昨夜、インド哲学塾の生徒さんからつぎの様な質問がありました。
ギーターの中に、「バガヴァッド・ギーターの真実、ありのままの内容は、人類にとって大恩恵である。しかし、これを哲学的に思弁した論文として受け取ったならば、読むだけ時間の浪費と言うものであろう」、と書かれているが、時間の浪費と言うものとは、どんな解釈をすれば良いのですか?と言う質問でした。
先ずこの文中の、哲学的に思弁した論文という意味の解釈が問題となると思います。
辞書では、思弁とは経験することなく、ただ純粋な思考によって、真理の認識に到達しようとすること」とあります。
つまり、実践行動することなく、頭脳を使って純粋な思考で理論を構築することなので、つまり頭脳の論理であると言うことになるのです。
それでも、頭脳を使って純粋な思考で構築した理論に自分が納得すれば、それはそれで立派な自己満足の境地を得る事が出来ます。
しかし、それでは単なる時間の浪費にすぎず、更に追及すべきものがあると、バガヴァッド・ギーターは指摘しています。
またこれと逆に、頭脳を使って純粋な思考で構築した理論を持たず、神の教えに基づいて、体を使って瞑想したり祈りを捧げたり、観念的世界を体得して歓びを得る世界もあります。
これら二つの道には、それぞれその道の限界と言うものがあるのです。
まず一つの道は、先ほど出てきた真理を哲学的に思弁した形で追及する形です。
そこでは、一番重要な創造主神の存在に気付かなかったり、また創造主神も我々と同じ人格神であるという、一番肝心な部分を無視してしまう危険を持ってしまいます。
例えて言うならば、がちがちの科学者が科学的根拠以外は真理の存在を受け入れず、それでいて科学の限界を知って初めて、神の偉大さを非人格的に悟るに留まっている、ようなものです。
そして二つ目の道は、自分の好きな神に対して、心と体を使って祈りや瞑想やマントラの唱えをもって、神と観念的世界を体得して神との交歓を図る世界であります。
それは、自己の本質や自然物質界や神々の役目、カルマや時間や宇宙と言った、創造主神のあらゆる真理を科学的に分析し、体系的に捉える精神知識に目覚める事が出来ない危険をもっているのです。
つまり修行(ヨーガ)においては、哲学的思考と、創造主神に絶対なる帰依心持つ、この二つを同時に備える事が必要なのです。
哲学の無い修行は盲信や狂信に陥りやすく、信仰の無い哲学は頭脳的思索で時間の浪費をすることになる、ということです。
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覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ
これからはインド哲学バガヴァット・ギーター の時代です。
バガヴァット・ギーターはマハト・ガンジーが座右の書としたものです。
私は宗教団体には一切入っておません。
全て独学でギーターを身につけました。
私の主義は人を集めず、布施を求めず、去る者は追わず
私はその人の、自主自立、独立自尊を尊重します。
人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。
バール・クリシュナ・フミオ