30年目のバリクバヤン  -15ページ目

30年目のバリクバヤン 

「バリクバヤン」とは、フリィピンの言葉で「里帰り」の意味。
1978年にフリィピン人と結婚。今年2月にサラリーマンを卒業。
4月下旬から3週間の里帰りを予定しています。
出会い~結婚~現在までの38年間と里帰りの顛末を綴ります。

12月16日の水曜日は、偶然私と妻が二人揃って休日だったので、午後から近くのシネコンで映画を見た。「007」の最新作である。ストーリーもアクションも非常に楽しめるのだが、ジェームス・ボンド役の役者がしっくりこない。私のイメージは、ショーン・コネリーかロジャー・ムーアが記憶に刷り込まれており、他の役者は受付ないようだ。


日本映画だと「寅さん=渥美 清」「釣りばかのハマちゃあ=西田 敏行」と同じ役者が同じ主人公を演じることが多いが、外国では違うのか?


確かに007の主人公はもう何人もが演じている50年以上続いていると思うので仕方ないのだろうか?


最近は、休日は自宅で過ごすことが多く、二人で外出と言えば、墓参り・初詣・藤沢の兄宅訪問くらいか?


出かけるのが億劫になってきている。東京近辺で新名所が出来ると良いきっかけになる。


今度浅草の六区に出来た日本全国の名産地が集まったビルが出来たらしいので出かけたいと思う。


妻も最近は、クリスマスでも全然予定がなく。仕事と休みは休養しているのみ。


二人とも冬眠のクマの如し。

フリィピン人の家族をみていると身内に甘すぎる。子供に対して大甘である。


face bookのコメントをみると、「maganda」「sexy」と言う言葉が連発される。妻の親戚をみても同じである。私から見て本当に美人もいればそうでない人もいる。お世辞を通り越して、褒め殺しに近い。子供が何か買ってくれというと無理しても何とか買ってしまう。私も親の立場から言えば気持ちは判るが、例えば自分の収入に比較して無理だと思えば子供を説得してでも諦めさせる。究極は自分で働いたら買えば良いである。


子供に我慢させる、辛抱・待つことを教えることも大事な教育(しつけ)の一つであり、多数のフリィピン人家庭で欠けていると感じる。


私の親戚での過去最大の身びいきの話をする。

今から20~25年前の話である。妻の弟が酒の上のトラブルで人を殺したらしい。(妻から聞いただけで事実ははっきりしないので「らしい」と言わせていただく)

弟は山の中に逃げ、親戚が食料や生活に必要なものを届けたとのこと。私は妻に「弟は警察に自首したほうが少しでも罪が軽くなるよ」と話したら、「弟はやさしい性格で絶対相手が悪いに決まっている」という妻の答え。


遠いフリィピンの片田舎の話なので、それ以上私には何も出来ずそのまま放置。10年くらい経って何気なく、その後の

弟について聞いてみるともう山を降りて家に住んで普通に暮らしているとのこと。罪は償わないのに大丈夫か?と聞いたら「山の中で10年近く反省したから、大丈夫」とのあいまいな答え。


実は甥っ子に力の有る警察署長がいて、何かがあったらしい。


これでは、法律も機能しないフリィピンの未来は明るいとは思えない。フリィピン人自身がこの国を変えないとこの国は、残念ながら「ダメ」になる気がしてならない。


折角縁が出来たフリィピンという国が今よりも更に暮らし易い国になってもらいたいので指摘するのである。

約3週間働いて、仕事には慣れたが体のアチコチが痛い。

特に脚と腰。一日中立ちぱなしなのと、低い位置にある物を取ることが多いので腰に負担が来る。私は背が高い(180cm)ので、余計応える。これは慣れることと、OFFの時にしっかり休養するしかない。元々スポーツが嫌いなため筋肉とか鍛えるということとは無縁なので、慣れることに期待。


仕事は単純作業なので、頭を煩わす事はないが、ベテランのパートさんの熟練には頭が下がる。約1000種ある、商品の番号と名前と何処の棚に置いてあるかが頭の中に入って

いる。こちらはリストに書いてある所在番号から辿って行くしかないので、スピード(作業量)に差が着く。


年末は多忙なので、2/21~12/26は休日も土曜日も出勤と

聞いているので今年はクリスマスはやりません。(といっても、ケーキを食べるだけですが)


12/27~1/3は休みなので、お正月はゆっくり出来そうです。

今から37年前の1978年12月10日、PAL742便で妻が成田空港へ到着した。時間も20:00頃着陸し21:00頃全ての手続きを終えて遂に日本での新生活がスタートした。


私はいつまでも12月10日を忘れない。今後もずっーと。

私達の原点を思い起こせばどんな苦労も乗り越えることが

出来る。また今の幸せに感謝する気持ちを持ち続けるために。


多分、妻は忘れていると思うが、私は忘れることは出来ない。特別なことは何もしないし、妻にも言わずそっと私だけの胸の奥に大切にしまっておくことにする。


感謝、感謝。

私の手元に2冊の古い妻のパスポートがある。

日本に帰化する以前のフリィピン・パスポートである。


最初の発効日は、1978年8月18日。結婚したのが8月1日で

マニラの日本大使館で日本の婚姻届を提出したのが8月2日。私は多分8月4日頃に一人で日本へ帰国したから帰国する前に妻へパスポートの取得を指示した、妻は忠実に

私の指示を守って行動したみたいだ。


当時のフリィピンのパスポートは全て手書きで「氏名」「身長」「髪の色」「目の色」「出生地」「生年月日」が記載されており、最後に本人のサインがある。


その前のページに大きめな顔写真(6.5×6.5cm)と写真の上に本人のサインがあり、そこに何かのスタンプが押されてあり、その上からラミネートが貼られている。


今、気付いたが生年月日が1954年5月4日となっている。

本人には確認してないが、日本側の書類は1954年5月19日となっているので、以後の書類と誕生日は5月19日になっている。


有効期限は2年間で1980年8月17日までとなっており、2年後に東京のフリィピン大使館(当時は渋谷の南平台にあった)へ行き、同じパスポートの有効期限の下に書き換えて簡単に2年延長出来る仕組みになっていた。

1980年7月28日手続き、1982年8月17日まで有効で大使館のスタンプが押されている。


最初の発行手数料300ペソ。延長手数料6,360円(150ペソ)。