長谷川穂積、2階級制覇成功チョキ


長く守り続けてきたバンタム級王座陥落と母の死。


訪れた試練を事跳ね返し、観客席で見守る母の遺影に見事な勝利報告。


はい、感動して泣きましたけど、何か?べーっだ!


いやいや、今日言いたいのは、そんなことじゃないんです。


あれほどのチャンピオンでも、試合中はやはり自分を客観視できなくなる時があるのだ、と改めて知りました。


これまでの長谷川は、アウトボクシングとインファントの切り替えタイミングの絶妙さ、それに加えてスピードとコンビネーションで対戦相手を圧倒するボクシングを見せてきましたが、今夜は違った・・・。

階級を2つ上げたことで減量苦から開放され、体が一回り逞しくなってパンチ力が増したことに自信を深めたのか、ほとんど足を使わずに大振りが目立ちました。

ところが、8Rあたり?、目尻をカットした流血で視界が悪くなったのを機に、当てられることを避ける為に本来のフットワークが戻り、体の力が抜けてパンチスピードも上がったのです。

これが本来の長谷川、と少し安心して観ていたら、流血が止まった終盤は再び元に戻ってしまいましたが。


判定まで持ち込まれた勝負は大差で制した長谷川。
しかし、とてもいつものように安心しては観ていられない試合運びでした。


そして試合後、リング上での勝利インタビュー。

「瞼をカットされてからは、いつもの自分のボクシングができませんでした」のコメント。


えっ!?逆じゃないの?

試合中、解説者も自分と同じ見方をしてたはずだがなぁ・・・。



母の為に何がどうあっても勝ちたいという気持ちが、長谷川ほどのチャンピオンをして、自分を客観視する眼力を狂わせたのか。

おそらく、次回は同じ轍を踏みはしないだろうけど、戦っている当事者にしかわからない機微があるのと同様に、外から見ている素人傍観者にしかわからないポイントも意外にあったりするのがスポーツの怖いところ。


多分トレーナーも気付いてるはず。

次はスカッと!
期待してます。



昨夜は珍しく早く帰宅できたので、一杯やりながら久々のテレビ三昧。


NHK『プロフェッショナル~仕事の流儀』から、テレ朝『報道ステーション』でのスポーツコーナー、ロッテ今江選手の特集、そして再びNHK『ドラクロワ』と、オヤジ殺しの浪花節な内容3連チャン。

涙で顔がグシャグシャですがな。


特に最後の『ドラクロワ』は、人生を左右するようなドラマティックな苦労話を紹介する番組。

まさにど真ん中のどストレート。


「人生の応援歌」?コーナーで取り上げられたのは、中島みゆきの『時代』。

簡単に言うと、夫が酒乱で毎日暴力を振るわれ、「いつ逃げ出せるか、どうやって殺してやろうか」と思い悩みながら暮らしていた、北国のある主婦の物語。

失礼ながら、ここまではよくある話といえばよくある話。

だが、ここからがちょっと違う。

そんな生活にとうとう耐えかねたその主婦は、ある日、自殺を考えて幼い子供3人を車に乗せ、文字通りの崖っぷちへ。

後はアクセルを踏み込んで、数メートル先の死へ車ごとダイブすれば全てが終わる、となったまさにその時・・・、暴れた子供の足が偶然ラジオのスイッチをON。

そこに流れたのが中島みゆきの『時代』だった。

「今はこんなに悲しくて、涙も枯れ果てて、もう二度と笑顔にはなれそうもないけど・・・そんな時代もあったねと、いつか笑って話せるさ・・・・・巡る巡るよ時代は巡る。喜び悲しみ繰り返し」

そして、同時に舌っ足らずな3人の子供達の「お母ちゃん、死にたくないよ」の三重奏。



え~、うそ~ん、話が出来すぎてるや~ん、と思いながら、瞬間でゲリラ豪雨のようなむせび泣きですわ、自分。



我にかえった本人、アクセルとブレーキを踏み間違えないように慎重にギアをバックに入れて・・・、紆余曲折ありながら3人の子供を無事ひとりで育て上げ、現在は再婚して幸せな毎日。


もし、子供の足がラジオを点けなかったら。
もし、ラジオから流れたのが『吉田照美のやる気まんまん』だったら・・・。(照美さん、すんません)


これは最早、偶然ではなく必然。
彼女とその子達は生きる運命にあった、としか言いようがない。


こんな話は、多くの若い人や、年齢に関わりなく死を考えるほどの絶望感とは全く無縁の幸せな境遇に身を置く人にとっては、現実感のない絵空事でしかないかもしれない。

でも、想像してみてください。
歯車がひとつ狂えば簡単に地獄をみるのも人にはよくある話。
けして他人事と鼻で笑っていられない状況に自分が陥った時、自分をそこから救ってくれる応援歌が、あなたにはありますか?
依って立つ何かはありますか?



なんで問いかけ口調?
何者やねん、俺(笑)

先日のどうでもいいカミングアウトに続く第2弾。



実は、私、本を全然読みません。

基本的に面倒くさがりやなので、すぐ途中で飽きて放り出してしまいます。



貪るように一番読んだ時期は中学生まで。

それも、いわゆる文学作品とは程遠いドキュメントものや、星新一、筒井康隆ばかり。


大人になってからも小説とは縁遠く、専らスポーツドキュメントやレポートものに限られます。



仕事がら少し前は頻繁に、現在も時には年代の離れた若いお嬢さんたちと接触する機会があるんですが、

その中には読書家の女子高生なんかもいたりします。

その娘に比べたら1/10、いや1/100も本を読んでいない、たぶん・・・。


せいぜい夜を徹して読んだとしても、「パチンコオリジナル必勝法」「競馬新聞」の類。

その中で人間の真理を・・・、探せるわけがない(笑)。

そもそもこれを読書とは言わないです。



なぜ面倒か。

なぜ読まないか。



推理・サスペンス・・・あ~面白かった、で何も心に残らない。


時代・歴史小説・・・感動が残っても、わずかな史実と推測だけで人物像やらを勝手に決め、美化してるのが気に入らない。


文学小説・・・小さなことを「ああでもないこうでもない」と勿体つけて大仰に語るのがまどろっこしい。



そんな理由がいくつかあったりするわけですが、一番の大きな理由。その根底には・・・、


どんなに些末なことでも、議論や思索を究極まで突き詰めると、必然的に最後は宇宙の真理とか、万物の存在理由とか、結論の出ることのないそっち方面に行き着いてしまうと勝手に思い込んでしまっている精神があるからです。


やれ「心理の葛藤」だの、やれ「思想的発展」だの言ってみたって、答えの出ないことにグジャグジャと言ってみたって始まるまい、と思ってしまうからです。


つまり、変な意味で悟っちゃってるわけですね(笑)。

(これが早々と哲学に背を向けた根拠でもあるわけです)


ごちゃごちゃと紙の上や口で理屈を言っとらんと、人間は七転八倒しながら己の生涯をただ全うすればいいんじゃ、と。



多分、世の聡明な方々からすれば、無知で愚かな発言と知りつつ、そうした理由で私はある時期から読書を放棄してしまいました。



しかし、簡単でありながら大事なことをひとつ忘れていた報いで、今とても苦しんでいます・・・。


物事の真理を語る以前に、日常や仕事上の様々を表現するために必要な、知識や論理の構築に読書が欠かせない、という当たり前な事実です。


専門的な知識では到底大学生に及ばず、言葉のボキャブラリーでも一部高校生にさえかなわない無知な自分。


遠い昔のわずかな勉強の遺産と、屁理屈の上手さだけでアウトプットを続けていますが、限界はすぐそこに・・・。



<結論>

やはり、人間、読書という知識のインプットは重要です。




ね、知識が無いと、こんなまとまりのない文末になってしまうわけですから・・・。