昨日まで享楽について記述してきましたが、そこでは享楽と快楽の違いを鮮明にしました。
そこでは、その根本的な違いを次の点においております。
快楽=肉体の五感覚器と心をおとしての悦び。
享楽=魂の、人間性を向上させる精神修養(プラトニック)としての歓び。
この二つの観点から、それぞれ二つの恋愛の形が導き出されてきます。
1-肉体感覚の悦びを主体とする恋愛。
2-精神的な歓びを主体とする恋愛。
この両方とする考え方もありますが、ある一点を守る事において、その境界とするものがあるのです。
それは、絶対に肉体的接触をしてはならない、との一線なのです。
宗教には必ず戒律と言う、守らなければならない原理原則と言うものが定められてます。
ここで大事なことは、この原理原則の戒律を知っているが出来ない事と、戒律を全く知らないから出来ない事には、同じできない事であっても雲泥の差があると言うことなのです。
一方は目標に向かって努力すしても、完璧には出来ないの出来ないであり、もう一方は目標もなく努力もしないで出来ない、の出来ないなのです。
当然この場合の出来ない状況は、同じように観えても、精神的観点からすれば、それは天地の差ほどの違いがあると言えるのです。
また原理原則を知っていたならばその行動には、自制と後悔の念が付きまとうが、原理原則を知っていなければその行動は、欲望に翻弄された野放図な行動となってしまうのです。
それは、欲望にいは進行性と習慣性が付きまとい、どんどん貪欲に変質していく根源的な性向を持っているからなのです。
当然、恋愛において、この原理原則を知らなければ性欲に突き動かされた、性愛的な方向に進んでしまうのです。
しかしその欲望が、自己の人間性や魂を高める精神的な欲望であれば、それはどんどん発展すべきものなのです。
そして、その恋愛はとうぜんプラトニックラブと言った精神的な愛となります、このプラトニックラブについても12月18日のブログ に詳しく記述しております。
決して欲望自体は悪いものではないのです、要するにどんな欲望を持つかなのです。
そのキーワードは、「肉体的なものから精神的な方向へ」と言うキーワードなのです。
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覚者よ我を観よ 智者よ真理を聴け 勇者よ我と共に学べ
これからはインド哲学バガヴァット・ギーター の時代です。
バガヴァット・ギーターはマハト・ガンジーが座右の書としたものです。
私は宗教団体には一切入っておません。
全て独学でギーターを身につけました。
私の主義は人を集めず、布施を求めず、去る者は追わず
私はその人の、独立個人、自尊独立を尊重します。
人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。
バール・クリシュナ・フミオ