○論述式2題
①鎌倉時代の年紀法慣習と後醍醐天皇親政における綸旨との関係 ・・やや易
明記が求められるキーワードは「御成敗式目」「20年(年紀法)」「綸旨」、論述に必須なのが「土地所有権」に類する表現、あとお好みで「後醍醐天皇」「建武の新政」をトッピング。
(クッ、条件を一部見落として「御成敗式目」書かねぃちゃった・・! たぶん減点されとる・・。)
これを「鎌倉時代から続く武家の土地所有の慣習」⇔「建武新政での綸旨による土地所有権の変更」の対立軸を念頭にサクッとまとめればいい。
「建武政権を主導した天皇はどのような方針を打ち出したか、またその方針が武士の反発を招いたのはなぜか」、つまり土地支配権の承認制度の面から後醍醐天皇の失政の中身を追及せよ、と。お安い御用でぃ!
時系列順にまとめると、まず鎌倉時代の武家社会には特有の土地所有慣習があった。1232年成立の御成敗式目にも記された「(二十か年)年紀法」という武家側のルールで、他人名義や持主不明の土地であっても20年継続して実地に領有していればその正当な持ち主として認められるというものだ。
◇「御成敗式目」第八条
御下し文を帯すといえども知行せしめず、年序を経る所領の事。
右、当知行の後、廿ヶ年(にじっかねん/20年)を過ぎば、大将家(頼朝)の例に任せて理非を論ぜず改替に能わず。
( ※ 少し読みやすく改編)
現在土地を支配していてその領有が20年以上に及んでいればその当人が土地所有権を有する、またその所有権は20年以上前の旧持ち主の権利書や他所からの訴訟などで取り消されることはないよ、と。
この慣習は御成敗式目の時点で成文化されたが、式目が武家社会の道理と頼朝以来の先例に基づいて定められたことから、この「年紀法」は頼朝以前、もしくは平氏政権の頃から成立していた武士達にとって馴染みのある慣習であったと考えられる。それは式目への明記を経て鎌倉時代を通じて堅実に維持された。
その慣習を無視して所領の新たな認定制度を設けてしまったのが後醍醐天皇の建武新政。
天皇親政の理想としては、それまでの公家法と武家法と荘園法に三分されていた煩雑さと旧慣のしがらみを断ち切り、天皇が全てを決裁する中央集権体制の構築を目指したのだろうが。その方針は全国の公領・荘園への実質的支配権を伸長させていた武家の側から見れば、それまで着々と営んできた方法を安易に踏みにじる暴挙であった。
天皇が発した綸旨(りんじ)があれば、年紀法で所有権が確定していた土地であっても他の者に無条件で明け渡さなければならない。またその綸旨を得ればどんな者でも土地所有が公約されたことから、特に勲功が無い者でも天皇とその身内に取り入れば恩賜を下されるという乱れた風潮を生み出した。
建武政権は一事が万事この調子で先例・慣習を無視した施策や朝令暮改を繰り返し、新旧の武士団やしまいには公家の多くにもそっぽを向かれてしまった。その混乱ぶりは、政権発足時の期待感とその後の大きな落胆として『梅松論』『太平記』や公家の日記などに辛辣に記録されている。
◇「梅松論」
また、天下一同の法をもて安堵の綸旨を下さるといえども、所帯を召さるる輩(ともがら)、恨みをふくむ時分、公家に口ずさみあり。“尊氏なし” という詞を好み使いける。
・・・
武家してまた公家に恨みをふくみ奉る輩は頼朝卿のごとく天下を専らにせん事をいそがしく思えり。故に公家と武家、水火の陣にて元弘三年(1333年)も暮れにけり。
『梅松論』は足利政権に好意的で反対に建武政権の非をあげつらう傾向はあるものの、鎌倉幕府を打倒して新政を開始した1333年の時点でこのような迷走ぶりを呈していたのは事実だったようだ。
まぁそもそも、土地所有権の裁定の難しさは鎌倉時代初期から続く大きな課題だったんですけどね。
鎌倉幕府の一番大きな仕事は、各地各人の土地所有の認可と所領関係の訴訟の受理・裁定であった。先述の年紀法などで一応のルールと慣例は存在したものの、こと土地の事となると状況は複雑の一途をたどる。そも「土地/所領」こそが中世の武士達の最大の関心事であった。
平氏の台頭、源平の争乱、鎌倉初期の権力争い、承久の乱、その他の内乱、元寇、鎌倉幕府倒壊、建武の新政。およそ150年の間だけでも常に何かしら騒乱があってその度に大なり小なり土地所有権の変動があった。
そこに更に武家/公家の重複的な土地支配の確執が加わり、相当に複雑な支配関係が濫立していたのである。
そこで一悶着が起きれば土地関係の書類を携え、できれば有力者の口添えを得て、鎌倉に出向いて公儀の裁定を仰ぐことになる。
相手方と丁々発止の主張合戦を繰り広げ、時に妥協的な折衷案を受け入れ、苦心の末にようやく所有権を安堵される。たとえ20年以上知行する実質的な領地であっても、そこまでしてようやく自家の土地だと証されるのである。その土地を基に生計を立て一族を養い、郎党を召し抱えることができる。
中世の武士にとって、土地所有権を巡るやり取りはまさに死活問題であった。
専制政治への反感に乗じて鎌倉幕府を倒し登場した建武政権であったが、それまでの武家/公家で棲み分けていた土地支配を一元管理する体制を新たに打ち出した。
政務全般について天皇の意思に基づき発行される綸旨が最高決定権を有したが、それが訴人の一方的な主張やあやふやな調査などで不公平な綸旨を乱発したことから瞬く間に信用を失ってしまう。
その綸旨が発行されれば年紀法などお構いなしに土地所有権が書き換えられたことから、既存の慣習に依拠して運用されていた土地支配体制は全国的に混乱をきたした。
天皇と側近の気まぐれや賄賂の横行、また混迷の世に飛び交うニセ綸旨の弊害も甚だしく、早くも政権の崩壊は時間の問題となる。
ただこの時期の土地支配にまつわる混乱は完全な建武政権の失政というわけでもなく、中世全体を通じての厄介な課題であった。
建武政権を追い落としてスタートした足利幕府政権においてもこの問題を根本的に解決するには至らず半世紀近くにわたる擾乱・動乱の世を招いたし、その収拾には足利義満の強権実力政治を待たねばならなかった。
「土地支配の慣習」と言うけれど、その慣習そのものも少しずつ変容していったのが中世という時代。それを織り込んだ客観的できめ細かな法制度を構築できなかったことは、理想が先行して具体策に乏しかったと評価される後醍醐親政の確かな失点ではありますが。
②1630年代(寛永十年~十六年頃迄)の幕府の鎖国政策の推移 ・・易
オーソドックスな鎖国政策の推移を問う。キーワードは「奉書船」「島原天草一揆(島原の乱)」「ポルトガル船」、設問の要求は1630年代の鎖国にまつわる重要施策・事件について主な4つの事項を時系列順に説明すること。
(「寛永○○年」の記入は必須じゃないような気がする。順番が分かれば良いんだろう、たぶん。)
4つの事項の要点だけでもけっこう字数を消費するから、キーワードを入れて順に並べていくだけで規定の80字になる。逆に油断してるとすぐ字数オーバーしちゃうので、各項目について端的にそつなくまとめる必要がある。
思わせ振りに「寛永○○年」って書いてあるから少しややこしく感じるかもしれないが、惑わされないように。近代までは史上の事件や法令について「(年号)~年」「(干支)年」と呼称することがあるので、西暦年だけでなくこちらの表記にも慣れていくことは大事。
本格的な鎖国政策でいうと三代将軍家光の時代。
・寛永十年令(1633年)・・
最初の鎖国令。奉書船以外の日本人の海外渡航と5年以上の海外居住者の帰国を禁止した。
※ 寛永十一年令(1634年)・・
寛永十年令と同じ内容。
・寛永十二年令(1635年)・・
日本人の海外渡航と海外在住日本人の帰国を全面的に禁止。これにより朱印船貿易は途絶した。
※ 寛永十三年令(1636年)・・
これはちょっとマニアックな知識。バテレン密告者への褒賞、及び通商に関与しない南蛮人の子孫(日本人とのハーフなども含む)を海外追放する旨を通達。
・島原天草一揆/島原の乱(1637~38年)
・寛永十六年令(1639年)・・
最後の鎖国令。ポルトガルの貿易船( “かれうた/がれうた” と呼ばれる小型帆船)の来航を禁止し鎖国体制が完成した。
※ オランダ商館を出島に移す(1641年)
鎖国までの推移の主なポイントをただ年号付きで呼称しているだけで、この表記方法に面喰らわなければ落ち着いて流れを辿れると思う。
ついでにこの表記方法をとるものとしては、まぁいっぱいあるんで網羅するのは大変そうですが。他の時代だと鎌倉時代の「御成敗式目=貞永式目」で、有名な用語の別名であったり。
また奈良時代に出された法令「三世一身法=養老七年の格(きゃく)(723年)」「墾田永年私財法=天平十五年の格(743年)」も史料上ではこの形式で表されている。
あと「(干支)年」も散発的にたくさん例があるが、そちらは有名どころからぼちぼち覚えていくしかないかな~・・。
(音読み/訓読み)/「※」はトリビア
▼十干(じっかん)・・
「甲(コウ/きのえ)
/乙(オツ/イツ/きのと)
/丙(ヘイ/ひのえ)
/丁(テイ/ひのと)
/戊(ボ/つちのえ)
/己(キ/つちのと)
/庚(コウ/かのえ)
/辛(シン/かのと)
/壬(ジン/みずのえ)
/癸(キ/みずのと) 」
▼十二支・・
「子(シ/ね)
/丑(チュウ/うし)
/寅(イン/とら)
/卯(ボウ/う)
/辰(シン/たつ)
/巳(シ/み)
/午(ゴ/うま)
/未(ビ/ひつじ)
/申(シン/さる)
/酉(ユウ/とり)
/戌(ジュツ/いぬ)
/亥(ガイ/い) 」
・辛卯の年(391年)
・辛亥年(471年)
※ 癸未年(443年もしくは503年)
・戊午年説(538年)
/壬申年説(552年)
※ 辛酉革命説(601年)
・乙巳の変(645年)
・壬申の乱(672年)
・庚午年籍(670年)
・庚寅年籍(690年)
・
・癸亥約条(嘉吉条約)(1443年)
・壬辰・丁酉の倭乱(文禄・慶長の役)(1590年代)
・己酉約条(慶長条約)(1609年)
・庚申講/庚申待
・戊戌夢物語(1838年)
※ 戊戌封事(1838年)
・戊午の密勅(1858年)
・
・戊辰戦争(1868年)
・壬申戸籍/壬申地券(1872年)
※『丁丑公論』福沢諭吉(1877年)
・壬午軍乱(1882年)
・甲申事変(1884年)
・甲午農民戦争(1894年)
※ 辛丑条約(北京議定書)1901年
※ 乙巳保護条約(第二次日韓協約)1905年
・戊申詔書(1908年)
・辛亥革命(1911年)
・甲子園球場完成(1924年)
こんなもんかな?
史料集などで何度か見かけていればそのうち見慣れてくるので、古文体・漢文体の読みづらさはしばし我慢して史料文を一度は読み込んでおきたい。