人間とは「じんかん」と言い、自己の認識によって、動物と魂の中間に位置する、物質と精神の中間的存在なのです。


つまり、人間として生きるその目的は、動物的存在から精神的存在に昇華することであり、それをなす為に修行の実践と言うものがあのです。


私たちの毎日の行動は大きく分けると、三つの行動を以って生活をしているのです。


1-生活をする為の行動


2-余暇を楽しむ行動


3ー自己完成の為の行動


この中で、生活をする為の行動と、余暇を楽しむ為の行動は、他の動物でも行っているのですが、自己完成の為の行動は、人間だけが成す行動なのです。


厳格に言うなれば、この行動なくしては人間としての存在意義はないと言えるのです。


つまり、宗教心と哲学を修得なければ、自己完成は成し得ないと言うことなのです。


その自己完成をなす為には、「精神知識の修得と心身の浄化」を行うことしかあり得ません。


この両方を修得してこそ、自己完成がなされると言うものです。


しかし、ともすると身体を使っての心身浄化は、頭を使っての知識の習得より面倒臭さや苦痛が伴います


それだけにどうしても肉体を使う修行を避けてしまうのです。


つまり、肉体を使って修行するよりも、肉体を使わないで手っとり早く、頭を使って自己完成を得ようと求めてしまうのです。


特にこの様な人は頭が良い人で、理解力や記憶力、分析力、統合力、推測力など頭脳能力に長けた人に、よく見られます。


しかしこれは大きな錯覚であり自己満足に過ぎないのです。


例えて言うならば、車の構造を隅から隅まで知り尽くして、それでもう車を自由に乗れると思いこんでいるようなものなのです。


しかし実際には、車を操作してその車の特徴を生かした使い方をしてこそ、車を利用する目的があるのです。


精神知識はあくまでも、修行をするその目的は何か、どの様に修行をすべきか、これら正しく修行をする為の、知識を得る手段なのです。


つまり精神知識の修得は、実践修行の為の手段であって、精神知識の修得だけでは自己完成の達成にはならない、と言うことなのです。


この実践修行の第一歩は、具体的には、毎朝ご先祖様にお水を捧げ、手を合わせお経を唱えることから始まるのです。


この作法は、最も身近で毎日行える修行であり、目に見えないものに対する感謝報恩を、肉体を以って表明す人間として尊い姿なのです


人間には神から与えられた宗教義務(ダルマ)があるのです。


それを供犠(ヤグニャ)と言い、供犠は自己の精神的発展を促すとともに、神を歓ばす行為でもあるのです。


供犠(ヤグニャ)の供は、供えるの意味があり、犠は、犠牲であり苦しみを意味するのです。


人は何か望を叶えようとする時は、好きなものを断ったりしますが、それも神様にお願いする供犠(ヤグニャ)なのです。


宗派によっては断食の苦しみや、肉体を傷めつる痛みを以って、供犠(ヤグニャ)とする宗派もあります。


つまり私たちは精神的向上の為に、自己の犠牲を捧げる苦しみを伴う行動でなければ、それは供犠(ヤグニャ)にはならない、と言うことなのです。


これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。


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覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ


これからはインド哲学バガヴァット・ギーター の時代です。

バガヴァット・ギーターはマハト・ガンジーが座右の書としたものです。

私は宗教団体には一切入っておません。

全て独学でギーターを身につけました。

私の主義は人を集めず、布施を求めず、去る者は追わず

私はその人の、独立個人、自尊独立を尊重します。

人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。

バール・クリシュナ・フミオ