『大吉原展』と『べらぼう』、「文化」と「差別」と「歴史を見る目」(前編) | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○泣き女の呟き


◇朝日新聞 2024.4.11(木)朝刊
 1面 連載「折々のことば」
 鷲田清一 (No.3054)

「笑って許してくれるから
 傷つけていいわけじゃないし、
 理解できないからって
 否定していいわけじゃないよね。」 ・・・原田ちあき

【鷲田:評注】
 小さな「心の怪我」だって本人には致死量かもしれない。だから勝手にしょぼいなんて決めつけないでねと、イラストレーターは言う。自分を大事に思ってくれない人のために何かを我慢する必要はない。みんな「他人の趣味を否定することを趣味にする人にだけはならないでおこう」と。
 作品集『私はかわいい、絶対かわいい。』から。

 (引用終わり)



 内容が気になったので捜してちょっと読んでみたら、面白いテイストのイラスト本でありました。

 涙目とかボロボロ泣いてる女の子の極彩色の絵に込められた、少女や大人の女性の隠れた心の傷と、その痛みを表には見せない自分への憐憫、「私は絶対かわいい」と自らを励ます心の声。
 日々の他人からの無遠慮な非難や中傷、肉親からのものであっても許容できない軽口と揶揄。それを受けても何事もないよう平静に振る舞っているかに見えて、内面では激しい葛藤と容易に癒えない傷痕。
 ネットやSNSなどで人の心の声がよりハッキリ表出されるようになった現在、これまで見えなかった我慢や屈辱、憤懣や諦念の情が即座に可視化されるようになってきたのかもしれない。
 少なくともメディア上では人の心の領域はより繊細に、より多面的に配慮と対応とを要するようになってきた。

 ちなみに上掲の文章は

「痛がらないからって
 殴っていいわけじゃないし、
 笑って許してくれるから
 傷つけていいわけじゃないし、
 理解できないからって
 否定していいわけじゃないよね。
 明日もできるだけ可愛く生きていきたい。」

という風に続きます。

◇原田ちあき 公式呟き

 

◇『原田ちあき作品集 
 私はかわいい、絶対かわいい。』

(ところで鷲田清一先生、つい最近刊行のイラストレーションに滲んでる思想にまで目を通されているたぁ視野が広過ぎる。)


○吉原、炎上


◇読売新聞 2024.4.9(火)朝刊
 18.文化面記事

〖 東京芸術大学大学美術館「大吉原展」〗
〖 文化の発信地、性売買 二面性 〗

 吉原遊郭を彩った文化と歴史をたどる「大吉原展」が東京・上野公園の東京芸術大学大学美術館で開かれている。歌舞伎や浮世絵、文芸の舞台となり、文化や風俗の発信地でありながら、正面から扱われることの少ない吉原を多角的に取り上げた。

 (~中略~)

 同展は開幕に先立ち、ピンク色のロゴや「江戸アメイヂング」の文言で華やかさを強調し、SNSで無神経だと批判された。公式サイトで「本展に吉原の制度を容認する意図はありません」と弁解したが、報道内覧会でも丁寧な展示内容と、広報が与えたイメージとのギャップを疑問視する質問が相次いだ。
 学術顧問を務めた田中優子・法政大名誉教授は、展示室の入り口に掲げたあいさつ文で「どれほど美しいものであったとしても、その根幹には、女性の性の売買があった」と人権侵害を許さない姿勢を明示した。訪れた人はどう感じるだろう。会期は5月19日まで。
(執筆:編集委員 高野清見)

 (引用終わり)



 炎上してたらしいです、吉原遊郭。
 いえね江戸時代、江戸都市部の大半を灰塵に帰した明暦の大火(めいれきのたいか、1657年)で「元吉原(もとよしわら、現在の人形町)」も甚大な被害を受けまして。それで浅草に移った「新吉原」が、江戸中後期を通しての花の名所となったんで御座いますが。
 ぜんぶ木造建築で、しかもかなり狭い区画に多くのお店兼住居がぎゅうぎゅう詰めに密集して建ち並んでたもんだから、その後も吉原遊郭はちょいちょい火事を出してたみたい。
 しかし此度の炎上は、ちょいと毛色が違いますようで。




 この大規模企画展の、特にメディア発信の仕方や一部の展内イベントの仕様がだいぶ叩かれていた様子。
 と言っても別に悪意あるヘイト攻撃とかじゃなくて。その内容が遊郭においての女性差別や性売買制度の追認になっているんじゃないか、絢爛豪華な表面だけを切り取って拘束的労働実態などの負の側面を軽視しているんじゃないか、と。かように至極もっともな倫理上の批判が殺到したという次第です。

 吉原遊郭といえば直近では人気アニメ『鬼滅の刃』遊郭編で派手な色街として描かれ、そこで存在を知った若者も多いかと思います。江戸の遊郭を描いた時代小説や演芸作品は元々あったけど、近年では漫画やアニメに登場する機会も増えている。
 あっそういえば、大好評のうちに第1期放映を終えたアニメ『薬屋のひとりごと』。この作品の舞台も遊郭とは少し違えど、主人公が生まれ育ったのは街中の娼館で、物語前半の働き口は後宮。表向きの華やかさ煌びやかさとは裏腹の、舞台袖での生き残りを懸けた打算的な駆け引きや、女たちの陰惨な零落の事例をも克明に描いていましたね。
 吉原遊郭が形式上にも姿を消して早や幾年。しかしフィクション・ノンフィクション作品などに触れ、遊郭における遊女たちの悲哀と苦衷に思いを馳せる機会は現代にも多いのかもしれない。

 また来年のNHK大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』の序盤から中盤にかけての主要舞台もまた、新吉原遊郭。もしかしたらドラマ制作スタッフもこの現代の炎上劇の報を受けて、細かい設定を再チェックしているかもしれない。大丈夫か、横浜流星?
 あと、今年5月に公開予定の時代劇映画『碁盤斬り』にも大事な要素として出てくるんじゃないかなと。大丈夫か、清原果耶さん?


◇日経新聞 2024.4.7(日)朝刊
 12.Culture面 文化時評

〖「大吉原展」はなぜ炎上した 〗
〖「わかりやすい」ほど ものごとの全貌は見えにくくなる 〗

 東京芸術大学大学美術館(東京・台東)で3月26日、「大吉原展」が始まった。江戸幕府公認の遊郭だった吉原の歴史や文化を、浮世絵を中心に約230点でたどる美術展だ。
 筆者のもとに広報用資料がメールで届いたのは2月のこと。ひと目見て心がざわついた。派手なピンク色で次のようなコピーが踊っていたからだ。
 「江戸アメイヂング」「最新のエンタメもここから生まれた!」「THE GLAMOROUS CULTURE OF EDO'S PARTY ZONE」
 「お大尽ナイト」なるVIPチケットを販売するとも記されていた。

 開幕前日の夕刻、70人限定で展示を鑑賞できる特別券だ。価格は図録などのお土産付きで1枚、1万8000円。「お大尽」たちを吉原狐舞(きつねまい=お神楽)で出迎え、吉原遊郭の大門や町並みを模した3階展示室の空間で花魁(おいらん)道中を披露。展覧会観賞後、花魁の舞で見送るという内容だ。
 やがて展示の情報やPRの文言がネットで広まるにつれ「遊園地みたい」「軽薄」などと批判が相次ぎ、主催者は釈明に追われた。

 少なからぬ人が違和感をもったのは、遊郭の「負」の側面が抜け落ちているように感じたからだろう。吉原では武士も刀を預けるなど高い格式を誇った。和歌や俳諧、漢詩や書などに通じた遊女が芸事で客をもてなす文化サロンのような場だった・・・。
 家族の借金のため劣悪な環境で働かざるを得なかった遊女もいたことなどには触れられていない。性暴力や差別、搾取といった問題に厳しい目が注がれる昨今なのに、きれいごとばかりというわけだ。

 実際の展示は、アカデミックに組み立てられている。

(私注:前掲の読売新聞記事、この日経新聞の記事ともに、同展出品の江戸中期の浮世絵師・喜多川歌麿の肉筆画「吉原の花」と明治期の洋画家・高橋由一の油彩画「花魁」を挙げ、他の作家の浮世絵や屏風絵、遊郭案内書「吉原細見」などの展示の内実を紹介している。途中中略)

 300㌻を超える図録は、2020年の「企画展示 性差(ジェンダ-)の日本史」(国立歴史民俗博物館)など新しい研究成果も解説やコラムで紹介する。多様な視点で吉原をとらえようとする工夫がある。

 遊郭や遊女を描く浮世絵や肉筆画は繰り返し展示されてきた。しかし「負の歴史」の欠如がこれほど厳しく批判されたことはなかったように思う。
 江戸時代の作品を鑑賞するのに現代の価値観をあてはめるべきではないとの声もある。企画者で東京芸術大学大学美術館の吉田亮教授は同展が「絵師のまなざしを通して吉原を見て、そこからいろんなことを感じ取る、学ぶ、鑑賞する場」であるとした上でこう明かす。「そこにあえて、そうじゃないんだよというメッセージを加えることには違和感がある」

 一方で、浮世絵に詳しい慶應義塾大学の内藤正人教授は、元来、浮世絵が芝居小屋と遊郭という二大悪所を題材にしてきたと断った上で次のように指摘する。
 「『大吉原展』の題名は吉原のすべてを扱うとの印象を与える。かつて吉原があった場所には、いまも性風俗の店が立ち並ぶ現実が厳然としてある。娯楽性や刺激的な面白さを前面に出せば、負の部分に触れないのかと反発がでる可能性はあった」

 主催団体の一つである東京芸大は日本で唯一の国立の芸術大学だ。元の吉原で遊郭専門の「カストリ書房」を経営する渡辺豪さんは「(創造の場である芸大には)社会課題に切り込むアートの可能性を示すことが期待されていたはず。それなのに、いまも繰り返される女性への差別意識に対して消極的、あるいは加担していると感じる人がいたのではないか」と見る。
 主催者によれば、同展では「わかりやすさ」を重視したという。展覧会やイベントの名前、キャッチコピー、展示室の仕掛け・・。これらが「わかりやすい」ほど、ものごとの全貌は見えにくくなる。いま吉原を大々的にとりあげる意味を、主催者はもっと丁寧に伝えるべきだったのではないか。
(執筆:窪田直子)

 (引用終わり)



 意図的に派手派手しく豪奢にエンターテイメントするのも、確かに江戸随一の繁華街であった吉原の一つの姿ではある。
 江戸だけでなく全国的にも憧れの名所、死ぬまでに一度は行ってみたい東都の歓楽街。現代のアミューズメントパークもかくやという驚きの趣向が凝らされ、年がら年中非日常の仮想空間のよう。町人の数年分の稼ぎが一晩で飛ぶという特異な消費経済空間でもあった。
 そして、江戸時代後半には最新文化の発信地であったこともまた事実。幕府要人や江戸詰め諸藩の外交役、全国から集まる商人や文人墨客たちの幅広い情報交換の場となり、その中から江戸独自文化の作家たちが育ち、更にそこから広まった流行が江戸庶民文化を形成していった。
 吉原遊郭は夢の国とされ、人気の花魁たちの容姿や振る舞い、着物・着こなし・装身具は浮世絵に描かれて憧憬を集めた。

 しかし一方、遊女になることは「苦界(くがい)に身を沈める」などと表現され、華やかな表の世界とは一転して幕裏では、その身を遊郭という場所・制度・境遇に縛られ意志と行動の自由を奪われた数多くの女性たちの存在があった。
 少なくともこの事を念頭に置いて、企画の全体像を監督するべきではなかったか? 展示品の多彩さや奥深さは評価されているので、内容の充実とともにそのPRの細部にまで神経が行き届いていればと。

 近年、美術展やアート作品、その他の娯楽メディアや映像作品においても、マイノリティや被差別者の心理的抑圧と傷つきに繋がるような表現は、たとえ小さなものでも批判の矛先に挙がることが多くなった。この傾向は良いものだと思う。
 倫理上の批判を完璧に無くすことはできない、表現の自由は封じられるべきではない、それでもその表現によって誰かが痛みを感じる可能性は、できる限りの予測と配慮でもって減らしていった方が良い。

 この風向きは主催者側、表現するクリエイターの側、企画するプロデューサーの側としては逆風に映るかもしれない。10年くらい前までは当たり前に使えてた表現がおいそれとは使えなくなる、昔はみんなが面白がってくれてた悪ノリが炎上の火種になる。
 細心の注意を払って自分が関わる作品の内容を検討し、それでもなおどこかしらか批判の槍玉に挙がるかも。それくらいの配慮への意識と批判を浴びる覚悟がないと、これから表現作品は世に出せないかも。


○歴史物語の中の差別表現


 そういやぁこの4月から始まったNHK朝ドラ『虎に翼』、法律が主題ということで堅苦しい話になるかと思いきや。コミカルなパートもあり、法律も各話のテーマに沿って説明が為され適宜字幕が加えられたりしてわかりやすい。興味深くて面白ェです。
 で、現時点では戦前の話ということで。学校の歴史の授業では皆たいてい習ってきたはずの、「戦前の大日本帝国憲法では民法を中心に女性は差別的な扱いを受けていた、社会に男尊女卑の考え方が蔓延していた」という内容。

 しかしその内容の具体像を、この『虎に翼』の中で刻明に実感した人も多いのではないでしょうか。ドラマ内には「女性(家庭内主婦)は “無能力者” 」という文言がたびたび出てきます。
 いえ私が言ってるんじゃなくて。戦中まで運用されてた旧帝国憲法の条文や裁判の判例に、まんま記載されてるんですね。しかもこれが削除され女性蔑視の方向が転換したのは内発的なものじゃなくて、戦争に敗けてGHQが来て、その指示で外圧的に修正された民主主義憲法においてであったと。

 この『虎に翼』における差別的表現は、まず史実に基づくものであること、それによって当時の女性たちが大いに抑圧され苦悩していたこと、そしてその差別及び差別的法制度を間違ったものであると描こうとしている点において、ドラマに必要不可欠な要素であると言うことができる。それこそがこの作品の大きなテーマであるのだと。

 とは言ってもバランスが難しい。
 そりゃあ時を遡れば人権意識は幾らか後退するんだから、その時々の公権力やクリエイターが差別的表現を使っていたとしても全面的には責められない。いやあんまり酷い例は、大昔の事だろうが作者が故人だろうが取り上げて批判するべきだと思うんですけどね。

 歴史は既に起こったこと、確定していること。それを鑑賞・検討するに、現代の感覚を持ち込んでもいいものか? 歴史研究者なら当時の常識や価値観を尊重してそれを崩さないように考証するが、それに対して現代人として自分がどう感じるかはまた別の話。
 歴史に材を取った創作作品であっても、当時の旧弊的な差別意識を描きながら、同時に現代の感覚から考えた解決案を提示することも手法としては有りだと思う。

 「自分の作品の表現・発言・設定が他の誰かの生活や生き方を貶め嘲弄し、また誰かの傷や痛みに繋がっていかないか?」の観点の有無が、正当な炎上の分岐点であるように思われる。
 じゃあどう対応していくのか、も難しい課題ではあれど、避けては通れない必須項目。作品を世に出す前に色んな視点からの多角的なチェックが望ましい。


○「べらぼう」の語源

 と、ここまで来たんでついでに、次の大河ドラマにひと難癖つけておきましょうか。

 『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は主人公・蔦屋重三郎が吉原遊郭の生まれ育ち、出版人としての駆け出しから躍進していくその舞台となるのも吉原。中盤頃までは主に遊郭を本拠とするお話となると思われます。なのでたぶん、今回の「大吉原展」炎上も他人事ではないと慄然としたかと。
 さてここで俎上に載せるのが、題名でもある「べらぼう」の語。

 おっと、ちょいと長くなっちまったんで、続きは次回記事で。