1993 | T☆Mのmenantikannya

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58歳になりました^^

ギリギリまでまとめた仕事が終わった時は

東京の最終の新幹線はとっくに終わり

仕方なく当日の始発で名古屋から向かった

 

車内から携帯で東京の元部下に

東京駅まで車で迎え来るように伝え

早朝のビールを飲んでタバコをふかすと

ようやく安堵感が溢れ

どっとくたびれ果てた体を

グリーン車のシートを倒し

目をつむった

 

東京駅で元部下のセドリックに乗って

目白の椿山荘へ向かわせた

小雨が降ってる東京を車窓から眺め

「せっかく景色がいいんだけど残念かもな」

とつぶやく

 

ようやく目白に着くと

皆が心配した様子で俺を急かす

新婦は衣装と化粧で今手が離せないけど焦ってたよとみんなが言う

そりゃぁそうだろうよ

肝心の新郎が名古屋からギリギリのご到着

 

急いでタキシードに着替えた

 

なんとか間に合ったな!と一服すると

元部下が...「支店長が遅れるかもだそうです」と

おぃおぃ主賓が遅れたら誰が挨拶するんだよと

「お前のとこの会社はみんな忙しすぎだな」と

「誰か主賓の代わり出来る人いない?」と

 

もうそっちでやってくれ〜今日は俺は主役だぜ?

しかも俺も今到着して式が始まる前にクタクタだ

 

そんなドタバタで始まった結婚式

場所は目白のフォーシーズンズ椿山荘

この写真を掲載したのは

亡くなった母親が写ってる写真だから....

 

俺は17歳で家を出てから

この時までほとんど家にも帰らず

大人になってからの母親との写真も少ない

2.3枚しかない

電話でなく直に顔をあわせるのも

結納で会った時以外!?....2年ぶりだった

 

だからコムサ時代の親の様子はほとんど知らない俺

 

毎年年末になると「今年は帰ってくるの?」

と母親から催促の電話があったが

「忙しい」と帰省しない年が続いた

もちろん「祭り」にも参加してない時代...

 

スタッフに作ってきたテープを渡し

これを式で流してくれと伝えた

 

ゴッドファーザーのテーマ

BOOWYのテーマ

MODSのテーマ

セックスピストルズのテーマ

 

どれもこれも結婚式にそぐわなそうな

音楽だった♪

 

式も終わり仲間たちとバーへ駆け込み

宿泊のフォーシーズンズの部屋に着いたのは

すでに日が昇り始める頃だった

 

一時間ほどベッドで体を休め

熱いシャワーを浴びて

寝起きのワインを飲んだ

懐かしいコムサデモードの紙袋に

着替えなどをまとめ

ホテルのスタッフに郵送してもらうよう頼んで

成田空港へ向かった

 

そして人生初でその後何度と行くバリ島の地を踏むことになる

1993年当時のバリ島の空港は

まだ小さく薄暗くしかし着いた瞬間から

バリ島独特に匂いと強烈な湿気を伴う熱気に

異国の島に来たと否が応でも体が感じる

 

たくさんのガイドが空港で待っていた

その中で自分たちの名前を見つけるのは

大変だった

当時はまだHISなどなく

JALパックなどが主流だったと記憶している

ガイドの車に乗って向かった先は

当時バリ島の観光開発が盛んだった

ヌサドゥアというリゾート地

 

正直俺は毎日の仕事で疲れきっていて

どこでも良かったし

バリだろうがパリだろうが

仕事をせずに現実から逃避できればそれで良かった

 

バリ島に行くと決めたのも奥さんであり

宿泊先も全て奥さんが予約してくれた

とにかく俺には仕事以外の時間がなく

そんな余裕すらなかった

 

男は人生の中で死ぬほど必死に働く時期が大切というが

確かにこの頃は寝る以外の時間は全て仕事に没頭して

相当に心身が疲れてた

若くなければ倒れてたと思う

(実際2回倒れたが)

 

バリ自体に全く興味もなく知識も皆無だった

行きの成田空港で急いで地球の歩き方を買うほど

身も心も準備できてないほどだった

 

バリ島に着いた瞬間を今でも鮮明に覚えている

それは人生初めての「開放感」だった

そしてそれはたとえ用がない「快感」だった

 

忙しさゆえの「幸福感」であり

この感覚は日常の辛さがなければ味わえない

 

現在のような比較的自由な生活をしてる俺には

決して二度と経験できない「幸せ度」だった

 

日本のフォーシーズンズの豪華さに驚かされたばかりだったが

バリ島のヌサドゥアのホテルの敷地の広大さに

目を奪われ

この解放感は日本では味わえない感動を覚えた

 

プトゥリバリ

今となってはごくありふれた部屋だが

当時の俺たちには十分すぎるほどのリゾートな空間であり

この空気の虜になるのに時間はかからなかった

 

26歳という若さもあって疲れはすぐに吹き飛ぶ

 

シャワーを浴びてTシャツに短パンに履き替えると

自然と口角が上がってしまう

とてつもない喜び♪

まだ着いたばかりだというのに

「もう日本に帰りたくない病」を発症してしまった

初めてのバリだし

まだ「何もしない贅沢な時間」なんてできっこない若者

いわゆる普通の観光客と同じに

マリーンスポーツも満喫したし

舞踊を見たりケチャを見たり人形劇も見ようと

アクティブに遊んだ

当時のバリはまだまだ田舎で

掘建小屋のようなチープな家も多く

ただただそんな村の様子を歩くだけで

刺激的で新鮮で楽しかった

 

すれ違いざま、はにかみながら微笑むお母さんたち

手を振ると恥ずかしがって逃げる子供達

買って買ってと付きまとう売り子たち

時にはイラっとしたり邪魔くさい連中も多かったが

すぐにバリ人を好意的に感じるようになった

全てが日本ではない!

時代が10年も20年も遅れてる感じのバリは

優越感すら感じ

日本の豊かさを感じ

同時に日本が置き忘れた何か?を感じながら

過ごした

 

当時の旅日記には

「1万円で王様気分」と書いてある

(当時はブログもSNSもなかったからね)

 

まだ旅慣れてない

しかも海外だってヨーロッパしか行ったことない

日本より遅れてる(表現が的確でないかな?)

アジアの旅は

「贅沢な気分になれちゃう疑似体験ができるバリ」だった

 

至れり尽くされるサービス

日本なら大金を払わなきゃ受けれないサービスを

20代の若造が味わえるなんて

夢心地だったのだろう

 

ホテルでの王様気分待遇(当時はそう感じた)

一歩外へ出ると素朴な人々と質素な街並み

エネルギッシュでディープな市場やワルン

ゴミの腐った臭いが漂う路地

うるさいくらい付きまとう売り子

そのウザさから回避するために逃げるように入る

外国人専用のカフェやレストラン

 

この格差がたまらなく魅力的だったバリ

 

この時は初バリだったので

ベモ(相乗りバス)を乗るために(右下の車窓の写真)

地球の歩き方を持参してた

 

おかげでひたすら迷った

のちに俺は地球の歩き方を「地球の迷い方」とからかった

 

ワルンに入ってもメニューもわからず

毎回ナシゴレンとミーゴレンとサテアヤムを

繰り返し頼んでたと思う

ご飯を手で食べたりもした

くそぬるいビンタンビールとコーラと

口の中に粉が入り込むバリコピを飲みながら

それでも不思議なほど日本食を恋しく思わなかった

その後他の国に行くと一度は日本食が恋しくなったから

よほどバリの飯が自分には合うんだろうなぁ

別にさほど美味しい料理に出会ってないのに

なぜかバリでは日本を思い出すことがなかった