1970年 大阪万博 | 30年目のバリクバヤン 

30年目のバリクバヤン 

「バリクバヤン」とは、フリィピンの言葉で「里帰り」の意味。
1978年にフリィピン人と結婚。今年2月にサラリーマンを卒業。
4月下旬から3週間の里帰りを予定しています。
出会い~結婚~現在までの38年間と里帰りの顛末を綴ります。

1970年に大阪で開催された「EXPO70」は私が丁度20歳。

8月の休みを利用して友人4人組で3泊4日の日程で

行った。


この年は、開催前から空前の万博ムードで三波春夫の

「世界の国からこんにちわ」のヒットも有り、大阪のホテル・旅館は相当価格が高騰しており、なかなか手が出せない。


そんなおり、政府が打ち出した施策の一つが会場近辺の公共施設やお寺での民泊である。

我々もこれを利用した。


東京~新大阪まで新幹線で3時間強。乗り換えて地下鉄で千里ニュータウンへ、駅から会場までの動く歩道は大混雑。


しかも真夏なので、汗だらだら。どこのパビリオンも長蛇の列です。これを我慢しないと何もみれません。

初日は、比較的混んでいない外国館を主に廻りました。

マレーシア・インドネシア・フリィピン等です。

いま思えば、これが私とフリィピンの出会いかも知れません。展示物は覚えていませんが、女性コンパニオンがマガンダだったことは覚えています。テルノという肩パットの入った民族衣装がGoodです。


2・3日目は開場と共に入場し、人気パビリオンに並んで見学しました。アメリカ館の月の石、どこか忘れましたがホワイトタイガーを見ました。


NTT(当時は電電公社)では、携帯電話の元祖を初体験で用もないのに東京の自宅へ掛け、母と会話。(今、考えると

コードレス電話だと思います)


太陽の塔、360度マルチスクリーン等というものもありました。場内では、当時珍しかったピザやハンバーガーなどを食べました。併設されているエキスポランドは大混雑で行くことが出来ません。


とにかく6ヶ月間で日本の人口の半分近くが行ったという世紀の祭典です。


私の手元には、万博協会発行の公式ガイドブックが45年経った今でもあります。


私の目を世界に向けさせてくれた出来事です。