

しかし、人間は欲をなくす事も求める事も、完全に無くすことは絶対に出来ないものであり、それを完璧に行ったらならば、それこそ人間の存在すら否定する事になってしまいます。

と言う事は、無欲とは欲を持たないとか、欲をなくす
と言った様な意味ではない、という結論が先ずは導き出されると言う事になります。

人間を本質的に分析すれば、動物としての肉体に魂が宿り、その肉体を駆使しながら、魂としての人間(じんかん)活動をしているのです。

従って当然、魂が宿った肉体を維持する為に、与えられた本能があり、先ずは生命を維持する為の欲望が生まれます。

そして人間は「じんかん」と言い、この物質界の中で、動物としての物質次元から、魂としての精神次元へ昇華する事の、修行をしているのです。

それ故、人間は数多の輪廻を重ねながらも、何時かはその意識に目覚め、精神的に向上しようと言う思いも湧いてくるのです。

従って、生命を維持する為の思いも欲望であり、また人間として精神的に向上しようと言う思いも、これも欲と言えるのです。

ではいったい、無欲の真意とは何かと言えば、それはその人にとっての欲の程の解釈にある、と言う事になります。

その人の欲の解釈によって、どんな事なら許されるのか、どんな事なら許されないのか、逆に、何処までなら許されるのか、何処からは許されないのか、これらの欲望による行動の正否善悪が決まってくると言う事です。

つまり、欲における正否善悪は絶対なるものではなく、究極的にはその人の個人的見解による解釈の問題であると言う事になるのです。

例えば、ギーターの12章20節における二つの団体の解釈の違いが、その団体の趣旨によって、この様に違った訳し方として出ています。

1-この献身奉仕と言う永遠不滅の道を行く人々、私を至高目的として、完全に確信を持って仕える人々を、私はこの上なく愛している。

2-以上述べてきたように、正しい甘露(不死の言葉)を信じ、わたしに専心し信愛を捧げる者、彼らは私にとって殊に愛しい。

この様に、その団体の集団目的によって、信者に対する解釈の違いや強さが違っているように思えます。

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覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ
これからはインド哲学バガヴァット・ギーター の時代です。

バガヴァット・ギーターはマハト・ガンジーが座右の書としたものです。

私は宗教団体には一切入っておません。

全て独学でギーターを身につけました。

私の主義は人を集めず、布施を求めず、去る者は追わず

私はその人の、自主自立、独立自尊を尊重します。

人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。

バール・クリシュナ・フミオ