人間が精神的に発展していく段階として私は、躾、道徳、倫理、宗教、哲学、の五つの段階があると言う事を提唱してきました。
私は、躾、道徳、倫理までは、この世で生きて行く為の身につけるべき精神知識であり、人間の人格向上を目指すことを目的とする段階であると、考えています。
躾、道徳、倫理の修得段階から、宗教へ昇る段階の条件は、この世での肉体をもって生活する視点から、今度は魂の気付きと死後の世界に想いを馳せる、死後の視点に立つ意識をもつかどうかが、その判断基準としています。
さらに大事なことは、魂の最終目的が生まれ故郷の、クリシュナへの帰郷であることを確信しなければ、どんな宗教もそれは、真理の部分か途中か、それとも幻想にすぎないと言うことなのです。
宗教の捉え方は、人によって様々な解釈があると思います。
ある教えに共感して、それを信じる事を宗教と定義するならば、それこそ神の存在や魂の存在を否定する宗教も、死後の世界が無であることや、輪廻はないとする教えも宗教となるのです。
もっと言うなれば、無宗教も宗教心であると言えるのです。
この様に宗教には悟りへの道として、いろいろな宗教の教理がある訳で、その教理自体の是非を問うことは、論争の元になるだけと言う事です。
宗教を学ぶには、いろいろある教理のなかで、共感した教理を学べばよく、その教えをどうこう言う必要は全くないのです。
つまりそれは、共感した教理がその人の精神的次元である、と言うだけのものなのです。
要は今生でどの教理を学んで、それを実践しながら真理を悟るかが、その人その人の宗教の道なのです。
この様に宗教の観点においては、正しいとか間違っているかの判断は必要ないと言うものです。
それと、集団で教えを受ける場合と、個人で独学していく場合いと二つの宗教の学び方がありますが、この学び方でも、好みにあうか合わないかなのです。
集団での学びには拘束があり、逆に独学では学びの独善の危険を犯しやさもあるのです。
そして、もう一つ大事なことは、宗教はその教義に深く入り込んでいくほど、現実にこの世で生活をしていく事に、支障をきたしてしまう恐れもあるのです。
宗教は、躾、道徳、倫理の修得をなし人格の向上を真剣に求めて生き抜いた果てに、生きる意義に目覚めた人が、自らが自然に求める道なのです。
つまり、宗教を超えた哲学の存在を知らない者は、永遠に宗教の世界に留まるだけなのです。
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覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ
これからはインド哲学バガヴァット・ギーター の時代です。
バガヴァット・ギーターはマハト・ガンジーが座右の書としたものです。
私は宗教団体には一切入っておません。
全て独学でギーターを身につけました。
私の主義は人を集めず、布施を求めず、去る者は追わず
私はその人の、独立個人、自尊独立を尊重します。
人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。
バール・クリシュナ・フミオ