テレビ あれこれ② | 30年目のバリクバヤン 

30年目のバリクバヤン 

「バリクバヤン」とは、フリィピンの言葉で「里帰り」の意味。
1978年にフリィピン人と結婚。今年2月にサラリーマンを卒業。
4月下旬から3週間の里帰りを予定しています。
出会い~結婚~現在までの38年間と里帰りの顛末を綴ります。

昭和43年4月に入社した私達(この年、200人程度入社)の内、100人程度はカラーTVを製造している大崎工場に配属になりました。


その工場では、10月の発売に向けて2交代(一部交代)で勤務し、ブラウン管を製造していますが、まだ完全自動化されてなく、手作りで製造しています。ブラウン管の内側に発光体(蛍光塗料)を塗布し、赤・青・緑の縦のストライプ状にするのですが。この工程がネックになり、AM7:00からPM10:00まで稼動しても100本/1日しか出来ません。不良品も多くTVの組み立てにまわされるのは、70本/日程度です。


7月くらいから月に2・3度徹夜で生産します。

毎月50人くらい人を増やして人海戦術。

一方で工程の機械化を図ります。


幸い10月の発売開始から好調で、全国の電気屋さんで飛ぶように売れました。

13インチのカラーTVが約13万です。会社は直ぐに6インチと19インチの開発に取り組みます。


翌年の昭和44年春には工程の自動化が完成し、1分間に1台完成するようになりました。900台/日と生産台数は飛躍的にUPします。好調な売れ行きに支えられ、自動工程を4工程に増やし、最終的には3600台/日となります。

それに連れ価格は下がり、99,000円、70,000円、49,000円と

低価格になって行きます。


会社は、その後製造拠点を名古屋と米国のサンジェゴとイギリスへ拡大し、私の多くの仲間が各拠点へ技術指導をしに散っていきます。


1970年前後の日本の良き時代の出来事です。

その後、一時韓国製のTVが流行りましたが、最近は再び日本製品が脚光を浴びています。