(おまけ)江戸中期の日本における「地動説」受容についてのミニ講釈 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○アニメ『チ。~地球の運動について~』放送開始を祝して

 この記事の蛇足です。

 アニメ『チ。』が西洋における「地動説」誕生前夜の科学者たちの受難と信念の軌跡を描くのに対比して、その「地動説」が江戸時代の日本にどのように伝わり、受容されていったかの簡略な紹介をしてみようと思います。
 そこら辺の伝来事情と江戸時代の天文学についてもっと詳しく知りたい方は、以下の2書を参照して下さい。文庫・新書とはいえガッツリ専門書で、読み通すには江戸期学問と科学史の広範な知識を要しますデス。でも近刊だから入手しやすい。

◇『天文学者たちの江戸時代(増補新版)』嘉数次人(かず・つぐと) ちくま文庫 2024年(ちくま新書版 2016年)


△『天文学者たちの江戸時代』

◇『江戸の宇宙論』池内了


○「天動説」VS「地動説」



「 勘違いしてるみたいだから言っとくけど、そっちが挑戦者(チャレンジャ-)だから」 by 五条悟

( おや、そういえば現代最強の呪術師は「引力」と「斥力(せきりょく=しりぞけるチカラ)」の術式の使い手だ。)


 さて江戸時代の日本に飛ぶ前に、「地動説」VS「天動説」のそもそもの対決が始まった古代地中海文明の天文学について少し触れておきましょう。
 古代ギリシャの哲学者・自然科学者たちはこの世界、引いてはこの宇宙がどのような姿であり、どんな物質で構成されているかを様々に考え論じ合った。

 その中でも主流となったのは大学者大哲人で知識体系の権化・アリストテレスの諸学説で、彼は天文学においては「天動説」を提唱する。
 一方、少し後のヘレニズム時代の自然科学者・アリスタルコスは観測と科学的考察から「地動説」を立案。両者の学説はしばらく並立するも、影響力がより大きかったアリストテレス学派の天動説が有力視された。

 時代が下って2世紀の古代ローマ帝国時代。偉大なプトレマイオスが出て古代ギリシャから続くそれまでの自然科学を集大成し、その学説は後世の規範となった。
 地理学で「(科学に基づく初めての)世界地図」を作ったように、天文学では「天動説」を採用して詳細な宇宙観を形作った。
 この時点では「地動説」よりも「天動説」の方が実際の観測や測量の結果と分かりやすく合致しており、アリストテレスとプトレマイオスの権威の大きさもあって「天動説」が勝利を収めることになった。以降は「天動説」が世界的に絶対のスタンダードとなっていく。

 「地動説」が棄却されてより約1300年後、それを拾い上げて最新の科学的知見で再検討し、一考の価値ありと提議したコペルニクスが登場する。
 彼に続くガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーらが地動説を基にした天体理論を次々に立証し、ニュートンに至る頃には両説の立場は大方において逆転していた。これが古代から16~17世紀にかけての欧州の科学界の動きである。

 ご存じの通り、天動説から地動説への大転換において大きな障壁の一つとなったのは、キリスト教神学に基づく「神が作りたもうた宇宙、その中心たるべき地球」観であったが。それとの軋轢はありながらも自然科学の目覚ましい発展に押される形で、少なくとも科学的常識としては地動説が広く支持されていく。
 とりあえずここまでが西洋の様子。


○江戸期日本への流入

 目を転じて日本では、古来より中国の天文学の影響を大きく受けて参りまして。で、その中国天文学も辿っていけばインド圏やアラブ世界、更には欧州の天文学と密接に繋がっていました。
 というわけで中近世の中国、というか世界中で実地に使用されていた「天動説」を日本も当然のように採用。これを軸に江戸時代中期までの暦も作成していた。
(『天地明察』でも主人公の渋川春海が天動説依拠の清国の天文書『天経或問(てんけいわくもん)』を参照するシーンがあります。)

 西洋における「天動説→地動説」の転換期から遅れることおよそ150年、日本にもようやくその知識が到達する。
 で、何でそんなに時間がかかったかと言うと。欧州との地理的距離の他に、宗教絡みの情報の取捨選択などが間に挟まったからではないかと考えられる。

 欧州→アジア→中国→(オランダ仲介)→日本、と至る道程のどこかで、キリスト教神学が問題視した「地動説」の情報が制限され、脱落していたのではないかと。規制したのはキリスト教徒かもしれないし、あるいは彼らに忖度した中継地人であったかもしれない。
 実際に清王朝時代の中国に西洋天文学を伝授したのは主にイエズス会宣教師で、彼らは教義上の理由から「天動説」を採り「地動説」はあえて伏せていた。18世紀に中国で主流となったのも、西洋での過渡期にティコ・ブラーエが考案した両説の折衷モデルである。
 更に、鎖国下の日本に入ってくる段階でも、神学論争に発展してキリスト教と深い関連があると見なされた「地動説」の内容が忌避され、総じて伝達スピードが遅れたのだと思う。

 しかし8代将軍徳川吉宗の時の漢訳洋書輸入の禁の緩和、実学に限っての西洋知識の摂取の容認により、18世紀後半には西洋科学の導入がようやく始まっていく。
 最初に本格的に「地動説」を日本に紹介したのは、その18世紀に生きた本木良永(もときよしなが/りょうえい)という長崎通詞(ながさきつうじ=通訳士・翻訳家・渉外官)。

 まず本木は、オランダの地図製作者ブラウの地学書を翻訳した『天地二球用法』を1774年に著述。一つの仮説として初めて「地動説」に言及した。
 更にイギリスのアダムスの天文書を和訳した『太陽窮理了解説』を1792年に訳出、翌93年には前記2書の内容を統合したコペルニクス地動説の概説書を幕府に献納した。未だ観念的であり緻密な実証性には欠けていたものの、「地動説」を初めて江戸の世に問うた意義は大である。


○「地動説」受容の葛藤と普及

 本木が地動説を紹介した18世紀後半には日本でも科学的見識と合理的精神が深化し始め、合理主義思想家の三浦梅園(みうらばいえん)が「地動説」の革新性に注目して話題に挙げている。学者仲間のネットワークで情報は共有され、好事家はいち早く新説をキャッチしていただろう。

 しかし、本木の最初の紹介から「地動説」が江戸期の学者らに受け入れられるまでにはまた若干の時間差があった。
 ヨーロッパみたいに東アジアでも信仰・思想上の対立、特に朱子学が確立していた世界観との齟齬が問題視されることもあったかもしれない。でもそれは思想上の建前で、特に日本ではキリスト教は禁教、朱子学はあくまで官学であり、根深い信仰上の垣根はあまり無かったとも思われる。

 「地動説」が西洋で復権する過程のキリスト教とのいざこざも、その宗教的要素だけ引っこ抜いて学術的価値のみ抽出してあれば、公儀の検閲もどうにか無事に通過したのだろう。
 どちらかというと日本の暦学者の側が、それまで練り上げていた「天動説」基盤の精密な計算体系を崩したくなかった、という実務的な利便性の問題があったか。

 「天動説」は現代的には全くの錯誤であるけれど、古代から1500年近くも正統として連綿と受け継がれ鍛え上げられてきたお陰で、日本でも95%以上の正確さで運用できる所まで高度に発展してしまっていた。
 片や「地動説」はまったく新しい理論。その詳しい術式や解説も、欧州から遠く離れた鎖国下の日本には豊富に入ってくる訳ではない。

 う~ん、何に例えましょうか。「ジグソーパズル」みたいなもんかな?

 あと数ピースを残して完成間近なジグソーパズル。でもおかしい、どうも残りのピースと空所の形が合わない。あれ・・? コレ、もしかしてやっちゃったかな?
 でも細部の微妙なズレはあるものの、ちゃんと絵柄も出来てるし、全体としてはほぼ完成してるように見える。残っちゃったピースも上手く誤魔化して当てはめ、九分九厘の完成度で良しとする・・・。これが「天動説」の研究史である。

 それでもわずかな誤差が気に入らない人は各時代に居て、どうにか完璧な合致を目指すんですけどね。部分的な修正を重ねてもどうしても絶妙にズレが生じ、それを補おうとして模式図と計算式も繁雑となり。
 観測技術の向上で最新データが上がってくるにつれ誤差もどんどん拡大増殖し、その訂正を織り込んで、また天球図が複雑怪奇な多重構造を持つようになる悪循環。ついに「天動説」はまったき完成形を見ないまま、千年以上が経過してしまった。

 そこで根本から全く異なる宇宙観に基づく「地動説」の出番が来るのであるが、じゃあ、それまでの気の遠くなるような歳月の努力でほぼ完成してるかに見える「天動説」はどうすんだ、潔く捨てられんのか?と。
 ジグソーパズルで言うと、ほぼほぼ完成しててあとは数ピース分の微調整で済むと思ってたものを、「あっ、コレは全部崩して最初から組み直さないとダメっすね~」と、後から入って来たヤツにいきなり作業台を引っくり返される悲劇に等しい。そりゃブン殴っても仕方ないよ・・。

 これと同じような構図が、江戸中期の日本天文学においても起こったのだと思う。(たぶん西洋でも転換期の初期~中期には起こってたはず。)
 鋭利に練磨した術理で九分九厘は正しく天文を読める、真理は分からずともとりあえず計算できちゃうんだから支障はない。反対に、未だ具体的な計算式や明快な証明が詳らかでない地動説を、わざわざ現実的な使い勝手を捨ててまで採用する必然性があるだろうか?

 麻田剛立(あさだごうりゅう)ら大坂の暦学者は各地のアマチュア天文家と連絡を取り合い、18世紀後半には緻密な暦学理論と高度な計算技術を誇って日本天文学をリードした。
 彼らが基本参考書としたのは中国経由でもたらされる西洋天文学書で、漢文体のそれは「天動説」中心の術理を説くものであった。けれど暦作成と天文予測を主眼とする江戸中期の天文学にはそれで事は足り、平面的理解ではあるもののかなり複雑な数学を駆使した独自の暦法が発達していた。

 一方の「地動説」を唱導し始めたのは、主に長崎通詞や蘭学者などの西洋学問研究者。こちらはオランダ経由の蘭書を通じて、未だオランダ語学者が稀少だった時代に他の科学者たちに先んじて西洋の最新知識に触れることができた。
 ただ、「地動説」伝来初期には細かい理屈や数値には深入りせず、太陽系の構造や宇宙の成り立ちの大まかな把握など基礎的理解に留まった。蘭学者たちが必ずしも天文学のスペシャリストではなかったことに加え、蘭書の公表には難解な翻訳作業や禁教事項の削除など、これはこれで厄介なハードルがあったことも「地動説」の速やかな普及を阻んだ。

 細部があやふやでデータが揃わない新奇の理論より、時間をかけて練り上げてきた馴染みある計算式の方が信用できるわ~。

 そんな利便性の選択から「地動説」の導入には少し時間がかかったが、本木良永の最初の紹介から時間を置いて国内の多くの学者が知るところとなり、海外からの追加情報ももたらされると、次第にその考え方も受け入れられていく。
 中国由来の伝統的な数理的・平面的・解析的理解から、西洋の幾何学的・立体的・物理学的モデルへ。思考の根本的転換は「コペルニクス的転回」という語にもなっているが、その劇的な宇宙観の転換は往時の天文学の専門家をこそ悩ませた。

 高橋至時(たかはしよしとき)、麻田剛立門下の俊英で師と共同研究を進め、抜擢されて入った幕府天文方の代表として「寛政暦」制定に尽力した気鋭の天文学者。
 1797年に暦が完成し、改暦が成就したのがその翌年。大事業を終えた高橋は、より詳細な西洋天文学の習得に努めて蘭書を博捜した。そこで以前より気になっていた「地動説」に感化され、慎重に考証を行った上で、個人・私人としてはこれは真理であると思い定める。

 しかし当時の高橋は幕府天文方のエース、おいそれと伝統の「天動説」破棄に踏み込むわけにもいかない。「地動説」を公的に採用するには確たる証拠が要る、そこで更なる研究をと意欲を燃やしていた矢先、持病の悪化で逝去。もしあと少し長生きしていたら、数年のうちに「地動説」を吸収し、日本最高峰の天文学者としてこれを強力に推進していたかもしれない。
 だが、時代は着実に「地動説」へと傾き始めていた。本木良永の翻訳の写本がじわっと出回り、既存の枠に囚われない若く熱心な研究者たちが本腰を入れて取り組むようになる。高橋が熱望したように、次に求められたのは「地動説」に関する専門的な詳解書であった。

 そこで次に登場するのが、本木の天文学の弟子筋にあたる志筑忠雄(しづきただお)である。
 ごく短い間だが本木と同じ長崎通詞だった志筑は(就任後すぐに辞めちゃって学業に邁進し)、地動説やケプラーの天体法則、ニュートン力学を盛り込んだ『暦象新書(れきしょうしんしょ)』(1798~1802年)を訳述して西洋の最新科学を日本に紹介した。星々の運動を力学的・物体的に捉える天体物理学を了解した最初の一人であったろう。

 ちなみに、この新しい学説に対して「地動説」という名辞を新たに作って当てたのはこの志筑である。彼は「重力」「引力」「斥力」など天文学・物理学の新概念を説明する必要から、今日にも使われる科学用語を案出した。
 更に因みに、師匠筋の本木は「planet(プラネット)」に「惑星(わくせい=まどう星)」と訳語を当てた人。この師弟の翻訳業の功により、かくて江戸の天文学界に「地動説」が浸透していく。

 ・・と、良さげな事を言っておいて何ですが、「惑星」って天動説由来の言葉なんですけどね。
 星の天球での見た目上の動きがたまに逆行してるように見える現象から命名されたんですが、その逆行現象も「地動説」を用いれば説明がつく。惑っていたのは星ではなく、我々の認識の方だったんだ・・。ゆえに事実に反する誤訳じゃないか、と。
 でも、そもそもオランダ語の原語の意味が「放浪する星」なんで、原義に忠実に直訳しただけなんですよね。モトキサン、ワルクナイ。

 漫画・アニメ『プラネテス』もそんな「planet」の語源である古典ギリシャ語「プラネテス=惑う人々」の意味を、一人の青年の煩悶と成長に託して描き出した近未来の宇宙のお話であります。
 そういえば、『プラネテス』のアニメ版を放映したのもNHK(旧BS2/旧教育/Eテレ)。“ 宇宙+哲学 ” がお好きね~、NHKさん。
◇『プラネテス』幸村誠

○19世紀、江戸後期の「地動説」

 『暦象新書』刊行の前後、18世紀末頃には既に蘭学者や天文学者たちの間で「地動説」を支持する者が増えていき、次第に厳密な理論が確証されてその正当性が裏付けられていった。
 そして19世紀初め、いよいよ「地動説」が一般的なものとして巷間にも広まっていく。

 蘭学者で画家の司馬江漢(しばこうかん)は1808年刊行の『刻白爾(コッペル)天文図解』でコペルニクス地動説に基づく新たな太陽系図をビジュアル的に提示し、庶民がこれを平易に理解するのに一役買った。本木良永の手がけた翻訳書が写本としてゆっくり流通したことを考えると、一般向け出版物を発刊し知識の普及を加速させた役割も大きい。
 また思想家の山片蟠桃(やまがたばんとう)は著書『夢の代(ゆめのしろ)』(1820年刊)で地動説の他に、太陽系の外にもまだ無数の恒星系が存在する広大な宇宙空間を想像し、夢想ながらも外宇宙のイメージを描き出してみせた。

 こうして「地動説」は天文学の最先端の知見から、道行く町民がみな知っているという一般知識へと時を経て馴致していく。
 書物=言葉と図説、を介して「チ動説」は伝播していく。日本での受容に際しては「チ」は流れなかったとはいえ、そこには多くの通詞・蘭学者・天文学者の、真理を探求せんとする懸命な「チ」のリレーがあった。

 アニメ『チ。』が描くのはその「地動説」の再発見前夜、日本に伝来した学説の遥か西方での源流である。
 コペルニクスが「地動説」をおずおずと唱え出す以前。歴史の底に埋もれていたそれを成り行きで掘り起こし、抗いがたい好奇心と衝動に取り憑かれて追いかけてしまった、名も無き探究者たちの物語・・・。


○登場人物生没年

▽古代地中海文化(ざっくり)
・アリストテレス(前4世紀)
・アリスタルコス(前3世紀)
・プトレマイオス(2世紀)

▽中近世の西欧
・コペルニクス(1473~1543)
・ティコ(1546~1601)
・ガリレイ(1564~1642)
・ケプラー(1571~1630)
・ニュートン(1642~1727)

▽江戸期の日本
・三浦梅園(1723~1789)
・麻田剛立(1734~1799)
・本木良永(1735~1794)
・司馬江漢(1747~1818)
・山片蟠桃(1748~1821)
・志筑忠雄(1760~1806)
・高橋至時(1764~1804)


○参考サイト

◇WEB「週刊エディスト」
 三浦梅園と麻田剛立の紐帯、及び江戸時代の天文学について


◇『江戸の天文学』中村士(なかむらつこう) 角川学芸出版 2012年


◇『江戸の天文学者 星空を翔ける』中村士 技術評論社「知りたい!サイエンス」 2008年

◇WEB「国立天文台 NAOJ」