セーフティーバント、『ブルーロック』、日常の中での会話 | 思索の森

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「労働する思索家でないとダメ」という恩師の言葉は、自分の人生を生きていくうえでの、とても重要な意味を持っている。日々の想いを綴っていきます。

ワールドベースボールクラシック(WBC)のイタリア戦での大谷選手のセーフティーバント。それまでは重たい雰囲気だったと解説者が話していた。確かに見返してみると、初回の先制点のチャンスだった場面で、大谷選手の鋭いあたりは、イタリアの守備に阻まれてしまった。そのあとに続く選手も得点をすることができず、0対0でどちらに転んでもおかしくない均衡状態。

 

そんな中で迎えた3回の大谷選手の打席。同じ大谷選手への対策としての守備(大谷シフトというらしい)で、初球に意表をつく技ありの一本。相手のピッチャーもあわてて悪送球をしてしまい、ランナーが一塁、三塁。その後の打線もつながった。大谷選手のセーフティーバントが成功した瞬間は、まだ点数は入ったわけでもないにも関わらず、球場はまるで勝っているかのような雰囲気に変わったとのことだった。

 

たしかに映像からもそうした雰囲気を感じ取ることができた。1プレーで一気に変わる会場の雰囲気。一度いい流れが生まれると、その雰囲気に後押しされて、いい流れがよりいい流れを呼び込む。その回に一挙4得点。運がいいということも、そういういい流れをつかめるかどうか。ここぞというチャンスを逃さないかどうかということに深くかかわっているように思う。

『ブルーロック』というサッカー漫画のアニメを最近見ているのだけど、その中で運というものについて登場人物のあいだでのやりとりがあった。そのシーンの中で、運という偶然の産物は、誰にでも等しく訪れるものだけど、そのチャンスに気づくことができるかどうか。いざチャンスが来た時に、いつでもそのチャンスをつかむ準備ができているかどうか。

 

ただ偶然の産物なのではなく、運を手繰り寄せることができるかどうか。運がいい悪いの違いはその差であるというものだった。運が悪かったとあきらめるのは言い訳であって、その時に運をつかむことができなかったという事実。その運をつかむための準備ができていなかったか、その運に気付くことができなかったということが、運を手にするかどかの違いであるというような話だった。

 

必然の中に突如として現れる偶然という現象。偶然も起こるべくして起こる。なんだかなるほどなと思ってしまった。実際、運は自分自身の日々の取り組むや姿勢、あり方に左右されうるものなのだと改めて思った。いい調子の時には、運もいい気がする。そんなときは、悪い想像や不安などは一切抱かない。できる感じがするとか、イメージできているという時も、運をつかむことができる状態であるように思う。

 

具体的にその何かは、その瞬間にならないとわからないけど、その運を引き寄せるのは自分自身なのだと思う。運が訪れるときにはいい流れがあるように思う。滞りなく、すべてが有機的に巡っている。隅々にまでいきわたっている状態。そういう時には、その場のことがよく見えていて、全体のダイナミズムの中にいるのだと思う。

 

でも、その渦中にいるときには、ただただ目の前のことに一生懸命で、でもそういう状態だからこそ研ぎ澄まされている。視界は広く開けていて、頭はクリアな状態。無我夢中で、目の前の場に集中している。その瞬間はもうそのことでいっぱいで、振り返ってみるとそんな状態だったなと思うことがほとんどのように思う。狙ってつかめるものではないが、いつでも準備は万全の状態でいることが必要なのだと思う。

日々の生活の中での、人とのやりとりにおいても、いい流れ、いい雰囲気かどうかということは、その場にいる居心地のよさであったり、安心感だったり、自由でいられるかどうかということに深くつながっている。自ら明るく言葉を発することで、そのあとがパッと軽い感じで、やりとりが弾む。そういったことも偶然に起こるのではなく、意識的に行動することで次の展開につながる。

 

その場でじっと黙っているだけだと、どよんとした雰囲気で時間が経つごとに重くなってしまう。パッとその場で思いついたことも、その瞬間に場に出さないと鮮度が落ちていく。思いついたことをその瞬間にその場で出すことができると、そこから展開していく。思いついたことは可能性であり、その可能性を生かすも殺すも自分次第だ。