「江戸の妖怪革命 後編」お化けのメディア展開 | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。


○秋の日は釣瓶落とし

 いくぶん弱まった日射しは斜めに傾き、空気も乾いて爽やかになって参りました。気づけば夕方も早や5時前には日も暮れかからんとし、夕闇の藍空を見上げる機会も増えてきた。
 秋の陽はつるべ落としとはよく言ったもの、潔くスッコーンと落ちますね、スッコーンと。

 ・・・・・・。

 ところで妖怪に「釣瓶落とし」ってぇのが居ましてね、森の中なんかを歩いてると木の上から影がドサッと落ちてきて、それが人間の首だという。首は火を発して人を驚かす事もあれば、時に人を襲って食べてしまうとも。
 これは「人頭の妖怪」「落下する怪異」「火を発する怪現象」であり、細かい条件は違えども全国に類似の話が見られるという有名な妖怪であります。

 だもんで、「秋の日は釣瓶落とし」ってフレーズを聞くと反射的に「上から首がトスッと落ちてくるシーン」が思い浮かんでしまいましてねぇ。ちっとも風情なんかありゃしねえってオチで御座います。
 というわけで、今日も今日とて妖怪のお話。

 あっ、妖怪シリーズはここで一旦の区切りです。また我慢できなくなたら書いちゃうかもしれませんが。
 では前回の続きから、妖怪の概念が劇的な転回を迎えたこの年の、その後を。

○1776年「江戸の妖怪革命」開幕

 前回記事では1776年を中心に近世以前~江戸時代半ばまでの日本妖怪文化を辿ってきた。
 1770~1780年代、年号で言えば「明和・安永・天明・寛政」の頃は江戸文化の開花期。川柳・狂歌の流行、浮世絵(錦絵)の発展、黄表紙や洒落本のライトな絵入り読み物の普及、他にも身近な趣味教養の深化や習い事お稽古事の一般化など、庶民が気軽に楽しむことのできる色々なコンテンツが出揃った時期である。

 そのコンテンツの一つとして独特の成長を遂げたのが妖怪文化。鳥山石燕「画図百鬼夜行シリーズ」を皮切りに類似の図案が出回り、またヒットに便乗して各種の化け物ビジネスが派生していった。
 そこを一つの山場だとすると次にフォーカスするのは第二の江戸妖怪革命とも言うべき、19世紀に入ってからの妖怪キャラの遍在化。更に多角的に広がっていく妖怪のマルチメディア展開である。


○江戸の妖怪革命、第二幕!

 ・・の前に、前回も触れましたが安永~寛政期には幅広く武士身分から商人・町人に至るまで、大小様々な規模で同好会のサークルが形成されておりました。
 知的好奇心が強い、もしくはコミュ力が高くて顔が広かったり、あわよくばビジネスに繋げる魂胆があったり。動機や才覚のほどは各様ながらも気の合う者同士、好きずきでゆるやかに集まっては技術を研鑽したり他愛ないお喋りに興じたり。
 安永~寛政期の文化はそんなサークル活動から多くの代表作が生まれていく。

 そこでこの時期に交友関係があった主な文化人はこんな感じ。
【 鳥山石燕・勝川春章・平賀源内・朋誠堂喜三二・恋川春町・大田南畝・蔦屋重三郎・石川雅望・喜多川歌麿・山東京伝 】
 世代もバラバラだしそれぞれ付き合いに濃淡はあったろうけど、絵画・学問・文芸のジャンルの垣根を越えてワイワイやっていたと思われる面子である。

 そして次の山場、19世紀前半のメディア展開においてまず重要な役割を果たすのが、前世代の薫陶と影響を受けた次世代の作家たち。
【 鶴屋南北・葛飾北斎・山東京伝・十返舎一九・滝沢馬琴 】
 では順に見ていこう。


○1804年「怪談狂言」誕生とメディアミックス

 NHKおそるべし、と改めて言っておきましょうか。この1804年の画期的出来事に対して、複数の教養番組で取り上げていますから。




 浮世絵作品を基に江戸時代の暮らしを紹介する2つの番組、2つともがお化け特集において奇しくも言及したのが、歌舞伎におけるある年の「夏狂言」の成功であった。
 そもそも歌舞伎などの劇芝居において19世紀以前の夏の興行といえば、他の季節に比べて人気が振るわないものであった。なぜかって?

 芝居が打たれたのは主に大都市、そこで近世の都市空間というものを考えてみよう。まず人口が多い、次に水気が多い。
 これは水利の整備に伴う弊害で、生活のための水路や水道が通してあるのは良いのだが現在のように遮蔽性が高いわけではない、そこで水気が余って全体的にジメジメするんですな。

 特に江戸は海沼を埋め立てた部分にそのまま都市中心部が乗っかってるようなものなんで、土地柄からして湿っぽい。夏なんかは殊に蒸し暑くなって、人口密集と合わせて中々の不快指数に達したものと思われる。
 加えて芝居小屋や演芸場には未だ冷房も空調も無い時代、そこに大勢の観客がすし詰めになるのだからたまらない。気温と湿気と人いきれで暑い、とにかく暑い。そういった事情で真夏の興行は客の入りが悪いものと相場が決まっていたのである。その時期は一座の休養に当てられたりした。

 しかし1804年、その通例を破る演目が現れる。その名も『天竺徳兵衛韓噺(テンジクトクベエイコクバナシ)』。本ブログでも以前に取り上げたことがあるのでご参考に。ただその時は、これが怪談作品であるとは認識してなかったんですけどね。

◇ 『意表を突く男、天竺徳兵衛ッ!』


 詳しい内容は上の記事に譲りますが、特に怪談に関する要素だけを抜き出してまとめてみましょう。
 1804年初演の『天竺徳兵衛韓噺』は観る者を仰天させる趣向を盛り込んだ伝奇アクション。主人公の天竺徳兵衛が繰り出す妖術、大蝦蟇の怪演、奇術まがいの演出など、とにかく観客を驚かせるギミック満載の野心作であった。
 物語の奇怪さと意表を突く仕掛けが相まってのハラハラドキドキ、それが当たって夏興行としては異例のロングランを達成した。それ以降、夏には怪談芝居を掛けることが慣例化する。

 この『天竺徳兵衛韓噺』を手がけた劇作家が四世鶴屋南北(ツルヤナンボク)、主演は尾上松助(オノエマツスケ)。2人にとってはこれが起死回生のチャレンジでもあった。
 鶴屋南北は下積み時代がとても長く、この前年に50歳を目前にしてやっとこ作家デビューを果たした老いらくの新人。片や尾上松助はこちらも既に60歳を迎える老齢で、役者としては大ベテランながらもめぼしい当たり役もなく中堅どころに甘んじていた。

 そんな崖っぷちのオジィちゃん2人がタッグを組んで送り出したのが奇想天外の痛快怪談活劇。鶴屋南北はこのヒットによって一躍一流作家の仲間入りを果たし、松助もここから人気役者へと栄達していく。2人はその後も組んでいくつかの怪談狂言を成功させ、そして誕生したのが『東海道四谷怪談』だ。
 初演は1825年。本は鶴屋南北、主演は松助の養子の三代目尾上菊五郎。他に当時の市川團十郎、松本幸四郎が共演するなど豪華キャストが揃い踏み。何より南北の本領たる話の筋の恐さと舞台上の新奇の仕掛けの連続とが空前の評判を呼び、本作は日本の怪談を代表する傑作となった。

 『東海道四谷怪談』が後世に与えた影響は絶大なんだけれど、作品そのものも他ジャンルの芸能で再構築されたり、近現代にも映画化やドラマ化されたり。何より200年経った今でも誰もが知る怪談の代名詞となっている。
 そうそう、主演の三代目尾上菊五郎とその後裔の五代目菊五郎は四谷怪談を代表作とし、後代の尾上家・音羽屋は怪談をお家芸とするようになった。
 その縁で、前出のNHK『浮世絵ミステリー』に現代の歌舞伎俳優 尾上松也(オノエマツヤ)さんが出演してましたね。200年前の大先輩に当たる松助が『天竺徳兵衛韓噺』に巡り会っていなければ、音羽屋のその後も違ったものになったかもしれない。そう考えると不思議なえにしで。


○妖怪のマルチメディア展開

 かくして歌舞伎で怪談物が一つのジャンルとして確立した1800年代初め、大衆文化広域においても妖怪関連の作品が同時に励起する。それは1776年を基点とする安永・天明の妖怪一大ブームを継承する動きであるが、そこから更に一歩を進めた第二の妖怪革命でもあった。

 頃は寛政年間、1790年代前半に吹き荒れた松平定信・寛政の改革で文芸・浮世絵の分野は一時的に消沈していた。政治改革が短期間で頓挫したことから完全な断絶には至らなかったけれど、特に文芸、妖怪キャラたちが面白おかしく登場した黄表紙のジャンルは主要な作家たちが筆を控えたこともあって衰退していった。
 代わって盛り上がってくるのが長編小説。黄表紙を数冊綴じ合わせた小説入り絵本・合巻(ゴウカン)、イラストを減らし読み応えある文章をメインとする読本(ヨミホン)が興隆した。

 この合巻や読本には黄表紙とは少し違った形で妖怪が登場する。黄表紙はナンセンス文学であるから茶化しやパロディーの皮相的な扱いだが、長編伝奇小説となるとちょっと真面目(?)な恐ろしげな怪物の性格が増す。
 でもまぁ、妖怪の出番自体は文芸形態の遷移にあっても変わらず需要があったんですな。

 その合巻の作家としてまず名前が挙がるのは山東京伝。京伝というと前回記事で紹介した恋川春町の後輩で、先の寛政改革でそこそこの処断を受けて文筆家として大打撃を被った、という評判が定説ですが。
 事実、京伝が最も評価される遊里文学・洒落本の道はその際の処断によって命脈を断たれている。それでガックリ来ていたその同じ頃、京伝はどうやら愛する人を亡くしていたようで、家業の商売の方に本腰を入れたこともあって作家としての経歴は1790年代半ばに一度途切れている。
 しかし完全に筆を断ったわけではなかった。少し間を置いて再び旺盛に書き始め、黄表紙・洒落本時代のネームバリューもあって再び人気作家となった。

 その京伝の執筆活動とシンクロするのが怪談狂言の繁盛。怪談物といっても芝居仕立てであるからただ幽霊・怪物を出しゃあいいってもんでもない、脚本作りにはしっかりしたプロットが求められる。
 そこでしばしば粗筋の下敷きや演出の手本とされたのが、文化・文政期に出版された長編伝奇小説であった。京伝作品もいくつかの歌舞伎演目に想を与えている。

 江戸の長編伝奇小説といえば、京伝と並び称されるのが滝沢馬琴(/曲亭馬琴)。2人は歳はそう離れてないんだけど先に名を上げたのは京伝の方。馬琴は売れっ子作家の京伝に教えを乞うたり版元の蔦屋重三郎のもとに寄宿したりして下積みを重ね、徐々に文名を上げて読本時代には京伝に伍する人気作家へと成長した。
 最終的には京伝を凌ぐ名声を得て文学史においても馬琴の方が有名になったりするんだけど、とにかく京伝や馬琴の切磋琢磨、またそれに触発された他の作家の文芸活動は江戸後期化政文化の一つの柱となる。

 そんな京伝や馬琴の長編小説にも妖怪、たんと出てきまっせ!
 あっ忘れてた、京伝と馬琴の盟友である十返舎一九のエピソード。滑稽本でお馴染みの作家だが、その作中には妖怪の出番もあった。シリアスじゃなくおどけた登場ではあったけれど、喜劇の中に何気なく出てくるほどに妖怪が生活の中に遍満していたとも言えようか。

 そしてもう一方の柱、浮世絵や挿し絵のヴィジュアル文化。

 元より合巻(黄表紙)は絵が主体のイラストムック。また読本は文字情報量多めの長編小説ということで、挿絵も物語を彩り読者の理解を助ける大事な要素であった。そこで人気作家ともなれば実力ある絵師がその挿絵を任される。
 黄表紙時代の京伝や大成した馬琴の読本には2人の知己である葛飾北斎が挿絵を担当したこともあった。京伝は画工でもあったから自分で描けちゃうんだけど。
 旧知の間柄の北斎と馬琴は仲が悪くなってちょくちょく絶交したりしてたのに、協作となると息の合ったコンビネーションを見せる不思議な関係である。

 北斎の他にも歌川派や勝川派など有名無名の様々な絵師たちが挿絵を受注し、作家と絵師とは協業関係にあった。また一方、小説は浮世絵とも深い関係にある。小説の名場面はそこをハイライトした浮世絵作品に仕立てられた。
 浮世絵というのは一点ものの芸術作品というよりは、大量発行を前提とした簡易な視覚的情報媒体であった。なので題材はまあ、市井の人々の興味関心に合致すればひたすら何でもよかったのである。
 そこで小説では長編の中の特に名場面、まさに絵になるシーンを選んで印象的に描出することになる。どこをどう切り取ってどの様に描き出すかは絵師の腕次第、そうして製作印刷され市場に出回った浮世絵は、読者の目を楽しませるとともにその小説の広告塔ともなった。

 それと同じ構図が、芝居と浮世絵の間にも構築されていた。
 歌舞伎などの人気の演目は、その上演期間中には早くも浮世絵作品となって店頭に並んでいた。役者絵やこれまた名シーンを活写した見所絵、これらは評判記となって芝居と相乗効果を発揮し演劇界を盛り上げた。

 勿論そこにも出てきますとも、妖怪! いや芝居には妖怪が出てこない演目も沢山あるんですがね。でも怪談狂言の成功と伝奇小説の流行が同時進行していた19世紀前半、浮世絵もそれを反映してそりゃあ多くの妖物・怪異が描かれました。
 先駆けての安永・天明期妖怪ブームからの蓄積もあったんでしょう、文化・文政期には巷にお化けの姿が溢れるなんて現象が起こっていたようで御座いまして。それは色んな芸能に飛び火しました。

 1817年頃、落語の界隈で怪談噺を創始したのが初代林屋正蔵(ハヤシヤショウゾウ)。今のシンプルな素噺スタイルと違って当時は人形やら鳴り物やらを駆使した芝居仕立てだったようで、同時期に大成功していた歌舞伎の舞台演出を取り入れたようである。
 芝居小屋みたいなセットで話の展開とともに仕込んでおいた仕掛けを繰り出す、ミニお化け屋敷みたいな見せ方だったとか。そうそう、普通のお化け屋敷もこの頃には市中で興行してたらしいです。

 歌舞伎などの芝居に合巻・読本に浮世絵、落語にお化け屋敷に妖怪図鑑に百鬼図譜。更には妖怪が描かれた双六やカルタ、絵札などの化け物尽くし玩具、からくり射的や幻灯機などのお化け遊具。
 どれか一つが突出するのではなく、全てが同時に生起して広範なメディア展開を果たしていた。大規模メディアミックスのかなり早い事例である。

 このメディアミックスの例を幾つか挙げると、ネタ元⇒影響作は。

・山東京伝の読本『復讐奇談安積沼(フクシュウキダンアサカノヌマ)』(1803年)“小幡小平次”怪談
⇒鶴屋南北の歌舞伎『彩入御伽艸(イロエイリオトギゾウシ)』(1808年)

・山東京伝の読本『善知安方忠義伝(ウトウヤスカタチュウギデン)』(1806年)“滝夜叉姫”登場
⇒歌川国芳の大幅浮世絵『相馬の古内裏』(1845年頃)

・滝沢馬琴の読本『椿説弓張月(チンセツユミハリヅキ)』(1807~11年)
⇒国芳の浮世絵『讃岐院眷属をして為朝を救ふ図』(1851年)

・林屋正蔵の化物落語のセット
⇒国芳の浮世絵『百物語化物屋敷の図 林屋正蔵工夫の怪談』

・鶴屋南北作の歌舞伎演目
⇒山東京伝の読本の種本
⇒葛飾北斎「百物語」連作(1831年頃)
⇒三遊亭圓朝の怪談噺

 以上は星の数ほどある影響関係のほんのごく一部。孤高の天才がひとり独走していたわけではなく、読本作家にしろ芝居脚本家にしろ浮世絵師にしろ、他のエンタメ作品に題材や着想を得ながら自らのオリジナリティを加えて次々と発表していった。双方向的というよりは多方面的、いっそ節操無し。
 完全オリジナルの新作はむしろ少なく、前時代までの古典に材を求めたり、同時代の他の作家の作品からいくつか要素を抽出してブレンドし再構成したりと、コラージュやトリビュート、2次創作も立派な独創と認められていたのである。

 えっ、パクりじゃねえかって? イヤだなぁインスパイアと言っておくれな、刺激し合う健全なやり取りでげすよ。二匹目の泥鰌ビジネス? いいんだよ、旬は逃すなって格言知らねぇのかい!
 そうして庶民の人気を指標にしながら多くのジャンルで人々に好まれる素材が切り貼りされリフレインし、多彩ながらも反復コピーの傾向をも持つメディアミックス文化と商品ビジネスが育っていくのである。

 かくして18世紀後半から19世紀半ばにかけ、江戸庶民文化を母体として華々しい妖怪文化が誕生する。もはや一部の知識人階級の手遊びではなく、担い手は圧倒的多数を占める庶民、大衆。それも安価で供給される貸本や浮世絵、おもちゃや市中興行の形で提供されたから、もはや妖怪は生活の中の一部として当たり前の存在になっていた。

 1840年代前半に水野忠邦・天保の改革が娯楽風俗を徹底的に取り締まった時にはジャンルレスな妖怪文化も少しは見咎められたが、他の芝居や言論活動や浮世絵に対してほどには弾圧されなかった。それどころか表立っては言えない幕政批判を妖怪世界に寓意仮託して風刺する動きも出てくる。
 天保改革自体もこれも短期間でポシャったから、妖怪文化は息長く存続することになる。しかし、近代化の波は思わぬ所から妖怪存在の根幹を揺るがすのであった・・・。次章に続く。

 さて次に進む前に、本記事の参考図書を。香川雅信氏が参与した、妖怪画の系譜を辿り妖怪史と各時代のメディア展開に迫る図説本。妖怪関連の絵画や漫画を広く収録する他、黄表紙から読本作品の内容と挿絵を紹介するなど妖怪ヴィジュアルを渉猟する一冊だ。



 同じ趣旨で江戸後期~明治半ばの浮世絵妖怪画を博覧したのがこの一冊。お化け妖怪お化け幽霊、とにかくページをめくってもめくっても余白すら惜しんで、ひたすらお化け絵だらけ。
 あっちなみに、下サイトの窓に貼り付いて超上目遣いでじっとりと睨めつけてくる骸骨お化け、これが噂の怨霊「小幡小平次(こはだこへいじ)」でやす。どうです、男前でっしゃろ?



 んでこちらは昨年刊行されたばかりの好著、演芸作品の中でも怪談物に焦点を当てて通覧しようという意欲作。面白い視点だと思ったら著者は日本文化をメインとするライターで、現役の噺家さんの奥さんでもある方だそう。自身に引き付けてこのテーマを選んだそうだが、調べ物が大変で執筆は中々に難航したらしい。
 江戸後期から明治にかけての歌舞伎や落語の名作怪談を広くピックアップし論じているが、話がちょっぴり落語に片寄るのはご愛敬。それでもこの方面からの研究は未だ専門的にも途上の分野、大いに意義ある取り組みである。



○文明開化の明治、妖怪の危機


〈ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲ~、
 夜は墓場で運動会
 楽しいな、楽しいな、
 お化けは死な~ない~
 病気もなんにもナイッ! 〉




 オバケは死なないもの、だそうで。存在感が薄れたり忘れられたりすることはあるんだけど、少なくとも死ぬことは無いと。そりゃそうか。
 ただし妖怪、死にはしないが弱りはする、苦手なものは幾つかあるようです。それは例えば「啓蒙・統制・戦争」。しぶといから死に絶えはしない、細々とでも生き残りはする。だがこれら天敵というべき思想や現象が世の中で支配的になると、妖怪はその本来の力を大きく減じるようで御座いまして。
 それら諸相が妖怪文化に幾度も降りかかってきたのが、明治以降の日本近代史でありました。

 幕末にかけていよいよ昂隆し、外憂の到来と維新の嵐すらなんとか乗り切った妖怪文化、しかし意外な刺客が現れた。明治近代化に伴う啓蒙思想の導入である。
 世にいう文明開化、古きを捨てて新しきに就く概念の大転換。とにかく西洋由来で合理的なものは良い、反対に古臭くて迷信めいたものは悪い、と拙速な取捨選別が行われ、その動きは新政府発足まもない1870年代には既に日本中を席巻していた。

 そこでバッサリ斬り捨てられたのが、我らがお化け文化。現実に居もしない妖怪をかたどって持て囃してどうする、幽霊なんて気の迷いだ。そりゃごもっとも、グゥの音も出ない。
 そもそも皆んなフィクションだと分かってて楽しんではいたのだが、それが旧弊的で文明進歩の足を引っ張るものである、なんてお偉いさんが声高に説くもんだから庶民もすっかりその気になっちゃった。

 人々は新しい文物や洋化の娯楽に熱中し、去りゆく江戸の文化は下火になる。あまつさえ妖怪や幽霊なんかが見えるのは気の迷い、神経病の所為だと、近代医学の所見と科学的合理精神でもってお化けの虚構性を解体する動きまで出始めた。
 でも面白いことにその近代合理主義と先端科学の本場である米国や英国なんかでも、19世紀後半には胡散臭い心霊科学なんかが流行ったりしていた。頭脳明晰で論理的思考の権化のような名探偵シャーロック・ホームズを生み出した英国作家コナン・ドイルでさえ、一時は降霊会にはまって晩年は心霊主義に強固に傾倒していたほどである。
 この頃は前近代の精神性と、進歩する科学がもたらす合理性とが一進一退の攻防を繰り広げている時期だったのだろう。

 新政府も強力に国の近代化を推し進め、そのあおりを受けたのが芝居や講演の世界。なんでも派手派手しい鳴り物とか大道具なんかの仕掛けに制限がかけられたようで、落語では怪談噺に用いていたセットを使えなくなっちゃった。
 そこで怪談噺を継承しようとした三遊亭圓朝は話芸に磨きをかけ、ギミック無しでも聴衆の心を掴む新しい形の人情噺を創作した。その中でも代表作とされるが『怪談牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』の怪談作品群である。

 仕掛けが使えないこと、そして世の風潮が怪異の体験を衰弱した神経の所為と見なしたこと、これを圓朝は逆手にとる。本当に怖いのは人間の心、妬み嫉みや恨み辛みのどろどろした感情、不義理と裏切りの後ろ暗さ、わかり合えない孤独と孤独。人の心の裡の暗がり、人と人との関係性の歪みの中にこそ、妖しい魔は生ずるのだと。
 ありふれた人間がふと垣間見せる狂気、疑心や罪悪感からこの世ならざるモノを幻視する脆さとを、精細な心理描写と巧みな話術で描き出してみせた圓朝。圓朝の卓絶した話芸も相まって怪談噺は一世を風靡する。

 この事が象徴するように怪異は人に内在化し、元来の人と世界とのあわいに生起するものから、人間の内面で完結する異常心理現象へと姿を変えていくのだった。
 前近代ポップカルチャーの一部であった妖怪は近代開化主義の威光の前に後退し、科学の洗礼を浴びてまた違った形へと変容していく・・。

 ・・おっと少し悲愴ぶって極端に述べて参りましたが、妖怪はしぶといんで草の根レベルでは生き残って居りやした。文芸や演劇などの妖怪作品は数的には鳴りを潜めましたが、おもちゃや浮世絵など普段使いの道具や娯楽の中には変わらず用いられており。
 ただ扱いがね、江戸末期の文化の最前線から、明治には一等劣ったもの、数段遅れているものとして格付けがだいぶ下がったと言いましょうか。まぁそもそもサブカルだから軽く扱われても良いんだけど、やっぱり新しくやってきたピカピカの文明開化の勢いには敵わない。
 明治という時代は、江戸時代に培われた無駄を愛し薄闇に遊ぶような曖昧を楽しむ情趣がだんだんと斥けられていく、強いて理性的たらんと欲する啓蒙の時代でありました。


○妖怪博士登場と妖怪学の誕生

 そこへ登場するのが「妖怪博士」こと井上円了(イノウエエンリョウ)。哲学者で東洋大学の創学者としても知られる啓蒙思想家である。
 主軸としたのが東洋哲学。特に仏教について前近代の迷信や雑多な風習にまみれた俗化した姿を危ぶみ、それらを排した純粋な信仰、純粋な哲学としての仏教の純化を志向した。

 で、それと同じスタンスと熱意で取り組んだのが「妖怪」と。今日一般的な「妖怪」という呼称、これを「お化け」「怪現象」全般を表す語として定着させたのが、誰あろうこの円了先生であった。
 円了以前は同じ事象を表すのに「お化け」「化け物」などの語彙を用い、例えば「妖怪」と書いてあっても読み方は「バケモノ」といった具合に、「ヨウカイ」と発音する例は稀であった。

 明治中頃に円了が民衆の教化を目指す際、目についたのがこの「お化け」を取り巻く巷間の軽躁。そこで円了は世の中にある様々な怪奇現象・不思議な体験をまとめて「妖怪(ヨウカイ)」と総称し、それらを一つ一つ取り上げ検分して解析、分類整理していった。
 ここでの「妖怪」とは不可思議な現象全てであって膨大な量があったが、これを学際的に生真面目に分類。その成果を『妖怪学講義』(1890年代)などとして出版公表した。

 だから「妖怪博士」とか呼ばれるようになっちゃうんですが。ただ、妖怪を援護するんじゃなく、円了がやろうとしたことは妖怪現象の解明と迷蒙の排斥であった。明治の「妖怪バスター」とでも言おうか。
 じゃあ妖怪の敵じゃないか、と思うかもしれないが、複雑怪奇なこの世の中はそう簡単に敵味方を分けられるようには出来ていない。

 まず、円了がわざわざ銘打って取り上げアカデミックな手法手順で追究したことで、ここに本邦初の学問分野「妖怪学」が創啓されたのである! それまで「妖怪好きの学者」とかは居ただろうけれど、本格的な専門の学問分野は立っていなかったのだ。
 次に、新しい見地を提示されたことで、日本文化の一部としての妖怪の価値を見直す動きが出てきた。一段低いもの、副次的なものとして扱われてきた妖怪を、それをこそ主眼として文化の中で位置づけし直す動き。他にも台頭してきた科学と照らし合わせたり、西洋でも出発したばかりの心理学を適用してみたり。

 何より妖怪現象を究明しようとした円了自身が、理屈で考え得る全ての虚妄を排した後に残る正真正銘本物の怪異、名付けて「真怪」の存在を余地していた。
 円了は本当は大の妖怪好きだった、が現在の通説になっている。そうじゃなきゃあれだけ熱心に妖怪現象を収集・分析したりはしないでしょ、と。

 当の円了の真意はさておき、学問研究の対象となる道を示された妖怪文化はここで新たなフェーズに入ったと言えるだろう。散発的に起こるオカルトブームに便乗したりもして、形を変えながら妖怪たちはぬるっと20世紀へと滑り込んでいく。


○民俗学における妖怪、あるいは妖怪民俗学

 次の主役はこの方、柳田国男(ヤナギタクニオ)。近代の学者で民俗学の嚆矢にして泰斗。
 民俗学は探訪と聞き取り、伝承の記録や文献調査など、実地のフィールドワークに基づき文化の形態を探っていく比較的新しい学問である。

 その創始者たる柳田国男は古俗風習や言い伝えなど日本文化の土着の一面に光を当て、土地土地で固有の文化が層をなして堆積していることに注目しそれを研究対象とした。
 特に力を入れたのが、柳田自身が幼少期よりなぜか惹かれていたという妖怪の探求。民話伝説を集め古文献に当たり、その土地の住人から聞き取りした記録の中には妖怪現象の話も多く含まれていた。

 その研究成果は特定の土地の伝承を文学的に綴った『遠野物語』(1910年)、また妖怪考証の集大成である『妖怪談義』(1956年)にまとめられた。民俗学の草分けとしても日本文化の習俗的側面の発見者としても、柳田国男の残した功績は大きい。
 ちなみに現在の「妖怪学」を大別すると、上位分類としては「民俗学」の範疇に入れられるようである。図書館で妖怪の事について調べようと思ったら、「歴史」「民俗」「美術(浮世絵とか妖怪画)」の棚に行くと関連書が置いてある。「民俗」の棚が一番充実してるかな?
(ただし水木しげるは「漫画カルチャー」、京極夏彦の本は「現代小説」の棚にまとめられてることが多い。)

 妖怪文化は多様で広範でごちゃごちゃしてるから単独の物差しで測りきることは出来ないんだけれど、それでも民俗学的視点は妖怪文化の遡求に一つの確かな足場を築くものであった。



○いよいよ出番だ水木しげる、そしてその先へ

 その柳田国男民俗学に多大な影響を受けたのが御存じ現代妖怪ブームのパイオニア、我らが水木しげる大先生。
 水木しげるが再三編んだ妖怪図鑑を見てみると、その狂気の点描線描の細密さに戦くのと同時に、民俗学に根差した解説が付されているのに驚く。

 そういや子供時分に水木しげる妖怪図鑑で何が怖かったかというと、絵柄は言うまでもなく、その実話に基づいてますみたいなテイの説明文が恐怖を増してたなと。いや実在の伝承に取材してるからホントに実話ではあるんだけれど。こんな妖怪がリアルに棲息してるなんて、何て恐ろしい世の中なんだと勘違いするには十分な能書きであった。
 実際に水木しげるは漫画描きの参考として、膨大な量の民俗学書や妖怪関連の古書籍を収集していたそうだ。貧乏暮らしが極まってもそれだけは手放そうとしなかったとか。

(朝ドラ『らんまん』の牧野富太郎と同じ匂いがする。さすがは『ゲゲゲの女房』の旦那さん? そういや神木隆之介さんは子役時代に実写映画『妖怪大戦争』に出てましたね。
 神木さんは『らんまん』で共演した浜辺美波さんと今年公開の『ゴジラ -1.0』にも出演。何かと妖怪とか怪獣とかに縁のある俳優さん、昭和がよく似合うと定評だとか。)

 水木しげるはそれだけじゃない。『今昔物語集』などの古典説話集や百鬼夜行絵巻、鳥山石燕の図案を含めた江戸時代の妖怪マルチメディアの遺産、更には明治からの妖怪学の成果をすら統合し、民俗学と混ぜ合わせて全く独自の妖怪世界を創造してしまったのだ! それは正に「水木しげるの妖怪ワールド」!
 民俗学や古典の集積を尊重しながらもそれはそれとして、けっこう好き勝手にエディット/デコレートして新しい妖怪観を発信する。この方法を独創したのはやはり日本妖怪文化においては、鳥山石燕と水木しげるのただ2人。

 水木しげるの漫画は貸本漫画から少年誌、ついにはアニメ化とトントン拍子に出世(?)し、1960年代からの現代版妖怪ブームを牽引することとなる。まぁまだ「マンガなんて不良が見るものです!」ってぇ時代でもあったから少し流行っては鎮静化するというサイクルを何度か繰り返したのだけれど、何度も繰り返してればそれは立派な文化形成の土台となる。
 物質至上主義の現代においても次第に妖怪文化が育まれ或いは再興し、水木しげるの晩年にはマンガ・小説・アニメ・ゲームを舞台に妖怪が所狭しと躍動する活況へと至るのであった。

Q:日本史上で最も妖怪が活躍したのはいつの時代ですか?

A:今だよ、今。

 現代の妖怪研究の碩学にしてからが某ポケ○ンを「カプセルに出し入れできる妖怪」と見なしてるんだから、後はもう何でもアリだ!
 マンガの呪霊キャラでもゲームのモンスターでも広義の妖怪に含められる、その数は綺羅星のごとくに増えておりましょうや。

 そんな水木しげるの多大な功績ではありますが、妖怪学の側から見ると罪作りな面も浮かび上がってきます。
 独自の感性でそれまでの妖怪情報を取捨選択・リミックスして一つの強固な世界観を獲得したことは反面、そこからこぼれ落ちてしまった要素や、異なる領域の知識が一本化したことによる単純化の弊害なんかも齎すんじゃないかと。

◆領域展開「水木しげるの妖怪世界(=しげるワールド)」
必中効果:妖怪バカになる。
欠点:固有結界に入るのは容易いが影響から抜け出すのが大変。

 妖怪力の核心に触れるのは良いんだけど、あんまり鮮明で強烈なくっきりした世界観を植えつけちゃったもんだから、そのイメージが先入観として働く。なので学究の際には、水木ワールドが目眩ましになってフラットな視座を確保しにくくなるんじゃないかな?
 そんな大きな功罪を残し、大先生は鬼籍に入られました。令和の妖怪文化は「ポスト・水木しげる」の新しい局面に入ったということです。


○再び、妖怪が苦手なもの

 妖怪が苦手とするその弱点を「啓蒙・統制・戦争」と書きましたが、それについてもう少し突っ込んで考えてみましょう。

 まず啓蒙は、明治の時代に起こった旧態文化排斥の動きが一例となります。
 次に統制。言論弾圧や文芸演劇への監視取締り、及び社会全般への管理統制の徹底、そんな息苦しい世の中には妖怪も棲みづらくなる。遊興娯楽が不要不急のもの、厳しく規制すべきものと見なされるような社会も同様。
 これら啓蒙・統制の2つにおいては確かに妖怪の自由で放埒な文化力は弱められるのであるが、妖怪もさるもの、抜け道・抜け穴・ケモノ径を通ってしたたかに生き永らえるのである。

 しかし戦争はいけない。戦争はそもそもどんな文化の力をも根こそぎ奪うもの、あらゆる文物を焼燼し人心を荒らし尽くすものである。
 戦時統制は狂信的な誠実さで遂行され、不真面目な娯楽は棄却され、下らない虚構を楽しむような心の余裕は奪い去られてしまう。

 なぜ江戸時代に妖怪革命が起こり、妖怪文化が花開いたか? なぜ現代の日本で再び妖怪が活性化しているのか? それは曲がりなりにも半恒常的な平和が実現しているからである。
 どんな時代も紛争のきな臭さは漂っていたものだし、政治経済の憂いは絶えた試しは無い。変化の無さは固定された格差への不満や生活の倦怠、成熟後の退廃的な空気をももたらす。
 それでも、平均的には平和だったからこそ物の蒐集に凝ったり雑学趣味に打ち込んだり、あまつさえ妖怪なんてぇ堅実とは真逆の与太話に現つを抜かす暇が生まれたのである。

 世の中がぜんたい平和じゃないと妖怪たちは隠れちゃうよ、人の心に余裕がないと妖怪は楽しめないよ。
 妖怪文化を楽しむのに資格や教養なんて本当は必要ないんだけど、最低限の環境は必要とする。それは人が人をむやみに責めたり理不尽に攻撃したりしない、安全な世相である。


◇朝日新聞 9/24(日)付 朝刊
 23.文化面記事
 京極夏彦『鵺の碑』刊行記念インタビューより

京極夏彦:
 陰謀論がはびこる世の中にお化けは湧きにくい。また、戦争のように、みんなが同じイデオロギーを持って一つの方向を向く時代にもお化けは出てこない。いかに多様であるか、多様性をどれだけ許容できるかということが、お化けが繁盛するポイントなんです。
 とにかくお化けは戦争が大嫌いですから。どんな状況であるにしろ、爆弾を落としたり戦車で大砲を撃ったりするのは絶対にいかんだろうと、それだけはまちがいないわけです。暴力はいかんですよ。
 ぼやーっとして、どうでもいいよ、という。お化け的なあり方を世界中がすると、だいたい平和になるんだろうなと思うんですけどね。




 ところで京極先生の「百鬼夜行シリーズ」がスピンオフした志水アキ先生の妖怪マンガ『中禅寺先生物怪講義録 先生が謎を解いてしまうから』、掲載誌『マガジンエッジ』が休刊したということで今後どうなるんでしょう?
 あっ、別媒体に移籍するんですね! 移籍先も一応もう決まってると。




 そういや妖怪たちが恐がるものがもう一つありました、それは「打ち切り/廃刊/絶版」。

 クリエイターが病んだり死んだり筆を置いたり、或いは発表の場が時局や時流の悪化で消滅して活動を止めちゃったら、妖怪も消えてしまいます。水木しげる青年が南方で戦死しなくて本当に良かったー! 片腕もがれて帰ってきたけど。

 だから戦争は文化の天敵なんじゃいッ!