18年歴検 記述問題② | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。

○文部省美術展覧会 ・・・やや難

問題・・・

「第1次西園寺公望内閣の文相牧野伸顕の尽力によって開催されるようになった美術系のイベントは、美術界にとってどのような役割を果たすことになったか。『老猿』『女』の作品でそれぞれ知られる美術家と、彼らの活躍に象徴される、それまでの明治美術の潮流にもふれながら、80字以内で説明せよ。」

模範解答・・・

「高村光雲の伝統的な木彫と、荻原守衛の西洋流の彫刻に象徴されるように、日本美術と西洋美術は対立・競合しながら発達してきたが、文展は両者に共通する発表の場となった。」 ・・・(80字)


 アイヤー、とうとう出てしまった文化史の記述問題。しかもおろそかになりがちな美術系の官設組織の概要を示せと。さらにはオーソドックスな日本画西洋画ではなく彫刻分野を選ぶとは、なんかの意地悪なんだろうか。
 とりあえず、具体的に記すことが求められているキーワードは「文展/文部省美術展覧会」「高村光雲」「荻原守衛/碌山」の3つ。

 では文部省美術展覧会に始まる官設展覧会の歩みをたどりながら、高村や荻原などの近代の芸術家たちを個別に紹介していこう。
※問題文の中心は彫刻分野だけれど、手元にある美術資料が日本画のものしかないので紹介はかなり日本画に偏ります。


○文部省美術展覧会

 近代化を達成した日本の文化面において、フランスのサロンのような機関が必要であるとの建議が受け入れられて開かれることになった官設の美術展覧会。
 文部省主催なので文部省美術展覧会、通称「文展」。

 1907年に第1回展が東京上野公園の勧業博覧会美術館で行われて以来、毎年秋に開催された。
 日本初の大規模展覧会として日本画、西洋画、彫刻の3部門の会派が一堂に会し、一般の観覧者も訪れて反響を呼ぶ。

 その第1回展の審査委員を調べてみた。

芸術家から・・・
 橋本雅邦/横山大観/下村観山/
 竹内栖鳳/川合玉堂/黒田清輝/
 浅井忠 /中村不折/高村光雲
 
有識者・・・
 岡倉天心/森鴎外
他、文部省や政府の高官

 スゲェ、美術芸術界のレジェンドたちが揃い踏みである。みな美術教科書や日本史資料集でお馴染みの明治の巨匠たち。
(中村不折は書道の大家)
 この顔触れが示すように、文展は政府がその威信にかけて用意した国家的な事業であり、美術界の最高峰の権威を確立した。

 多種多様の分野と諸会派に分かれていた芸術家たちの共通の作品発表の場となり、新人作家の登竜門ともなって当時の作家たちに異様な興奮と緊張を与えた。
 また一般大衆が観覧し美術鑑賞の趣味を育てる国民教化の役割も果たし、入選作は新聞雑誌などメディアに取り上げられた。

 このことから文展が日本の近代美術に与えた影響は大であり、最大規模の美術イベントであることには疑いがない。
 しかしその第1回の開催時から、すでにいくつかの問題が生じていた。

 まず審査委員の公表に伴う人選への不満である。官展内の主導権を巡り諸会派間で争いが起こり、また入選作の選考においても審査委員の縁故やコネの情実が絡むなど人事面での不満が噴出した。
 更にかなり早い段階で権威主義が蔓延し、排他的・閉鎖的なアカデミズムが固立してしまう。

 これらの問題で象徴的なのは日本西洋画の巨人である黒田清輝(くろだせいき)である。西洋画の第一人者として活躍し文展開催の建議にも尽力した黒田は文展内で大きな発言力を持ち、帝国美術院長にも就任した。彼の意向が反映した人事がまかり通る場面もあった。

 こうした文展の弊害は当時の世間からも指摘されたところで、夏目漱石も1912年に発表した「文展と芸術」の中でその権威主義と没個性化を批判している。

 ましてやこうした画一的迎合的なアカデミズムを嫌う者が多い芸術家たちのこと、1910年代には文展に反発して多くの在野団体と独自の展覧会を旗揚げしていった。その動きの中から大正昭和の新時代の作家たちが登場してくる。

 そういえば近代芸術の本家フランスでも、元々の権威あるサロンに反発した画家たちが自前で小規模な展覧会をこしらえ自分たちの絵を出品し始めた。
 それが19世紀後半のこと、彼らの画風が現在「印象派」と呼ばれる一時代のうねりになるのである。
 んでもって、その印象派展の中でも作家たちは参加や離脱、交友や喧嘩を繰り広げて離合集散するのである。
 そもそも気鋭の芸術家というのはその大部分が独自の世界観を確立した独立者であり、個性(と書いてアクと読む)の強さで美術史に名を残したような面々だ。そんな人たちが群れようものなら議論問題が百出するのは当たり前なのである。


 「原田マハの、泣ける印象派物語」


○院展とその後の官展

 さて日本で1910年代に湧き起こった新たな美術の潮流であるが、その最大のものは「院展」である。
 1898年に岡倉天心らによって結成された日本美術院。一時は停滞したものの1914年に再興し、そこから主催したのが日本美術院展覧会、通称「院展」。

 再興の主役となったのは岡倉天心に師事した横山大観と下村観山、前出の文展初期の審査委員で日本画の双璧である。
 院展は伝統的な日本画や彫刻の分野に注力し、文展から離脱した作家や大正時代の新世代が参加して文展に匹敵する規模を誇る展覧会に発展した。

 一方の文展は、院展などの影響力の増大に圧されて総合展覧会としての存在意義はやや薄れたものの、官展としての権威を維持した。
 1919年に改組して帝国美術院展覧会=「帝展」、1937年に再び文展に戻る=「新文展」。
 太平洋戦争後には日本美術展覧会=「日展」となり、のち民間団体の運営に移行して現在に至る。

 また他には洋画の「二科会(にかかい)」などの在野団体が勃興し、若き才能が飛び立っていった。
 あんまりスッパリと分けられるものでもないだろうが、この時代の芸術家たちの活動・発表の場は以下のように大別できると思う。

A、文展系の官設展覧会
B、再興院展
C、その他の在野団体の主催展覧会
D、ほぼ個人活動で個展

 なんとなく権威の順に並べてみたが、もちろんこれが芸術としての優劣に比例するわけではない。
 でもね、文展なんかに入選すると、もう時代の寵児みたいになるんですよ。それが貴人や高官の目に留まって宮中・政府のお買い上げになんてなってみなさい、もう人気やら知名度やら制作依頼の殺到やらでウッハウハの事態に。

 その反対に、毎年精魂込めた作品を出しているのに落選が続いたり酷評を受けたりすると、もうドン底である。まさに天国と地獄。
 ある者は官展に反発して在野団体を興し、またある者は展覧会と世評そのものに背を向けて独立独歩の創作活動に入っていく。


○文展初期の入選者と著名な作家

 それでは文展の初期の受賞者とその作品・画風、文展に参加した著名な芸術家を何人か紹介しよう。※ちなみに文展は二等賞が最高賞。

・第1回文展(1907年)
 二等賞・・・ 和田三造『南風』


◇和田三造・・・

 『南風』は有名であるがちょっと画像が見つからない。小舟に乗っているムッキムキの半裸男性が主眼(?)の洋画である。決していかがわしいものではない、美術教科書にも載ってるし。

・第2回文展(1908年)
 二等賞・・・和田三造/吉田博/朝倉文夫

・第3回文展(1910年)
 二等賞・・・ 吉田博


◇吉田博・・・

 この人は初期文展で入賞し第4回からは審査委員の側に回っている。しかし黒田清輝と対立し、水彩画という画風の退潮もあって一時画壇から離れた。
 その後は時代遅れになっていた木版画に新たな息吹を吹き込み、日本の山岳や世界の絶景を木版画に仕立てて活路を見いだした。透明感のある美麗な風景画である。






◇高村光雲(たかむらこううん)・・・

 では歴検問題に戻りまして、まずこの人から。明治を代表する彫刻家である。息子の高村光太郎は詩人・彫刻家として有名。
 代表作である木彫『老猿』はシカゴ万博に出品され優等賞を獲得した。また上野公園の西郷隆盛像もこの人の作である。

文化遺産オンライン 『老猿』

「美の巨人たち」 『西郷隆盛像』


◇荻原守衛(もりえ)/碌山(ろくざん)・・・

 フランスの彫刻家ロダンの芸術観を日本に紹介し、自身も西洋流の彫刻技法を導入した。

文化遺産オンライン 『女』

 この『女』はあまりに有名な近代彫刻の傑作である。守衛が思いを寄せた女性をモチーフに製作したとされ、これが彼の絶作ともなった。

 しかしこれよりは同時代の彫刻家朝倉文夫(あさくらふみお)作の『墓守』の方が渋くて好みなので、なぜか朝倉文夫の方だけを覚えていて荻原守衛の『女』を失念していた。
 というわけで、歴検本番では
「『老猿』と『女』の作者は高村光雲と荻原守衛かな・・・?」
と一旦は思ったのだが、怯んでしまって荻原守衛の方の名前を書かないでしまった。
 ギャース! 合ってたのにぃ、書いときゃよかったー! ここでだいぶ減点されたと思う。

 ちなみにこれが『墓守』。渋い。
文化遺産オンライン 『墓守』


○「知られざる日本画家」

 最後におまけとして、ここ数年で頻繁に名前を聞くようになった日本画家、不染鉄と田中一村をそれぞれの官展との関係を中心に紹介してみよう。


◇不染鉄(ふせんてつ)・・・

 本当にごく最近名前をよく見かけるようになったのだが、瞬く間に日本画を代表する人気作家に数えられるまでになった。こんな絵を描く人である。

不染鉄之画集不染鉄之画集
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 この代表作『山海図絵(伊豆の追憶)』は1925年の第6回帝展に入選したものである。不染は第1回帝展に入選したのを始めとしてその後もたびたび入選している。

「美の巨人たち」 不染鉄


◇田中一村(たなかいっそん)・・・

 幼い頃から絵の才能をあらわすも青年時代には家庭の事情で生活のための労働に従事し、その中でも画業を継続した。40歳代後半(1950年代)に力試しにと日展と院展に出品するも落選が続く。

 美術学校の同窓である東山魁夷(ひがしやまかいい)が同じく苦学しながらも後半生に世に広く認められたのとは対照的である。
※ちなみに魁夷の飛躍の契機になったのもまた、日展の特選受賞とその後の政府買い上げ。

 だが田中一村の真骨頂はここからである。50代に入って千葉から奄美大島に移り住み、それまでに培った日本画の技法を駆使して南国の風物を描き取るという独自の画境を切り開いた。



評伝 田中一村評伝 田中一村
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 またその生涯は映画化もされている。
 後半生に好きな絵を描いて暮らすというと悠々自適な隠居生活を想像してしまうが、一村の場合は生計のための肉体労働をしながらの大変な道行きである。

 紬(つむぎ)の染色工をしていたというからたぶん奄美特産の大島紬を染めていたのだと思うのだが、伝統的な染色作業は結構根気のいるものだっただろう。
 そんな仕事の傍らで早朝や夕暮れ時に奄美の自然の中を歩いて見て回り、自由になる時間には絵に専心するという、まさに人生と画業が一体となった生活を亡くなるまで続けた。




 不染鉄は官展に受け入れられたが、表面上はその評価から自由だったようだ。(たまに同世代の人気作家と自分を比べて愚痴ってしまう時もあったようだが。)
 一方の田中一村は官展から弾かれたが、それが後半生の画境の開拓に資し、没後40年余りが経った現在のブームにつながっている。

 このように近現代の芸術家たちの生涯を、官展を始めとする権威ある展覧会を軸にして見ていくという視点も面白いものである。
 この新しい視点を触発するために、歴検を毎年受けて試験問題の復習を楽しんでいるという一面もある。まぁでも合格してるとそれはそれで嬉しいんだけどねぇ・・・ゴニョゴニョ・・・。
 官展に毎年心血を注いだ作品を出していた芸術家たちも、こんな心持ちだったのだろうか?

 ちなみに田中一村、1月6日のNHKEテレ『日曜美術館』(午後8時)で再放送が放映されます(急)。
 裏の大河ドラマ『いだてん』の初回放送とかぶっちゃうけど、興味がある方はどうぞご覧あれ。