もうダメだと思ったところからの一歩(追い込まれるからこその底力) | 思索の森

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「労働する思索家でないとダメ」という恩師の言葉は、自分の人生を生きていくうえでの、とても重要な意味を持っている。日々の想いを綴っていきます。

ある地点に達すると、ある程度自分の中での幅ができる。

 

幅というよりは、伸び代ができる。

 

目の前に訪れたことに対しての対応も柔軟になって、物事をスムーズに進めることができる。

 

円滑に進める術を身につけたことによって、焦らずに落ち着いて対応することもできるようになる。

 

何もわからない時には、とにかく頑張るしかできないけれど、頑張らなかったらもちろんそこまである。

 

わからずともとにかくやっていると、取り組んでいることがだんだんと繋がってきて、それぞれの関連性が見えてきて、全体像やそれぞれの位置付けが輪郭を見せてくる。

 

いずれはぼんやりと現れたものが、はっきりとしたものになっていく。

 

そうしてはっきりしたものとして掴むことができるようになると、そのことは自分が使いたい時に使うことができるようになる。

 

ある程度のところまでいかないと、その繰り返しが必要であるが、ある程度までいくとそれを維持するだけでも、大丈夫になる。

 

でも、それは完全な勘違いであり、誤解なのである。

 

大丈夫と思っているだけで、実際大丈夫だったとしても、その先にも道は続きている。

 

自分自身で作ったゴール設定というのは、その時点の自分が設定したものである。

 

ゴールに到達した自分というのは、その先に新しい道を見つけているはずなのである。

 

でも、それに向かわないということもできる。

 

今の到達点をキープするということもできる。

 

だけどそのように止まってしまうと、だんだんとそのものは劣化していく。

 

そのものが価値がなくなってしまうということではないとしても、相対的に価値が下がっていく。

 

常に変化し続けること。進化し続けること。自分を更新し続けること。

 

もうダメだと思うような場面に直面するというのは、まだその先があるということである。

 

その先に行きたいか行きたくないか、行くか行かないか。

 

それは自分の自由であり、好きな方を選べばいい話である。

 

自分にとっての納得感であり、気持ちのいい方に踏み出すことである。

 

止まっている状態というのは、その目の前のことをただただこなしているだけになってしまう。

 

仕事だったとしても、それはただの作業に成り下がってしまう。

 

仕事であるか、作業になってしまうかというのは、自分自身がどのような意味付けをそれに持っているかである。

 

取り組む姿勢がどうかによって、そこから何かを得ようと思っているかによっていかようにも変わる。

 

好きとか嫌いとか、テーマや内容というものももちろん大事な要素ではあるのだけど、何よりも大事なことはそのことに対してどのような意味や価値を持って、本気で取り組むかである。

 

本気で取り組むためには、そのことに興味を持ち自分なりの面白さを見出すことである。

 

それは誰かに与えられることではなく、自分自身で掴むものである。

 

どうも誰かのせいにしてしまいたくなるようなことだとしても、巡り巡ってその元をたどると自分に返ってくる。

 

何か誰かに対して不平不満を言うくらいならば、まずは黙って自分が取り組むことである。

 

与えてもらおうなんてことを考えるのではなく、どうしたらいいかということを自分自身で考え抜いて、そこから自分なりの答えを導く出してやってみることである。

 

世の中ですでに答えのあることであるのあれば、先人がすでに取り組んでいることであれば、その叡智を活用しない手はない。

 

自分一人では到達することのできないところへ、先人たちの知恵を活用すれば、何世代を生きないとたどり着けないような領域に行くことができる。

 

自分自身で生み出すためには、しっかりとしたそれに見合うだけのインプットをする必要がある。

 

インプットとアウトプットの量というは、比例しているのだからこそ、アウトプットを多くしたいと思うのであれば、それ相応のインプットをする必要がある。

 

良質なインプットを、地道に積み上げていくそういう努力がとても大切である。

 

一生懸命に取り組んでいるか。

 

本気になって取り組めているか。

 

もてあますほど能力を持っているなんてことはないのだから、出し惜しみをしている暇なんてない。

 

この瞬間から出し切っていかないといつ本気になるのか。

 

なりふり構わず、振り切れていくこと。