忘れられない『ごぜほたる』 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

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高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○消えゆくもの、受け継がれるもの

◇漫画『ごぜほたる』十三野こう

 コミックス1巻がこの6月に発売、その内容紹介文から。



「 私が自分でゴゼさんになりたいんやけぇ いまの私にはやらへん理由なんか いっこもないんよ」

 幼くして母を亡くし、父は行方知れず、それでも日々を明るく暮らすホタル。そんな彼女の目から光が失われていることを知ったとき、周囲の空気は変わった。ある日、各地を巡り演奏を披露する “ゴゼ” の存在を知ったホタルは、“ゴゼ” を目指すことになり・・。己が運命を未だ知らない少女の旅が今、始まる。



 今年3月に連載がスタートしてからまだ日も浅く、コミックスもやっと1巻が出たばかり。今の段階では海の物とも山の物ともつかない未知数の漫画作品ではありますが。
 あ、ちなみに連載媒体は「少年ジャンプ+」(↑上置サイト)で、第1~3話と最新3話分が無料で読めます。毎週更新だからペースもけっこう早め。

 それにしても、「ごぜ(瞽女)さん」の物語とは思いきった着想。
 「瞽女(ごぜ)」とは盲目の女性旅芸人のこと。三味線を手に村々を旅し唄を弾き語ることを生業とする盲目の女性たちの職だったが、近代化が進む中で徐々に姿を消していき、現在ではその習俗はほぼ途絶えてしまっている・・。

 ・・という、失われたかつての職業を改めて漫画として描き起こすのは、並大抵の胆力ではできないと思われる。まず入念な下調べと参考資料の収集が必要であるし、ある程度の文献テキストを読むことも要求されよう。
 そしてこれは「盲目/視覚障害」の物語でもある。主人公ホタルは目が見えない、彼女が加わる旅芸人一座も盲人が主体であり、視覚障害のある人々の生活・心理・処世の細かな描写も揺るがせにできない。中途半端な想像では描けない、綿密な取材を要するはずだ。

 かてて加えて、ここまで読んできた限りでは、これは「音楽」にまつわる物語なのだということ。瞽女唄は歌、三味線は楽器。一座の斉唱は合奏やバンド演奏にも当たるだろう。
 そこで、聴覚文化である「音楽」を視覚文化である「マンガ」で表現することの難しさである。音は目には見えない、擬音や効果音で何とか伝えようとしても、音色そのものは紙面には乗せられない。

 瞽女唄にとってはその音声(おんじょう)が何より大切な核心であり、唄をその場で聴く臨場感こそ醍醐味であるのに、それをそのままは伝えられないジレンマ。
 しかしこれまでに音楽マンガの名作傑作は数多く作られてきた、決して不可能な訳じゃない。絵の力や構成の妙で演奏シーンを効果的に盛り上げることは、難しいけれども作品の肝となる大事な要素だろう。

◇集英社 ジャンプ+コミックス
○瞽女唄が響く

 うん? つい最近、その「瞽女さん」にまつわる番組をどっかで見たぞ?

◇NHK Eテレ「ハートネットTV」
 2024年1月16日 初回放送

 あっ、もしかしたら。作者・十三野こうさんは年初のこの放送を見て、『ごぜほたる』執筆を思い立ったのかも。
 いやそれ以前から瞽女さんについて漠然といつか漫画に描こうと思ってたのかもしれないけど、番組を視聴して意を決したという可能性もあるか?

 福祉情報番組「ハートネットTV」では瞽女唄を現代に受け継いだ女性を紹介し、今は失われたかつての瞽女文化や、それでも唄を継承し記憶を繋いでいこうとする現在形の取り組みを取り上げている。
 というわけで、上記NHKサイト内から番組内容の説明をちょっくら引っぱって来ましょうか。


◇『瞽女唄が響く』サイトより抜粋

【番組概要】
 かつて三味線を手に、村々を旅した女性たちがいた。盲目の女性旅芸人「瞽女(ごぜ)」。社会福祉という言葉もない時代、盲目の女性たちは生きるために旅に出て、唄を生活の糧とした。今、そんな瞽女がうたった唄を絶やしたくないと、各地で演奏を続ける女性がいる。女性もまた、視力を失う経験をしながら、生きる道を模索してきた。時代を超え、盲目の女性が紡いできた唄。その魂の声が今、響き渡る。


1.瞽女唄を絶やしたくない

 ラジオのパーソナリティーをする広沢里枝子さん。広沢さんが毎週のように各地を回り、伝えているものがあります。かつて、盲目の女性旅芸人「瞽女」がうたった「瞽女唄」です。
 村々を回り、その唄を聞かせることを生業とした瞽女は、昭和後期に姿を消しました。瞽女が消えた今、瞽女唄もまた消えつつあります。唄を絶やしたくないという思いで、広沢さんは55歳のときに瞽女唄を学び始めたといいます。

「 瞽女唄は、目の見えない瞽女さんたちが、生きていくためにうたったんだと思うんです。これを覚えてうたわなかったら、毎日のご飯も食べられない。命がけの生き方をした人たちが連なって、いまここに瞽女唄がきていると思うんですよね・・」(広沢さん)


2.過酷な旅を続けた瞽女たち

 新潟県にある「瞽女ミュージアム高田」で瞽女の歴史を知ることができます。瞽女たちが残した足跡があり、事務局員の小川善司さんが案内します。
「(瞽女さんは)先頭に目の見える手引きの方が、すぐその後ろに親方、そして数多い唄を持って、農山村に旅をしていく。まず瞽女さんが村に来ますと、玄関先で短い唄をうたう。『門付け(かどづけ)』と言うんです」(小川さん)

 瞽女は村々を巡って唄を披露する代わりに、ひと握りのお米やお金を受け取り、稼ぎとしました。夜は村人が無償で提供する「瞽女宿(ごぜやど)」に泊まり、夜更けまで演奏。数時間に及ぶ物語唄や、民謡、流行歌など、あらゆる唄を披露しました。
「 農山村の非常に深い山の中から一歩も出たことがない奥さん方もいた。テレビ・ラジオのない時代に、瞽女さんの唄は楽しい娯楽になった」(小川さん)

 室町時代にはいたとされる瞽女。江戸時代には集団をつくり、全国各地でその姿が見られました。多くは幼い頃に親元を離れて弟子入りしました。盲目の瞽女に楽譜はなく、親方から口伝えで聞かされる唄を必死になって暗唱しました。
「 目の見えない人たちが自立して生きていくには、選択肢が瞽女か按摩さん、その2つぐらいしかなかった時代です。修業もつらいものがあったと思うんですけど、旅をすることによって生活ができた」(小川さん)

 今のような社会福祉もない時代。盲目の女性たちは、生きるために過酷な旅を続けたのです。


3.人生を変えた出会い

 広沢さんは網膜の病気のため、小学2年生のときに失明の宣告を受けます。目が見えない女性の生きる道は、昔も今も険しいと感じてきました。
 ラジオの仕事にも挑戦し、生きる道を探し続けていたとき、忘れられない出会いがありました。「最後の瞽女」と呼ばれた小林ハルさんです。
「 そのときの衝撃。ハルさんの声は波動みたいな感じ。山が鳴ってる感じだった。そのまま涙がバーと流れて、眼裏(まなうら)には越後の冬景色と、ハルさんのうたっている姿が見えた感じがしたんですけど」(広沢さん)


4.「最後の瞽女」小林ハルさんの生涯

 1900年、新潟県に生まれたハルさんは、生後まもなく視力を失います。厳しい差別があった時代、家の奥に閉じ込められて幼少期を過ごしました。当時の状況を語るハルさんの肉声が残っています。
「 人は目が見えて、田んぼや畑に出たりするも、お前は目が見えねえで、それも出来ないし、お嫁にも行かれねえから、三味線を覚えて、一生瞽女になって回って暮らすんだと、母に泣きながら教えられた」(小林ハルさん)

 7歳で始まった修業は過酷なものでした。三味線をはじき続けると柔らかな手から血がにじみました。とくにつらかったのが、喉を鍛えるために行う「寒声(かんごえ)」の稽古。朝と夜、吹き付ける雪風に向かって唄い続けました。
「 寒くて切ねえのに、温かくなるほど、音出さねばならねぇ。あるだけの声出して。喉から血が出る。それでも我慢して。ご飯たべらんねぇ」(小林ハルさん)

 ハルさんは9歳のときに家族の元を離れ、親方とともに旅に出ます。日に数十キロ、旅路は新潟から、山形・福島にまで及びました。
「 一本橋は都合悪いて。一本橋渡るは落ちる覚悟さ。落ちて死んでもいいっていう親方の教えだから。ほんに命がけの仕事さ。なかなかつれえ思い、何をするにもつれえ思い、厳しい勤めをしてこれまで生きてきた」(小林ハルさん)

 親は早くに死別、兄弟とは疎遠だったハルさん。生涯独身という瞽女の掟に、自分の家族も持てませんでした。そして73歳まで旅を続けました。

 ハルさんの晩年を知るのが、三味線奏者の萱森直子さんです。35歳のときにハルさんに師事し、120もの唄を学びました。
「(ハルさんは)『思い出の唄なんかねぇ』と言ったんですね。『好きな唄なんかねぇ』と言った。だけど、『喜ばらった唄なら、これとこれとこれ』って、あるんですよね。すべてがそのために成り立っている。そのためにお稽古するし、そのためにレパートリーも増やす。集まってくれた人をもてなす、その人たちに喜んでもらうためにはということしか考えていない」(萱森さん)

 そんなハルさんが稽古中、よく口にした言葉があります。〈さずきもん(授かりもの)〉です。
「『お前の唄は〈さずきもん〉だのう』と言ってね。『〈さずきもん〉さえ大事にしてたら、何があったって怖いことはない』と。ハルさんは “見える目” というおおかたの人が持っているものを授からなかった。だけど、授かったものを大事にして磨いて生きてきた。そういう自信、強さ、誇り、そういうのを感じるんですよね、その言葉から」(萱森さん)

 ハルさんは数多くの唄を残し、105歳でこの世を去りました。


5.生きる喜びを伝えたい

 広沢里枝子さんは、初めて出会ったときに聴いたハルさんの唄に、その生きざまを見たといいます。
「 私に瞽女唄をうたってくださったとき、『瞽女とニワトリは死ぬまでうたわにゃなんない』とおっしゃったんです。その意味の深さというか。ハルさんの唄を聞いて、余分なものをみんな剥ぎ取って、最後に残った魂の唄だなと感じた。魂が鳴り響いてる。それはハルさんが長い人生を生きて、苦しみも喜びもたくさんの経験をして、今、そうある唄なんだなって」(広沢さん)

 「自分もそんな唄をうたいたい」。広沢さんは、ようやく生きる道が見つかった気がしました。
 師から弟子へ、数百年の間受け継がれてきた唄の数々。耳だけを頼りに受け取っていく瞽女唄は、その時代時代の、庶民の喜び、そして悲しみをうたいます。

「 無数の名もない瞽女さんたちが困難な人生を生きて、つないでくれたのが瞽女唄だと思うんですよね。一人ずつの唄が違っていたし、一人ずつの人生が違っていたし。この唄がなければ我々は生きていけないんだという、ギリギリの所で次の世代へ伝えてきてくれた。それが私のところまで届いたことを、本当に奇跡と思うんですよね」
「 私はこの瞽女唄が大好きでうたってるんだよ、私はこうやって生きてるよっていう、生きる喜びを伝えたいのが一番かな。ハルさんたちも喜んでくれると思うんですよ。『そんなふうに好きな仕事をして、好きな唄うたってるだかい。良かったな』って言ってくださると思います」(広沢さん)

 (抜粋終わり)


◇「全国音訳ボランティアネットワーク」記事:「(広沢さんら出演の)瞽女唄コンサート」


◇「瞽女ミュージアム高田」

○失われゆく古い文化

◇NHK Eテレ「100分de名著」
 2024年6月 放送

 いえ直接「瞽女」とは関係ないんですが、「忘れられゆく日本の古い習俗」ってテーマでちょいと結びつけてみようかなと。同じ NHK Eテレだし。

 宮本常一(みやもとつねいち、1907~81年)は民俗学者・歴史学者。日本民俗学の分野では柳田国男、折口信夫、網野善彦らが著名だが、宮本は彼らに並び立つ碩学である。
 日本列島津々浦々をてくてく歩き、赴いた土地の人々に聞き取りを重ねて膨大な話を引き出し書き留めていった。そして記録と記憶の集積の中から抽き出したのが、日本人の根底にある「生活意識や文化」。


◇「100分de名著」サイトより
『忘れられた日本人』放送内容

〖 第1回 もうひとつの民俗学 〗

 柳田国男が創始した民俗学の流れに沿いながらも、宮本常一は新しい形の民俗学を立ち上げようとした。その特徴を一言でいえば「もの」を入り口にすること。柳田が目には見えない民間伝承、民間信仰を元にして「心」を手掛かりに日本人を明らかにしようとしたのに対し、宮本は、風物、技術、生業、慣習、日常のさりげない行為、民具など、目に見える「もの」に注目することで、民衆の生活意識の根本を明らかにしようとする。

〖 第3回 無名の人が語り出す 〗

 宮本常一が光を当てようとするのは常に「無名の人」だ。『忘れられた日本人』では、文字を知らない庶民や何ら業績を残したことがない「物乞い」など、歴史の片隅に追いやられた人たちが鮮やかに描かれる。従来の歴史学では、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めな、反抗のみを繰り返してきた存在として描かれてきた。
 しかし、為政者を中心に書かれてきた「大きな歴史」は、文字によって記録に残されていない「小さな歴史」によってこそ成り立っていることを私たちは忘れてしまっていると宮本はいう。第3回では、宮本常一の「無名の人」に関する聞き書き、論考から、私たちが「進歩」の名のもとに切り捨ててきた「ものひとつの日本人たち」の歴史に迫っていく。

 (抜粋終わり)


 たぶん、宮本常一も古くからの習俗の一つとして瞽女の文化を当然知っていたと思いますが。ただ、その一事を大きく取り上げて論じることはしていないかと。
 けれど上記のように、宮本が目を凝らして見ようとしたのは「無名の人」の生き様。歴史を変えたり日本人の価値観を代表するような大きな存在ではないけれど、村々の平凡でつましい暮らしの中で確かに肉体を持って生きていた市井の人々の声を聞き集めた。
 ならば瞽女さんの習俗・伝統の中にも、何らかの普遍的な特徴を見出していたかもしれない。


○忘れられない『ごぜほたる』

 「古き良き日本の伝統文化」?

 だがそんな風には手放しで礼讃できない、「瞽女」を取り巻く痛みと悲しみの人間史がある。

 「社会福祉という言葉もない時代、盲目の女性たちは生きるために旅に出て、唄を生活の糧としたのです。」

 裏を返せば、昔の農山漁村社会で “目が見えない” 人が自立して生きていくことがいかに大変か、そのためには敢えて生家を離れ旅を住処とする過酷な道を選ばねばならない実情が露わになる。
 生計を立てる業とはいえ、旅芸人の身分や実入りは保障されている訳ではない。毎日の糧と寝床を得るため人々の前でうたう。それが何らかの事情で出来なくなれば、生きてはいけなくなるのだ。


◇前掲『瞽女唄が響く』より

 広沢さんが出会った当時、ハルさんはすでに瞽女を引退し、静かに余生を送っていました。暮らしていたのは新潟県にある、視覚障害のある人のための介護施設です。
 身寄りのなかったハルさんが施設にたどり着いたのは73歳のとき。当時の様子を主任支援員の滝川雅子さんが振り返ります。
「 瞽女をしていたときは、屋根のないところでも寝たりしていた。施設に来て、屋根があって、布団があって、食事の心配もなく、『ここにいるのが一番幸せだ』とおっしゃっていた」(滝川さん)

 (抜粋終わり)



 社会保障が充実しているなら、それに越したことはない。昔に比べれば生きる道の選択肢はかなり多くなっているだろう。わざわざ荊の道を選ぶこともない。しかし一方、自らに由って立つためには何らかの手だてが必要となる。
 周りに養われ生かされるだけでなく、自分が出来ることで誰かを喜ばせ、その対価として生活の糧を得たい。かつてはその欲求を実現していくための数少ない手段の一つが瞽女唄であった。

 時代は移り変わり、障害を持つ人への支援も徐々に充実し、必ずしも過酷な旅の生を選ばなくともよくなった。同時に社会機構や人々の生活意識も変容し、古くからの習俗も近代化の波に呑まれて次々に姿を消していった。
 その今日の状況の中で、失われゆく瞽女唄を承継しうたい継いでいく意義とは?


◇同『瞽女唄が響く』より

 子どもの頃の広沢さん。
「 私自身も全然瞽女さんたちの苦労とは違いますけど、『あなたは目が見えなくなるんだから、ほかにはできることがないでしょ。三味線をちゃんと身につけなかったら生きていけないんだよ』と、母から繰り返し言われた」(広沢さん)

 三味線の稽古に明け暮れる日々。しだいに、将来への不安が膨らんでいったと振り返ります。
「(7歳で宣告を受けて)実際に見えなくなったのが26歳。20年近く、いつか失明すると分かって、しかもだんだん見えなくなってくる中で生きていたんですね。心の深いところに不安がありました。目が見えなくなったら、何もできないと思ったり、生きていけないんじゃないかって」(広沢さん)

 生きる道を見つけたいと、大学では福祉を学びます。しかし就職を希望すると、障害を理由にことごとく断られてしまいました。同じ頃、当時付き合っていた人との結婚を考えましたが、周囲から反対されたといいます。
「 社会に出ようとするたびに、目が不自由ということで道が閉ざされそうになる。どうやって生きていったらいいんだろうと思いましたね。でも(壁に)ぶつかるたびに、何とかしたいと思うんですよね。めげそうになるんですけど何とかして(道を)開けないかと、必死だったと思います」(広沢さん)

 (抜粋終わり)


 何かがあるのだろう、古い習俗の中にあっても長い間に多くの人々の手によって伝えられ受け継がれてきた文化・芸能には、何か大事な価値が。
 心の支えだろうか、魂を震わす感動だろうか? あるいは思想性でもってそれを読み解き、使命感に突き動かされて後世に残そうとする場合もあるかもしれない。


◇前掲「100分de名著」サイトより

 民俗学者の畑中章宏さんは、『忘れられた日本人』を現代に読む意味が「近代化の中で表面的には忘れ去っているようにみえるが、無意識のうちに我々を規定している生活や文化の基層に触れることができること」だといいます。




◇「Wedge ONLINE」記事より
(記事内容要約・抜粋)

 画家・文筆家の斎藤真一(1922~94)は瞽女唄に魅せられ、越の国の山野を巡り瞽女の話や生活の跡を探し求めて歩き『越後瞽女日記』を発表。画文集『斎藤真一さすらい記  ~なつかしき故里を求めて~』に創作の起点の想いが綴られている。

「 瞽女を記録してみようと思い立ってから、あっという間に十年が過ぎ去ってしまった。/
 その間、わたしは瞽女を求めて、越後へいったいどれくらい通い続けたことであろう。/
 そうしているうちに、私は杉本キクエさんを知れば知るほど、その人柄に打ちのめされ、ひとつの使命感のようなものにさいなまれた。/
 ひとりの人間として、失われつつある瞽女や瞽女宿の人情をしっかりカンバスの上に、記録の上に、とどめておきたいと強く願うようになったのである。」




 ・・ってな具合に、大上段に振りかぶんなくてもいいと思うんですよ。そりゃ宮本常一の思想の評価には必要な視座でしょうし、「瞽女文化」の伝存に果たした斎藤真一の役割は大きいんでしょうけれど。
 少なくとも「瞽女唄」をこの現代に感受する分には、ごく個人的な心の欲求に応じるという動機からでも充分だろうし。

 そして漫画『ごぜほたる』を読む分にも、単純に美しい画に惹かれて話の筋を楽しんでいけばそれで良いのだろう。そうして読んでいるうちに「瞽女さん」文化の習俗的諸相や、代々うたい継がれてきた唄の奥深さにも自然に馴染んでいくッてぇ寸法でヤス。
 「瞽女」が主人公のマンガという意欲的な挑戦、連載に困難は多いだろうがどうか最後まで描き上げて欲しい。さてWeb連載中のこの先の展開、どうなりましょうや?


◇参考サイト
「もんてん瞽女プロジェクト」(2010~12年)内


 あらぁ、この画家の赤空とか蒼夜の色彩感覚、かなり好きかも。ついでに斎藤真一のプチ情報も。
 斎藤真一は1960~70年代にかけ越後に足繁く通い、杉本キクエさんをはじめ瞽女たちと瞽女宿などの風俗を取材した。それを基に連作『越後瞽女日記』などを発表、瞽女の姿を印象的に描いた作品で知られる。
 また明治期の遊廓の女性たちの存在にも触発され、『明治吉原細見記』『絵草子吉原炎上』の作品も手がけた。これは後に昭和末の映画『吉原炎上』(1987年)の原作となる。

 ちなみにわたくし、『ごぜほたる』1巻表紙やカラーページの色彩感覚も好みで御座います。淡さと鋭さが同居した凛々しい絵柄ですな。